オセロ
死して解放された黒田は自分を取り戻し、やがて時間を取り戻す。そんな中、蛇の一端、白上との邂逅があって、人間界への復帰があって…
今回も世界観欠けてるかもしれない
「そうだ。先日は、話の中とは言えど急にポックリ逝ってしまってすまなかった」
「嘘じゃなくても信じる人いなくなるんじゃない?」
「あと視点変更もあります」
赤黒い空に見飽きてしまった。半分と少し呑んだ珈琲に空が映るのは不愉快で、今すぐにこの容れ物の硝子を叩き割る衝動に駆られる程である。
焦点を眼下遠方に拡げれば、よろめいたり躰を引き摺る骸や、あてもなく揺蕩う幽霊たちがつまらなく終わりのない戯曲に筆を奔らせていた。
僅かな倦怠感が身体に錘を置いていく。もう空色の晴天を眺めてから何年たったかすらも、分からない。
しかし不思議なことに、私(白上)自身、あまり躰の変化がない。ただ肌が多少白みがかったのと、意思を統べる事が増えただけである。
「白上理事、次は私達の街の開発計画のことをよろしくお願いします」一つの幽霊が、白上に依頼をした。
「そう焦るものでもないじゃない。既に死んでる訳だし」
「どうにも皆せっかちで…」革新に鼻の利く連中はみんなそう速さを求めるが、そんなに時間がこの空間において重要なのだろうか?
「まあ、同じ立場ならそう言っていたかもしれないが、私とて忙しい。待つのは得意であろう?」
「承知いたしました」幽霊は再び元の場所へ戻っていった。残念そうなその背中を憐憫の目で見送った。死者のせっかちは生者に劣らない。その事実をこの期間ではっきりと理解した。
その後、全身で欠伸し、自分の書斎に向かった。引き出しの中には、夥しい数のメモリーカードが入っている。死者の戸籍と、死因帳、現在の腐敗進行状況、などなど事細かにそれぞれ書き記されている。ハッキングにはカウンターウイルスを対策として採用しているため、情報が脅かされる事もない。ウイルスそのものが法律で禁止されている世界では出来なかった芸当である。
反応の悪くなったキーボードの機嫌を伺ってから、組み立て直しも視野に入れる。こんなにも調子が悪いと、虫酸が走る。
ふと、ドアをノックする音がする。長らく聴いていなかったがこの叩き方には聞き覚えしかない。間違いなく…
「黒田…」そう、死んだはずの黒田がこちらに戻ってきた。
「よう、白上。帰ってきたぜ」
「どうだ?ジジイに束縛された気分は?」
「癪」反射的に黒田は言い放った。
「途中で殴ってきたジジイ、あれ実はね」
「まさかあれが頭領だとか言わないよな」
「そのまさかよ」白上も頭を抱えていた。
「要するにあれが相互転生を解除できる唯一の好機だったわけか」
「あの状態でしか殺せる機会はなかったのに」
「畜生、なんでこうも…」
実際、黒田と白上の頭領は名すら明かさないが、全ての死神と輪廻の蛇を統べる頭領である。戦うとなればRPGで言う所のラスボス、いや、裏ボスですら遥かに凌駕した負けバトル確定の相手だと言っても過言ではない。
「このままでは、また長い孤独にお互い苛まれるわ」
白上と黒田との間には、決して共存出来ない掟が存在する。同じ世界、人間界あるいは冥界での同時存在は1週間が限界である。そして共存後は30年に渡って会えなくなる。その掟が不服極まりないが、これには理由があり、二人が揃うと、仕事に支障をきたすからである。まあ白上があんな様子だし、黒田はとっとと上層部に滅んで欲しいと思っているので、二人揃えば世界は完全に二人の思うがままに出来てしまう。世界の支配権をまだ保持したままでいたい上は、それを理由に二人の共存を許さない。まるで抑圧は恐怖からの行動であると、身をもって教えているようではないか。黒田は鼻で笑った。
話にひと段落ついた所で、白上は黒田に会った時から気になることを黒田に訊いた。
「あの子達は?」
「出掛けさせてる」その一瞬、白上は雰囲気を変えた。
「そう、じゃあ邪魔は入らないんだね?」白上の表情はだんだんと豹変していき、16の見た目(本人主張)とは到底思えないような悍ましくも美しくもある微笑を見せた。
黒田がものを言う前に白上が黒田の首筋に噛み付いた。
「気分はどう?」
「………………....」黒田はもう殆ど身体が動かない。それは口も声帯も同じだった。
「もう喰らい尽くすまで離しはしないんだから…」妖艶さと狂気に満ちた白上は黒田を舐め回すように眺めた後、自分の操り人形を自分の巣で心ゆくまで搾りあげた。白上は人形を離すまで、終始笑みが離れなかった。今宵の月は彼女自身であった。
黒田が目覚めたのはそれから少し経ってからだった。その時の黒田は、白上に毒を回されてから今までの記憶が欠けていた。蛇が蛇の毒にやられるなどと言う屈辱は、黒田にとって耐えがたいものであった。
「いやーすっきりしたわー。たまにはあんなのもいいなー」白上は上機嫌で、鼻歌まで歌い出している。あの笑みとともに。まるで子供である。
「昨日俺に何をした?」
「アレ?わかんないの?」白上は可笑しくて笑い出した。
「あれだけ私を貪っておいて?」
「お前に操られてただけだろ」腰と延髄が重いあたり、もう仕方がないか。
「いやぁ、こっちとしてもごちそうさまー」やめろ、俺が恥辱で死ぬ。
「誰もいないし、別にいいんじゃないかしら?」その目は未だに獲物を狙う目だ。
「まだやるつもりなのか?」
「まだ私は満足すらしていないわ。ほら、私をもっと愉しませなさい…」
「足りてないのか…」
「35年もああして欲求不満を貯めるんじゃあないねぇ」
「他に相手は?」
「同じ種族じゃないと鍵が合わないわよ」
「…………」
「さっきは35年なんて言ったけれど、ここは時計をを見ないと時間の間隔がまるで分からない様な場所だし、私には余計に長く思えたわ…」
「寂しがり屋の子供かお前は」
「見た目は16だし、許容範囲ではあると思うよ?それに…」
「?」とりあえず16は無理があるけれども…
「実際、同族がいないこともあって、皆が周りにいても、寂しかったのは事実ね」
「涙をためるほど悲観することでもない。また会える時が来るんだから」
「まあ、この話はこの辺にして、聞き忘れてたけど、人類の脳天が変な方向に行ったんだって?」
「まあ、そうみたいだね」
「原因はもう分かってるんでしょう?」
「バカが生物兵器作ろうとかいい出した結果、脳に入ってバカにする毒素を分泌するウイルスが出来た」
「みんな頭の悪い人になったのね」
「札束は紙束呼ばわりされてるぜ」
「勝手に人類滅んでるし」
「恐竜とまったくもって変わりないくらいひでぇや」
「あの種族は派手で無残な争いの時じゃなければ進歩しないからねぇ」
「ふっかける側の赤ん坊加減と応じる側の導火線の短さがそういった争いを次から次へと雨後の筍も置き去りにして多発してやがるくせにポックリ素早く逝っちまう」
「なんか可愛い」
「この視点なら、そう思うのも分かる」
「人間界に行く時は、この記憶を持っていければアタシは二つ返事だったわね…」
「何とか代わってくれないかね」
「出来ないものはできないわ」
「いいや、あと10年経ったらで手を打ってくれませんかね」
「妥協点にするしかないかぁ…」
「よかった」
「記憶が持ち込めるように上に働きかけたるのは正秋的にどーよ」
「さて、どうだか。あといきなり下の名前持ってくんな真春」
黒田はやがて息を吹き返す。理性の枯渇した世界。虚無の砂漠。人はいつしか人ではなくなり、時は戦乱の記憶さえも、置き去りにした。
無論、日本も例外ではなく、容赦ない下克上が混沌を齎していた。
「退屈だなぁ」再度石器時代を迎えたような地球人類達を前に、己が身に訪れる退廃を戻して止めた黒田はただ欠伸をした。時間にバグが発生し、黒田は18才になってしまった。
「うわっさっむ」他の二人とともに冥界旅行巡りから黒田の故郷に帰還した久恵は、半袖の中、身体を抱えていた。氷河期を迎えて星はいずれ凍てついた水色へと変貌するだろう。
「カイロ、凍ってる」未来は肌を震わせながらさっきまで使っていたカイロに水が凝結し、凍てついた事を訴えていた。紗都美は声も出ない模様。
しかし、まさかあの熱帯ですらも、温帯か冷帯レヴェルまで冷えて来てるなんて、誰が思うのだろうか。まさしく予想の遥か外周であった。
標高千米ともなる故郷では、最早吹雪吹き荒れ、夏であろうと気温は10にも至らない。冬などは、どんなに強意の言葉を乗せた形容詞ですらも鼻で笑う寒さである。
「私を芯にして雪だるまでも作ろうって事ですかね…」
「どっちかっていうと氷人形だな」紗都美は寒いのが苦手で、常に長袖を着用しているのだが、それでもまだ足りないので、小型の太陽などと大袈裟な謳い文句がパッケージングされたヘボいカイロを腹の大動脈の上あたりに、巻いてあった。それだけしても寒いのは本人も寒がりを自負していたから分かる。
気づかぬうちに、喉が渇きにへばりつく。飲み水はもう回らない。時間は黒田の手の上にあるが、山ほど制約がある。例えば、生物の誕生だけは止めようがない。
取り敢えずここら辺(村が属する国あたりまで)の時間を戻して、ここの人類だけでも蘇らせる事にした。
「不便なのは御免だ」そうやって何か言葉をぶつぶつと言い始めた。すると、4人を取り巻く時計の針は左回転を始めて、多少狭間の時間は歪んでいるけれど、再び平常が戻って来た。外部の状況は空気が圧縮され質量と密度という点において非常に視界を阻みやすく、人間は通りにくく押し戻されるようなシステムになっている。無論物流はそのまま。記憶は外国の再生が終わるまで国内一色に塗り潰す。それまでは資源の平等な分配の手続きを数10年で済ませる作業となる。輪廻の蛇とて時間は有限である。何せ、信仰していた宗教、崇めていた精神、渡って来た技術の祖がまるまるない事がわかれば大騒ぎである。
「とりあえず洗脳洗脳っと」
「その言い方やめろ」
「それにしても、ここは眺めが全く変わりませんなぁ」紗都美が大きく息を吸い込んで言った。
「変えてないし変わってたら怖い」
「あっはい」
「元に戻るまでは?」
「ざっと15年」
「ながすぎない?」
「それが限界なんだし仕方がないよね」
見渡せば、人間達が淡々と、見えぬ糸に四肢と脳を持ち上げられたマリオネットが如くいつもの動きをしていた。見えない変化は訪れているのであろうが、この目を凝らしても無理がある。外界との接点に異を覚えるのはごく僅かでその僅かも知ることに歩もうとはしない。限りなく消極的な演目をこなす人形劇
にも見えて、愉快だとも思えなくなってしまった。いや、普通か。
かくてねぐらに戻った黒田。無表情のまま手を合わせ、他社の供養に奔る。白上のデータブックをコピーして入手していた黒田は、全国各地を走り回り、仕事を片付けていった。10数年すっぽかしたことになっていたので、数万件にもわたる墓地巡りをする必要が出来てしまった。仕方なく、雇い人を増やした。なかなか来なくて困り果てていた時に、やって来たのは、寡黙であどけなさがどことなく残る少年。確か名前は、鸛崎 彰だったか。仕事においては文句の付け所が存在しなかったので、特に黒田も口を開かなかったが、何かを悟ったような瞳をしていたために、黒田は不思議に思うばかりであった。普通の人間でないことを見抜かれているのだろうかと思い、ある日、問いを投げた。
「どうしてそう常に落ち着いていられるのだい?」
「いいえ、私の瞳を見てその解釈に至ったのでしょうが、私は私の境遇に諦めがついたのです。だから、ここでこの先の生涯を使い果たす事に、何ら異議を持たないのです」
その時、黒田の脳内ではさまざまな疑問が交差した。なぜ捨てる必要がある?そもそもなぜここに来る必要がある?なぜ教養を身につけようとしない?私のような身でないならば、なぜ?屍になるまでに、まだ人間にとっては山ほど時間があるではないか。
それから、黒田は自分の境遇に想いを馳せた。だが、鸛崎との共通点がなんら見出せないことに苛立ちを感じていた。
「私は、病を抱えていました」青年は言った。しかし、履歴書には何も書いていなかった。矛盾が広がっていた。
「身体の病ではありません。鬱とかそういった類の、心の病を身に抱えていました。その病は端的に言うと、」
「孤独とでもいうつもり?」久恵が口を挟んだ。めんどくさい男だと、顔が主張していた。それは、黒田と初めて彼女が出会った時と同じ顔だった。
「そんなもの、自分から関わらないと何も変化しないんだからカタブツは勝手に死んでればいいのよ」
「悪舌の極みです、少し慎みなさい」紗都美は青年に憐憫を抱きながら、久恵に注意した。久恵ははいはい、すみません、と平謝りするような口調で、
「言いすぎたのは認めるよ、だけどさ、何をもって孤独とするかで、ものは変わるものじゃないかね?」
「…昔もこんな話してましたね」
「くだらないって結論で終わったのは覚えてるわ」
「ほんとこの手の喧嘩は決着つきませんね」
「殴り勝った方が正義ってことにするか?」久恵が目に殺気を宿した。
「「やめて(ください)」」止めたが、止めるには遅過ぎた。
瞬時に二人の脚が交差した。直後に互いが互いの腕を掴み、掴まれた腕は脇腹を的確に狙っていた。その一瞬の隙を黒田は狙い、両者の拳を掴み、握り潰す勢いで力を入れた。二人は顔をしかめ、飛び退こうとしたが、叶わず襟首を掴まれた。黒田は二人に退く以外の選択肢を用意しなかった。
「ここらへんにしろ」他のパーツに一切の変化がなかったが目だけには怒りが宿っていた。
「なんの騒ぎ…」未来が起こされた事を不快極まりないと瞳で訴えた。
「ちょっとした喧嘩さ」
「最近やらないから安堵してたのに…」
「まあ、放っておけばまたこうなるだろうな」
「酷い時は年がら年中、どっかから日本刀持ってきたり銃持ってきたりほんと懲りないね」黒田は二人の襟首を掴み、ちょうどあったソファーに足の方から投げつけた後、落胆に肩を落とした。この状態でも腕力は大して健康な一般人(を勘違いした黒田によってアスリート)と遜色ないようにしている(人外である事がバレるといろいろやりづらいので能力は見せたくない)とはいえ、流石に女とはいえ2人を10数分にわたり持ち上げているのは辛い。ここで題は少年に戻った。なぜそもそもここに来る事を選んだのか。まずそれを問うた。すると、
「ここには僕と似たような人がいる気がしたので」というなんとも訳の分からない返答が返ってくるのであった。墓の番人くらい、誰がやったって可笑しくはない。そもそも、誰の伝手でここを見つけたのか、そもそもそこからではないか?黒田の頭には疑問符が連なる。
ズレている。ここに理にかなっている奴はいない。そしてこれからも決して来ないのだろう。黒田は明日に想いを馳せた。ここに太陽が寄越す熱量は如何程であるだろうか。アスファルトは凍ったままでいるのか。そして、いつ自分たちが仕事の終わりを迎えるのか。そして、いつ、白上と逢えるのか。
「外なんて見て、何になるのよ」
「ただの視点固定だ」
「何か思う所があるの?」
「まあ、ある」
「どうせあの白髪のババアのことでしょ?」
「30年後覚悟しとけよ」
「どうせならもっと世界を自分好みに作りかえてしまえばいいのに」
「別にいいけどね、例えばの話ね」黒田はそう言って、いい例えが無いか模索した。
「あるコンピューターゲームがあるじゃん?あんたはこのゲームについて自由なカスタマイズが出来るとして、その調整用のツマミが目の前に1万とか2万とかあった上で一つ動かすたびに目の前が揺らぐ状況ら、疲れない?」
「それは疲れるだけだわ」
「だろ?だから面倒くさいと言ったんだよ。それになぁ」黒田は続けて言う。
「一度ツマミをいじったら、俺の記憶の改竄も知らないところでされてるみたいだ」
「ラグの抑制かい?」
「そんなところでは?」
「何の話をしてるんですか?」しまった、ここには今は鸛崎がいる。無闇にあの話を持ってくる訳にはいかない。
「………僕がいると言いにくいですか。僕に対する陰口なら僕は大して気にしませんので、ご自由にどうぞ」
「違うよ。君が何者か気になったからちょっと追跡でもしようかなと思って」久恵がとんでもないことを言った。
「それはストーカー規制法に引っかかる案件です」鸛崎がツッコミを入れた。
「それにしても、鸛崎君はただの人間には到底見えませんね」紗都美が解剖する魚を見る目で見ていた。まるで人に親を屠られた犬のように、鸛崎はただそれに怯えるばかりであった。
子供の相手に慣れていない、ましてや思春期という精神的な黒冬を抱いた人間の雄に、紗都美はなすすべがなかった。黒田が自らの誕生に想いを馳せていた時もこんな感じではあった。この時期の感情の染まり方は、人間の心理学を専攻していた頃の黒田ならば熟知していたはずだったのだが、もう記憶の中から完全に消え失せている。しかも自然な焼け落ちであった。たとえ外部からの多少の干渉があっても、もう二度と回復することはないだろう。胸や左手首の傷の痛みと同じだ。
しかし、この鸛崎を目にしていると、怒りばかりがこみ上げてくる。黒田は、長くてもせいぜい90年しか生きられないような人間、さらに言えば65年しかまともに動かない人間が、命を軽んじているのが、癪であり傲慢の極みであると認知している。かつて、まだ黒田が戻る前、無力だった追放期、タコ殴りにされた挙句、「こいつには生きる価値もない」などと宣う輩の頭を本の背で叩いたら、先生にその瞬間だけ、捕捉されていた事があった。しおらしく頭を下げてその場を切り抜けたが、そこで黒田は猫をかぶる難しさをそこで学んだのであった。
黒田はこの時次に生を愚弄した者に会ったときに対する制裁は、いかにしようかと思っていた。やがて枯れるのなら、お互いの幸福を質的観点から最大限に引き出す事は出来ないのだろうか?黒田にとっては人間をこの理由一つで嫌うほどに、人間の衝突を生むまでの利己に憎悪を抱く。だが、黒田にはそれを止めようとする気はない。自然滅亡を見届けるか、人間がわかるまで、黒田は何もしない。理由は無論、上からの干渉である。これさえなければ、黒田はもう少し正直に動けるのだが…上層部の情報は一切入ってこない。ただ、古典的極まりないその規則を破った際の制裁は、黒田が一番よく知っている。この制裁こそ、記憶強奪の末の冥界追放。黒田が食らった業界の中で二番目に厳しい制裁である。黒田は墓守を続けならも、人間界の監視、冥界の発展に寄与する精神を絶やさなかったが、世界構築の根本、そこに住む者たちの記憶の改竄を勝手にやったことが咎められて以降、いるかもわからぬ上部の者を恐れる他ないのである。やがて敵となる日が来た時に、黒田はいかにして相手取ればいいのか。
18才の躰であるから、肉体疲労は癒えるまでに時間を老体ほど要さない。精神疲労も昔ほどひどくはなくなったので、フットワークは常に軽い。そんな足で行った慰霊巡りも50000件になるまで時間を要さないだろう。
そんな中、ふと仕事帰りにニュースを見たら、老齢人口55%、生産人口30%じゃあ老化も極まったか。そんな事を家族同然の仲間たちと話しながらも、こうしている間に話せない、もう一人にも思いを馳せる。近くを眺めているのに、遠くを眺めるような目で、誰もいない所に瞳を向ける。ずっと一緒にいることが出来れば、こんな思いはしなくていい。
一度逢いに行けば、その後場所を変えるか15年経過するか(この時間だけは上の圧力で早送りやスキップ不可)しかないので、どうしても心に風穴を開けた状態を動かせずにいる。そんな状態の黒田に対し、久恵は嫌味交じりの心配の旨を黒田に伝えた。
「私はお前の何だ?孤独消しの抱き枕じゃねぇのか?」
「何を言い出すのやら」もはや眉すら動かさない。
「従属的立場の人間からすると、黒田が今、どうしたいかが分からないのよ」風呂から上がったばかりで、湯気は点心のそれと大差なかった。
「上部組織の壊滅。白上との邂逅。そのために何をすべきかを知りたいのさ」
「どこにあるかもわからない組織ですからね、捜索は困難を極めるのではないでしょうか」紗都美は毛布にくるまって珈琲を啜っていた。未来は炬燵の中で使いものにならなくなっている。
黒田の部屋を気だるさが覆っていく。ストーブ、炬燵、風呂、各々が自分のやる気を置いていく。眠る前のこの時間は黒田の大好物の一つである。理由は簡単。思考放棄が出来て人役の演目を奏でていることを忘れられる。この演目は黒田にとって精神がゴリゴリ削られるヨゴレ仕事の類いである。自分で嘘をついているのに、他人の嘘など咎めようがない。本当はそう言いたいくらいだが、人外に住みにくいこの世界で人の仮面を外すのは不可能だろう。大体人でないことの証明なんて、要らない2メートルの尻尾を生やしたり(とは言っても尻尾だけで立てるという特技はあるがまず使わない。2.5本目の手としては機能するかもしれないが。)、3人に瞬間的に情報を伝える程度である。精神の死が訪れると、巨大な蛇になることもあるらしい(本人に記憶はないのであくまで3人の目撃談)。それで暴れまわった伝説がなぜか異国の文献に載っていた。その蛇の目を見たが、完全に狂気に染まっている。瞳孔が開いたままの目でいる大蛇は、一つの文明を蛇神信仰に陥れたという経歴があった。その時代から、彼らの輪廻の中でこの地球は回っていた。黒田たちの墓地巡りの始まりは死者達の昔話を集めて回る時間だったので、真実は二人の掌の上であった。骸は物知りである。
しかし、真実を握り続けるというのは、黒田にとって苦痛の極みでしかなかった。信じたくはないこと、教科書と記憶のラグ、英雄の仮面の裏、狂気の殺戮者の心中など、壊して奈落に導こうとする手が無数になって黒田の心臓に襲いかかるようになったのは、はるか昔の戦争を巡って慰霊をしていた時の事であった。
死者の声は富への架け橋かと思えば、人間の穢れきった心が見えたりして、とにかく辛かった。処刑が市民パーティであるような感覚の世界や、魔女狩りの世界、兄弟鏖殺の世界、その他にも沢山の世界が、黒田の記憶の中に刻まれている。
一話は要するにすべて黒田の刑期の話、ということです。