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蛇の双眸  作者: 匿名
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墓守代理人の苦悩

誤字脱字に注意。

「で、どこから話し始めるのさ」

「ちょっくら重い罰を背負った時の話でもするか」そう言って、蛇は物を語り始めた。



「はい、黒田です」

この電話も何度使ったことか。

墓守代理人の仕事を手にした黒田(34)は、高齢化社会において非常に忙しくなっていた。少子高齢化が凄まじい勢いで進む日本において、墓地の管理というものも手に負えない高齢者や孤独死する人間や自殺する馬鹿が増えた。そんな状況だから、碌に睡眠が取れず、目にクマが出来ていても、彼の電話は鳴り止もうとしない。

どうにも、黒田は中高で少し浮いていたため、世間で言うところのコミュ障(コミュニケーション障碍)になってしまったのである。ゆえに、彼は仕事の協力者を募る気も起こせず、漆黒のスーツを見に纏い、ただ、淡々と線香を並べ、水をかけて、手を合わせるのである。

彼は特にどの宗教に入っている訳でもなく、神を特に尊重している訳でもない。彼は幼少期、様々な宗教を学んだが、彼はやがて、神は見える人には見えるが、自分とは縁のないもので、神は皆違うように見えるだけで実は一人なんじゃないかという結論に至った。

そんな宗教のしがらみが面倒になったので、彼は考える事をやめた。考えれば考えるほど面倒になる。そんなことを考えると日が暮れて夜が明ける。考えないに越したことはない。

彼が墓地へ赴くと、最初こそ怪訝がられていたが、今では皆流している。無論、最低限の挨拶はする。だが、世間話を彼は全くと言っていいほど知らないため、話の種がないのである。彼は、これは認知症に悪影響なんじゃあないかと考えるが、考えたくなくなった。

そして今日も、彼の下に依頼が来る。

《2月28日(土)》「在河原町か、どのルートで行こうか…」

そんなことを呟いていた頃に、職場のインターホンが鳴った。ドアを開けたら、若さ、いや幼さすら滲み出る女が一人、彼の下にやってきた。

「ここは君の来るような場所じゃあない。場所を間違えたのかい?」

黒田がそう言うと、彼女は履歴書を黒田に渡した。

「年齢詐称は良くないよ橘 久恵さん。それに、この仕事は並の人間の感情が残ってたら出来ないよ」

彼女はため息を吐いて免許証を出した。そして、

「これで信じてもらえただろうか」

と少し呆れ口調で言った。

「わかった。少し待っていろ。何か黒い服があればいいが」

黒田が作業服を探していると、彼女は鞄の中から黒いスーツを引っ張り出した。

「あるのかよ」

しかし、同僚がこの仕事で出来るとは彼は全く考えていなかった。彼は内心非常に驚いていた。驚いても表情一つ変えない彼が目を見開いたのである。

「もしかして、私が来たのが信じられないとか?」久恵は言った。

「ああ、正直、とても驚いている。君の素性が不思議に思えるよ」

「私はただ、あてがないだけですよ」彼女は遠い目をして答えた。

「まず、ここがよく分かったな」黒田はストレートに言った。

「私も、死んだ父母の墓を訪れるから、よくそこで話を聞く事になるんですよ。そこで場所を聞いたら、ここだと」

「はえー」黒田は馬鹿正直に驚いた。「つまり、みんな俺の仕事を知っていると」

「知らない人は少ないと思います。でも、誰も近くでやりたい人がいませんでした。これは自己満足になってしまうかも知れませんが、あなたの所で働いたら、何か生きがいを感じるのかなと」

「そりゃあ構わないさ。と言うわけで、いつから私と同行するって?

「明日から、いいえ今日からです」

「みなぎってるねー」

「で、まずは何処へ?」

「在河原さ」

「山だらけのあそこね」

「まあ、そうだね」

「行きますか」

「早っ。まだ道具が…」

車中では、会ったばかりで特に話す事も思い浮かばないので、現地へ沈黙を引き連れたまま直行していた。

黒田は久恵を内心恐れていた。どうにも素性がわからない奴は怖い。女だから余計怖い。彼は様々な事に恐れをなしているが、今回また恐れるものが増えた。彼は彼女に対して仕事の核を任せる訳にはいかないと思った。彼女の参加は、私にとって、特に何の変化ももたらさないだろう。そう考えていた。私は私の仕事を。

そして、現地に到着した黒田は仕事道具を取り出した。仕事道具といっても大したものではない。線香と、掃除道具と、両手くらいで、たまに墓石を購入するくらいである。もう一年で普通の人の5倍くらいは手を合わせている謎の自信があった。流石に僧侶などの慰霊専門職に比べれば劣るが、それでも見知らぬ人々の墓の前で、手を合わせてきた。名前は重要ではない。ただ拝みに来る人間がいるか否かという事実のみが重要なのであると彼は考える。

人の死という事実は、時と共に喪失と忘却の狭間に落ちていく。彼はその残酷な現実を少しでも緩和しようという意思と共に、この職業に就いたのである。それでも、まだ忘れ去られる人々がこの国の内外に溢れかえっている。その事実を前に黒田は何もする事が出来ず。ただ無力感に苛まれるばかりの時代もあった。そんな事があっても、彼は少しでもと、この仕事を続けるのである。 慈善行為を行っていれば、忌まわしい過去を忘却に持っていく事が出来る、そう彼は思っていた。

しかし現実はそうはいかない。その時の事がぶり返して来るときもある。その時は睡眠という最も手っ取り早い現実逃避を使うのである。

大の男が何を、と言う連中を彼は忌み嫌っている。彼のような職業をしていると、碌でもない戯言を吐く者が後を絶たない。それを間に受けやすい彼にとっては非常に心を痛める要因となりやすい。人並みにSNSを使っていた彼は、劣等感に苛まれる事が多かった。今では無表情になっているが、自殺すら考えた程である。

「また随分辺境に墓地があるもんだな…」

「墓地だからね、仕方ないね」

「こういう所の墓地ほど荒れるんだよなぁ…」

「人の死も墓石も風化していくもんね」

「虚しいこと言うなよ」

「さあ、仕事を始めますか」

黒田は線香に火をつけた。そして彼女に渡した。やはりこの久恵という女、20には到底見えない。黒田には15か16くらいにしか見えないのである。さらっと近くの人に挨拶を済ませ、水を墓にかけて手を合わせた。これで仕事が一つ済んだ。次へと向かうルートを模索する最中、親子か訊かれたが、あくまで仕事仲間であると断った。やはりそう見えるか…とため息を吐いたあと、今日何回目だか数えた。

次に向かう最中、久恵は、

「これで何年やってるの?」と黒田に聞いた。

「16年目だな。仕事が増えたのを痛感するよ」

「ふーん」

「……………………」流されたのがちょっと鼻についた。

「あら、怒った?」

「癪にさわる」

「もう着いたよ」

「はぁ…」黒田はこれからを案じた。面接とかしておけばよかったと内心思った。正直彼女を雇ったのは彼にとって何の得があったのだろうか、これも自分勝手な良心の一つなのだろうか。またか、またこれか、また悪い癖かと心の奥で地団駄を踏む。

そして次の目的地にたどり着く。ここでもやる事は変わらない…と思っていたら、墓が荒れている。これは石買い案件だ。また主人が死んだんだな。子供がいないから荒れるんだろうなぁと、この国の少子高齢化を嘆くのであった。

は、いいとして、現地から石を取り寄せるのは面倒である。この石は…あれか。黒田には見覚えがあった。墓石の保全は確かあの店の仕事だったと思うが…まあ、頼む奴がいなくなれば、必然的に彼にお鉢が回ってくる。黒田はそう思うとため息が止まらないのである。

「クソッ、こんな山奥に石を運ぶのは何年経ってもつれーのなんの」

「一人だったもんね」

「まあ、一人だったからね」流すことだけを考えた。この女、悉く黒田の逆鱗のすれすれを通っている。自覚はある…はずはないな。

「帰りが遅くなるか…」

「夕メシは?」

「おい、読者がためしと読むかもしれないだろやめろ」

「夕飯でも一緒でしょ」

「えっと…うん、そうだな」仕事に集中するしかあるまいと、もう黒田は諦めていた。

「次だ次。さっさと次いくぞー」

「はいはい」

「帰ったら(コーヒーを)飲まずにはいられまいな…」

「酒じゃなくて?」

「飲む気にならん。依存性はもう懲りた」

「ふーん、で、この前は何に依存してたって?」

「ゲームだよゲーム」

「依存する奴に限って上達しねぇ」

「」

「図星だったようね」

「否定はしない」

「モン●ンでしょ。あんたの部屋にゲームソフトが置いてあった」

「そうだな、いつお前が部屋に入ったかは知らないけど」

「ハンターランクは200前半。全盛期の私の4分の1じゃない」

「えっ」

「私もやってたのよ」

「そうじゃなくて、いや、その、え?」

「全武器全勲章全レア素材を揃えるのはホネだったけど、まあ、なんとかなるわ」

「はい?」

「プロハン様()と一緒にせんで」

「恐ろしい子…!」

「もうやめにしよう」

「そうだね」専用語の使い過ぎで読者を混乱させているかも知れない。こいつら自覚あんのか。

次の仕事もさらっと済ませ、帰宅。コーヒーを一杯飲み干す。最早日付けを通り越していた。

「ふう、やっと休暇だぁ」

「お疲れ」

「夕飯どうしよう」

「作ろうか?」

「もしかして作ってくれる感じ?」

「花嫁修業の類はした心算」

「結婚とか考えてないのかい?」

「私も80年前だったらそう考えていても不思議はない」

「そうか」時代の変化が進んだが、やはり女の自立には労力を要する。現状は変わっていない。そんな中だから、彼女のここに就職するという選択は不思議でならない。

「貴方もそれなりに料理はしてたみたいだけど?」

「外で飯を食うといかんせん金が飛ぶ」

「わかる」

「冷蔵庫いろいろ入ってんねー」

「無駄にしないなら好きに使ってくれ」

「期限とか気にしないの?」

「熱すれば何でも一緒だろ。腐らねぇ限りは」真っ先に食中毒になる奴の口上にも思える台詞を吐いた。

「それな」遠目に見ても主婦にしか見えない格好で言った。

「さて、何が出来るか楽しみだ」

「出来たよー」親子丼を両手に彼女がやって来た。どこまでも主婦である。見た目だけ。童貞抹殺はお任せあれと言わんばかりである。

「なんか凄くうまそう」

「出汁を一ヶ月ちょい研究したから、味は保証するよ」

「マジかよ」

「マジです」

「暇人だったんだね」

「失敬な!これだって花嫁修業の一つだよ!」

「スミマセンデシター」

「まあいい。食べな」

「頂きます」

「はい召し上がれ」

そうして親子丼を口にした。瞬間、脳髄に衝撃が走る。今まで食べて来た親子丼とはランクが違う。確かに、親子丼は親子丼なのだが、玉子と鶏肉の比率、出汁、食感、全てにおいて黒田の想像するそれを遥かに超越し過ぎていた。

「冷蔵庫にそんなに高価な食材は入れてないはずなのに…これはガチで修業していたと認めざるを得ないな…」

「無論、そうよ」

「料理人の選択肢を蹴ってまでこっちに就職してくれたとなると少し申し訳ないな…」黒田は遠い目をして呟いた。

「これは私の選択よ。後悔なんてないわ」

「そうか、なら良かった」黒田は親子丼を平らげて言った。

「うん、ってか、もっと味わって食べようとか思わない?」彼女は目以外は笑って言った。

「俺的には味わって食べた心算なんだけどなぁ」

「そうか、満足してくれて嬉しいよ」彼女は純粋に、嬉しそうだった。

「飯は任せていいかな?」

「そんじゃ洗濯はよろしく」

「他も任せてくれ」

「いいのかい?」

「一人暮らしだった頃に心得は大体」

「そう、それなら安心ね」かくして二人はほぼ家族同然になった。

「明日は休暇だからゆっくり休もうか」

「せやね」

「おやすみ」

「お休みなさい」かくして冬と春の暦の上での境目を越した。黒田の仕事はいつまでも変わらないが。でも、彼女が来てからは少し楽になったような気がした。やはり家事が出来るって偉大。

《3月1日(日)》翌日はゆっくりと家事(家兼事務所だが)をしながら休息を取った。同業者だからこそなせる業である。馴染むのが早い気もしないでもないが…余計なお世話だろう。

「さて、一通り済んだけれど、まだ俺がやる事ある?」

「特に何も」

「なら、少し寝るか…」

「ん」

「お休み」

「お休みなさい」

「zzz…」

そして数時間寝た後、地図を見て次のルートを模索していた時、ある事に気がついた。

「寝てる…」彼女も眠っていたのだ。黒田は彼女が眠っている様が珍しく思えて、少し見ていた。普段着を見る機会があまりないので、新鮮だった。耳が捉えるギリギリの音量をした寝息に、黒田まで眠くなってきていた。しかしあまりに寒そうだったので、布団をかけてやった。その後、書き置きを残し、少し買い出しに出て、帰宅する。その時には久恵はすでに起きていて、彼女の見た変な夢の話を聞かされた。

久しぶりにこんな平凡な日が巡ってきたが、黒田にとっては彼女がいるという事が未だに信じられないのだ。

まあ、それはさて置き、古ぼけたテレビのチャンネルを回していても、どの議員がこう言ったとか、この組織がこうだとか、この芸人がその有名人と関係がどうとか、そんなことばかり言っている。飽きた。バラエティ番組も碌なものがなく、一発屋が現れては消えの繰り返しを、延々と続けている。つまらん。

日暮れになり、やる事がなくなった黒田は、何故か今まで職質された回数を思い起こした。交番の人間とはもうどこへ行っても顔馴染みである。あの格好では職質されても仕方ないかと小さくため息を吐くのである。通年黒服なので、職質が絶えない。それは仕方のない事だと分かっていても、面倒だ。身分証明書をいちいち提示するのはとても面倒な事だと、警察は理解しているのだろうか。それとも、私の事を知らないのではないか?知らないとなれば貴様らの名を覚えておきたい。貴様らの墓は避けておいてやるよ。勝手に死ぬがいいさ。そんなことを頭に浮かべては沈めるのだ。ため息の源は尽きない。

「どうしたの?そんな顔をして。眉間に皺が出来るよ」

「出来るまで時間は要らないよ…」

「ははーん、さては、作業着で職質を食うのが嫌なんでしょう?」

「君には敵うまい」最早驚きを通り越していた。聡いのか超能力者かさっぱり分からない。とりあえず聡いって事で。

それから夕飯を久恵に作ってもらい、洗濯物を黒田がたたみ、そして寝るまでの猶予に小説を読み干して、雑談を交わし、布団に入ると爆睡した。これで休日が終了する。そして、寝坊する危険を察知し、目覚ましをかける事をこの時の彼は忘れていた。

(3月2日《月》)翌朝、彼女は黒田を物理的に揺さぶっていた。

「おら起きろや責任者さんよォ!」

「zzz…」

「こいつ、爆睡してて、全く起きねぇ…チィッ、こうなったら…」何を思ったか、久恵は黒田の耳許へ顔を寄せ、

「抱いてあげようか?」しかし、起きない。

「なに…やつだ…我が眠り…妨げる者は…」尊大な寝言が返ってきた。そして…

「……………………ん?」樽沖はやっと起きた。

「ん?じゃないよ!時間を見てよ!」

「しまった!」

しかしその慌てようとは裏腹に落ち着いている。長年の生活で寝坊からの復帰くらい容易い。故に速い、途轍もない速さで準備を整えている。結果、いつもより5分速い出発となった。目覚ましをかけておけばとか絶対に言わせない勢いである。アニメだったら残像が見えている。そのレヴェルである。

「行くぞー」

「あんたが遅れたんとちゃうんかいっ!」

「すみませんでしタァッ!」

「そもそも…」久恵は腕を組んで足をダッシュボードに置いて、鬼のような形相をして、

「あんだけ手段を使い果たしたのに、なんで起きないんですかねぇ!」

「申し訳ありませんでしタァッ!」黒田は怯えながらも、彼女が怒ることに対し新鮮さを感じていた。失礼極まりないが…

さて、そんな喧嘩があっても、線香はあげるし、手は合わせる。無論、石買い案件だったら石を購入する。今日は特に石買いはなかったが、耳打ちをする人が多かった。人相が悪いのか、それとも黒服であるからか。

「みんな好きだな、耳打ち」

「耳打ち依存症の方々はやめられないのよ」

「耳打ち依存症て」

「参観日にみんなやってたしもう…ね。」

「ケバい化粧してたBBAが参観日に人の育ちに対して耳打ちしている絵面は最早俺の脳内でテンプレートと化している」黒田は幼少期に見た光景をそれとなく罵倒した。そうしていると、再びあの日々に負った心的外傷を、意識の水底から這い上がらせ、再び浮いてこないように深淵へと沈める。この繰り返しは永遠に続くだろう。彼が生きている限り、いもや、彼の意識が生きている限り、この連鎖は止まらない。

そして、そのサイクルに段落をつけ、再び車の中に意識が戻る。

苦痛からの脱却の直後はまだ心が軽い。まだ精神安定剤に頼るにはまだ早い。顔にはもう出せない、近くに彼女がいる今は、心配させるわけにはいかない。だから敢えて笑ってみせる。いくら聡くても、悟られる訳にはいかない。仕事に支障が出る訳にはいかない。表情を変えないために顔の筋肉は固めてある。どこで崩れ去るともわからないこの面を鍛えねばならない理由が出来てしまった。意識の水底から這い出るモノは顔で堰き止めなければならない。変な奴としてレッテルを貼られると職質が余計増える。失うのはもうたくさんだ。プライド、金、人間関係、そして、明日の生き方。彼は得る事より失う事の方が多い。これ以上、もう失い続けることが怖い。怖くて仕方がない。だから、自分が失うより、他人が涙を失う場所に自ら赴き、自ら他人の喪失を拝む。それが非情だと言われようとも、彼には関係がない。この仕事こそが、彼の心の破滅からの活路を導く道標となっている。生きることに対する答えとなる。

だが、仕事が彼を待つ事はない。

「ここもまあ寂しい墓地だもんだ」

「乾いた風が吹きそうね」

「冷たい雨も降りそうだ」

「そんな中でも私達は、人の死した標をたどり、手を合わせるのでしょう?」

「無論、そうだ」

「そういえば、跡継ぎとかっていないの?」

「すっかりお前にやらせる心算でいたけども」

「あっ、そうじゃん、私じゃん」

「やってくれる感じでおk?」

「おk」

「そんじゃあ俺の墓は任せた」

「任せられた!」

「キャラクターを安定させろ」

「そもそも私の設定ってどんなよ?」

「俺に訊かれてもねぇ」

「まあ、そうか」

「うん」

「何で聞いたんだろ」

「知らない」

他愛もない会話。誰の入る余地もなく、これからも続くであろう会話のなか、老爺が彼らの所へと近づいてきた。

「何者だおぬしらは、ここはお前達の来る所じゃないわい、立ち去れい」

「私らはただ、各地の孤独な墓地を巡り、整備に努めようと…」言い切る前に、杖で殴られた。靭帯に直撃した。骨ばった身体からでもフルスイングはかなり痛かった。まあ、あの時、自己が生命体である事がはっきりと分かった時の背中の痛みに比べれば、まだマシだったが。

「余計なお世話じゃい、全く、最近のやつは配慮ってもんが足りとらん…」ぶつぶつ言いながら老爺は去っていった。

黒田からしては彼がまともな日本語を話しているようには見えなかった。というかもはやこのパターンは見飽きた。だいたい40区画くらいに一人ぐらいはいる。流石に杖でフルスイングするのはさっきの老爺くらいだと思うが、彼の事を好ましく思わない人間は少なくない。人の死を生業としているから仕方がないと割り切っているが、それでも理解しようとしないのはおかしな話である。

「大丈夫ですか?」黒田が呻いていると、聞いたことのない声が頭上から。見上げると、そこには女性の姿。年は大体20に見える。

「ご心配いただくこたぁないんです。ただの口論です。あなたは?」

「あなたを探していた者です。そして就職希望者です」

「接客スキルカンストにしか見えないのですがええと」

「いいんじゃない?人手が増えて仕事が減るじゃんよ」久恵は言った。まあありがたいのは事実だ。

「それじゃあ、取り敢えず履歴書を後日」

「はい」彼女はすっと出した。既視感。

「えっ」要するに、彼女はここで履歴書を持って待ち伏せをしていたという事になる。何故だ、エスパーが使えるのかよおいっとなった。

「いやいやいや⁉︎何で分かるんだい?」流石に久恵も驚いた様子だったが、黒田は既視感がそれを打ち消した。

「ここじゃ悪いんで、私の家へどうぞ」

「近いのかな?」

「あれです」

「うん。近いわー」最早出来過ぎて棒読みである。

かくして、彼女の家にお邪魔する事にした。

彼女の部屋は小綺麗で、塵一つ見当たらない。何というか、家具があるのに新築のマンションの一室を見ているような気分だ。

「どうぞお掛け下さい、何もありませんが…」

「いやいやとんでもない」

「負け美女の部屋みt」言い切る前に口を塞いだ。

「まあ、確かにそうですねぇ、ですが、私が潔癖過ぎる故に…」目に涙が浮かんでいた。

「泣かんでええ。で、星谷さん、本当にここで良いのかい?」

「ええ、ここに就くのが夢でしたから」

「何か、悪いとか言わないけど凄いね」

「同志ってことじゃね?」

「そうなるかな」

「一歩間に合いませんでしたね〜」

「残念だったね」

「本当に残念です。先取りできたものを…」

「悪かったな」こうして、また一人。墓場巡りに仲間が加わった。これでまた、孤独な墓場に巡礼者が増えるのだ。

「加わるのはいつになるのかな?」

「今からでいいですか?」

「駄目とは言わないけど、黒いスーツはあr」

「あります」既視感再び。

「そうか」最早驚くまい。

「じゃあ、行こうか」

次の場所はかなり墓が多く、孤独な墓を探すのに苦労した。しかし、見つけてからは、いつも通り、水と線香と手を。この作業はこれまでもこれからも変わらない不変の作業である。

そして帰宅。ロレックスのエクスプローラーを見れば、針は分針の位置する12から左へ丁度60度の所に時針がある。真っ暗かと思えば、満月で、星もある程度出ている。歩ける明るさではあった。月は、着実に地球から離れつつあった。実際、120年前と比べると、僅かだが小さいと言われている。月が地球の衛星を辞める日が来るのだろうか。そんな事を考えていた。

「夕飯はラーメンな」

「味噌か醤油か豚骨か」

「私は味噌がいいですね〜」

「そうだお前もいたんだった」久恵は思い出すように言った。

「幽霊にされてる…」

「ご所望の通り味噌で。叉焼は?」

「多ければ多いほど」

「オーケーじゃあ13枚」

「うう…俺の財布が…荒野に…」

「お前も13枚」

「…………………………」

「貰っていいの?ねぇ貰っちゃっていいの?」

「ダメです」

「で、私も13枚と…」俺の冷蔵庫に何枚叉焼が入っていたというのだ。

「い…いただきます」

ズルッ………

(これは…旨い…!一体何を使えばこんな麺が、こんなスープが、こんな具が出来るというのだ…普通に店で出せるんですけどこれ。ってか何処かで食べたような…あれだ!あの店だ!俺が行った「cloud」っていう有名店そっくりだ!まさしくあの店だ!まさか…)

「どうしたの?」

「いやね、俺が通ってたラーメン屋と味がそっくりでね」

「漆黒の味噌ラーメンですか…」

「「何故それを⁉︎」」

「食べた事があって」

「cloudに?」

「ええ。なかなか美味しかったですよ?まあ、久恵さんには及びませんが…」

「それはそれは」久恵にはお世辞ととられたようだ。

「おっと、もう11時じゃないか」風呂に入る余裕もない。

「寝なければ」

「おやすみなさい」いつの間にか紗都美の布団も用意されていた。

「おやすみ…zzz…」

「zzz…」

「zzz…」

夜更けも夜更け…

「………………」

「………………」

「出来過ぎてるって、あいつ全く思ってないよな」

「そんな話はおいといて、ここら辺で寝ましょう。貴方の愛しの彼が起きてしまうかも知れないですしね」

「はぁ?何言ってんだお前は?」

「ご飯を作ってあげるだなんて、優しいのですねぇ」

「おう?煽ってんのか?」

「いえいえ、では、おやすみなさい」

「うん、おやすみ。これ以上何も言わせねぇためにも」

「zzz…」

「zzz…」

《3月3日(火)》今日は割と近い場所が多く、早めに仕事を終わらせることが出来るようだ。仕事は早めに終わらせる事が出来るに越した事はない。だが、暦の春を気候は知ってか知らずか寒い。車窓に霙も映っていた。黒田が目的地に着いて傘を開いたら、彼女たちが吹き出した。

「何で…パンダ柄…ww」

「もう5年くらい使ってるからなぁ」

「かわいいですねー」

「これぞまさしく『カリスマ☆ブレイク』という奴では?」

「断じて違う、というかカリスマですらない。取り敢えず、仕事に行こうか」

「そうだねー」

「線香足りますかね?」

「あっ、足りないかも」

「途中で綿全に寄って行きましょう」

「ついでにバーナー式のガスマッチも買っていかない?」

「そうするか」

「あれ、地味に便利ですよねー」

「引火しにくいし秀逸」

「ルートを考えると一箇所行ってからの方が効率的ですね」

「そうだね、そうしよう」

と言う訳で、黒田一行は一箇所の訪問を済ませてから、綿全で線香と例のガスマッチを購入して、続きの仕事を執り行っていた。

こうして一週間、こんなテンションで仕事をしていた。

そして一ヶ月後、彼は妙な怪談を聞くようになる。

「あそこの墓地から誰もいないのに娘を頼むと叫び声が聞こえるんだとさ」

「どうもそこには、生前悪戯が好きだった子の両親が眠っているとか…」

「その子のせいで警察が墓地に張り込む変な光景を目にする羽目になった」などの声が、何故か俺たちの下に集まるのだ。折角なので、そのうち現地へ向かう事にした。

《4月14日(火) 》その墓地は最近出来たようで、手入れのされた綺麗な墓地が多かったが、その女の墓だけは違った。数十年くらい放っておかれた孤児の墓だったようで、墓石が崩れていたり、汚れていたり、挙句の果てには雑草がぼうぼうと生えている。これは難儀な事だと黒田は思った。叫び声も変わらない。

という訳で、墓の掃除をいろいろやって、線香を並べ、手を合わせた。すると、また声がした。

「私も…連れていって…」黒田の顔から血の気が完全に引いた。震えすらあった。

連れて行くといっても幽霊を連れて行く訳には…と思ったら、すぐ傍に貞子みたいな風貌をした白髪の幼女がいた。

「名は?」

「無い」

「そうか」

「じゃあどうするの?」

「引き取るか?」下手をすれば犯罪とも言えるが…

「反対はしない」

「金の関係もあるしなぁ」

「幼女を引き取る男とか本当に聞こえが悪いわ」黒田は数年前に迷子の女子を保護した男が逮捕されたニュースを思い出した。

「そういう世界だししゃーないよ、諦めな」

「諦めるしかないよな…」

「何を?」

「聞こえが悪くなる事をさ」

「要するに?」

「彼女に留守番でも頼もうかな」

「それなら私も出来そう」いつの間にかさっきの幼女が会話に入ってきた。

「頼めるか?」

「うん」

「それじゃあ決まりですね」という事があって、また一人。黒田一行に加わる。なんか紗都美が凄く嬉しそうに見えた。この後、この墓から叫び声が聞こえる事はなくなった。

「名前は?」

「貴方がつけて」

「じゃあ、未来でいいや」

「早っ」

《4月15日(水)》

留守番を任せるには少し幼い気がしないでもないけれど、いるに越したことはないので、二重ロック構造の錠前の番を任せた。知っている人間が来たら伝えるように言ったけれど、黒田が知っている人間かどうかを彼女に伝えるのを怠ったが故に少し面倒な事になった。

面倒な事を黒田は何より嫌う。だからさまざまな事をすっぽかして今は後悔真っ只中である。面倒な事を放置すれば余計面倒になる事を頭でしか理解出来ていないのが原因なのだが、当人は分かっていない模様。

そして、素性が未だにはっきりしていない2人よりもさらに理解出来ない女がやって来たので、もはや不気味を通り越していた。仲間の事はある程度把握していたいが、つけいる隙がまるでない。だが3人とも、憂いが偶に顔に浮かぶ事がある。聞いてみても、核心には辿り着く事は出来なかった。

仕事は別だ。仕事に感情を用いることは殆どない。手を合わせる時に僅かな憐憫と賞賛の心を使うだけだ。この仕事は感情移入が少ないので、心の錘を少しだけ下ろす事が出来、また、それと同時に幼少期の屈辱と恐怖の記憶の埋葬に励める。忘れるべきものを忘れられずにいる事はある種の病のようでもある。今も、記憶の泥沼に蔓を投げて自分を記憶の呪縛から引っ張り出す作業に難儀している。蔓を投げる場所を間違えれば重大な事を忘れてしまう。無慈悲だがそれが彼の前に立ちはだかる現実であり、無表情を貫く理由であり、そして背中の痣の元凶である。

「それにしても嫌な時期に雨が降ってるねぇ」

「本当だな、物の見事に体温を削り取られてしまいそうだ」

「雨で服が透けてしまうのも厄介ですね、ワイシャツとか特に」

「特に女はね」

「視線がどんどん痛くなっていく実感は凄くわかる」

「まあ、去年は5月なのに雪が降ったし妥協できる」

「氷河期どころの話じゃあないですね」

「日本全国がもう冷帯でいいと思う」

「温帯が聞いて呆れるんだよなぁ」

「温暖湿潤気候なんてなかったのです。いいですね?」

確かにこの気温は身体に凍みる。4月なのに息が余裕で白くなって水蒸気に変わる。年月は流れ、冬には温室効果ガスの存在などあってないものであるかの如く吹雪は荒れ、温度計は目に見える速さで赤い水銀が下降するような時代に突入していた。夏ですらクーラーの必要性がなくなった。最早日本がシベリアのようになるのは時間の問題になるだろうと黒田は考えていた。氷河時代突入には温室効果ガスも何も関係ないという事だろうか。

そんな回想をしている間にも時間はどんどん進んでいく。なんというか、彼女達が来てからというもの、時間軸の進みが加速している気がする。余計な考え事をする必要がなくなってきたからだろうか。

「さて、今日は3件で良かったのでしたっけ?」

「そのはずだけど」

「距離関係の事もあってそんなに早く帰れるわけじゃないんだけどね」

「ちょっと残念です」

「わかるけれど取り敢えず俺まで帰りたくなる前に口を閉じていただこう」

「わかりました」

「さあ、少しでも早く済ませる為にどんどんいきましょー」

「そうだね、未来を待たせるのも悪いしね」

「なんか、お前がシングルファーザーに見えてきた」

「言葉ってやっぱ印象を変えるよね」

「何をわかりきった事を」

「それもそうか」

そんな雑談を交わしながら、今日も黒田達は孤独な墓の前で手を合わせる。こうして考えると、彼はいずれ全人類の遺族となるかも知れない。そんな重い肩書きを黒田は必要としていない。余程の犯罪者や、怨嗟の対象以外の死には真摯に墓に向かい仕事をする。この仕事で飯を食っていけるなんてこれ以上の事は黒田にとってなかった。

今日手を合わせた墓はどちらかというと多くの人の遺骨が納められていたため、いつもに増して掃除などを念入りに行った。この仕事にやり甲斐を感じる数少ない時間だった。

そして、今日も仕事を終わらせると、心地よい疲労が彼らを襲った。

「今日は狂った人いなくてよかったね」

「狂った人ってなぁ…」

「例のフルスイング爺さんみたいな人だよ」

「フルスイング爺さんとか懐かしいなぁ」

「もうあれが1月も前のことになるんだよね」

「耳打ち婆さんもいたよね」

「そんなのもいたね」

「年がら年中黒服だと怪しがる人もいるかも知れないですけど、流石に知らないままでいいなんて思いませんがね」

「ああいう人たちには俺たちは縁がないから仕方がないとはいえ流石に癪だわ」

「おかえりー」

「「「ただいまー」」」

「案外早かったね〜」

「巡る件数が少なかったからねぇ」

「夕飯何にするの」

「冷蔵庫の中と相談してくれ」

「生姜焼きとか出来そう」

「あれでしょケチャップを入れる奴でしょ」

「合わないと思ったら意外とね?」

「じゃあ、私が作りますか」

「頼める?」

「はい」

「そんじゃよろしく」

そうして、星谷が生姜焼きを作り始めている頃、黒田は今月の給料の計算をしていた。決して悪くはない給料を国から貰っていたが、更に一人加わったので、家計が狂った。しかも食べ盛りどストライクな年代なので結構持ってかれる。貯金がいつも通り出来るかどうか怪しくなった。エクスプローラーも悪くはないが他の時計もつけてみたい。パデックフィリップには手が届くとは思っていないが、それでも何か腕にインパクトが欲しい。そんな事を考えていた。発条式は半永久的に動き続けるので、使い勝手がいい。GPS機能の時計などもあったけれど、黒田は時間に支配されるのが嫌なので買わずにいる。

エクスプローラーに視線を戻すと、8時半。こういう日になるべく体力を回復しておきたい。そうでないと精神面にまで負担が及ぶ。そうなる前に布団に入ろう。風呂は…どうしよう。と、世良が、

「できましたよー」

「うん、美味しそう」

「コメあったっけ」

「あるよ」

「あたしが未来に頼んだんだよ」

「未来は米って研げたんだ」

「うん、覚えた」

「そうか、みんな頼もしくていいな」

「まあ、一人だったら自分でやらなければいけなくなるだろうしね」

「米なんか炊けた方が圧倒的に有利ですもの」

「それはそうだ」

「寧ろ炊けなかったらまずくない?」

「そうかも知れない」

このような他愛もない会話がずっと続いてくれる事を、知らずのうちに黒田は心の何処かで祈っていた。そのことに本人は驚いていた。自分に意表を突かれるなんて考えてもいなかった。でも、こうして平和な生活が出来る事はこの上なく有難いもので、この仕事をやっていて良かったと思う瞬間でもある。

「そういえば」世良が黒田に向かって話しかけた

「ん?」

「黒田さんって、童貞なのですか?」

「!?」隣で久恵が米を喉に詰まらせた。

「水!水!」

「…………ふぅ、全く、なんでいきなりそんな事を黒田に聞くんだよ」

「いや、なんというか、何処か少年のような偏屈さというか、童貞的な感情が抜け落ちてないというか…」

「………ノーコメントで」

「ごめんなさい変な事を聞いてしまって」

「いや、気になる年代といえばそうか」

「どうでもいいだろ」

「よくないです。まだ独身で、童貞だと聞いたら奪い合いは避けられません」

「へ?」黒田は紗都美が何を言っているか見当もつかないフリをした。

「何の奪い合い?」未来も聞いていたようだ。幸いにも途中からだ。

「………知らない方が身のためさ」

「そうですね」

「?」

「さて、そろそろ風呂だ」黒田は全力ではぐらかした。

黒田は風呂で伸びた髭を剃った。忌み嫌う自分の面が否が応でも目に入る。鏡はあまり見ようとはしない。昔噴き出した怨嗟と絶望で大分歪んだ顔は元には戻らない。いや元に戻ってもあまり変化がない。かと言って整形に金を使う気もない。心が顔に出るのに、整形をしてもすぐに歪む。それを知って何故整形などしようか。仮面にヒビが入って壊れるのに、仮面を被るなど愚の骨頂ではないか。それでもこれ以上の顔面の崩壊を防ぐため、なるべく顔は洗い、適度に整髪もする。これを続けてもう10年にもなる。この生活の果てにはどんな応酬が待っているかなど、彼には関係がない事だ。

それにしても、あんな事を世良が言い出すなんて考える余地もなかった。しかもゆっくり飯を食べている最中だったのに。主人公は三十四にもなって童貞である(女に接する機会がない職業柄のため)。その事を負い目に感じているのは言うまでもない。女の感覚の鋭さは尋常ではない。改めて黒田はそれを思った。身構えねば。

風呂から窓を開けて少し冷気にあたろうとしたら、月が強く輝いていた。いつもはあまり眩しいと感じる時そのものがないのだが、冷たい月光が昼ほどではないがアスファルトを可視の範囲まで照らしていた。

その時、背中の傷が痛み始めた。こんな痛みを感じた事はなかった。あの自殺未遂で打った傷が、20年も経っていきなり痛み出すなんて、考えてもみなかった。背中に触れると、血の感触。すぐに洗い流した。浴槽に血が流れ出てしまった。痛みは更に強くなり、黒田は悶えた。

「…………っ」なんとか意識は保てた。そのうち、痛みは引いていった。

「今のは…一体…」

黒田は血が止まっている事を確認し、風呂から上がった。

そうして応急処置をした。またあんな事になるのは避けたい。そうして浴槽を綺麗に洗った上で、寝床に入った。血は止まっていたので、横になっても問題は無いと思った。今日は散々な日になってしまった。

その夜…

黒田は自分の手に鱗が生え、眼光が暗黒を照らしている奇妙な夢を見た。そして…

「なんでみんな俺に平伏しているんだ…」

「それは、あなたがこの世界の神だからです」

「神…?」

そこで目が覚めた。その夢は記憶から離れない。

《4月16日(木)》

あの痛みの元凶は未だにはっきりとしない。忘れようにも忘れられない。重要な事を散々忘れて来られたのに、こんな事を忘れられないなど…ポンコツ頭もいい所だ。

今日も仕事はやって来る。黒田は敢えて背中の傷を庇わなかった。下手に庇ったり気にしたりすれば仕事もできない。骨折や内出血の兆候はみられなかったので、大事には至らないだろう。仲間に悟られる訳にはいかない。

いつからか、黒田は彼女らを仲間として認識していた。過ごした時間はそんなに長いものではなかったが、仲間として、友人として3人を捉える事が出来るようになった。彼にとっては大きな進歩ではある。黒田本人は大人になってこんなに仲のいい友人を作ることが出来るなど考えてもみなかった。これほど嬉しい前言撤回もなかなかない。

今回は5件。山間部が多いので、帰りが遅くなるのは仕方がないので、今日も未来に留守番を任せている。黒田は、いずれ黒田本人が朽ち果てた時は、今留守番をしている未来を含めた3人に後を任せるつもりだった。この仕事には黒田本人も残って欲しいと思っていた。皆が進んでやるような仕事ではないにしろ、この仕事がなくなれば、墓は荒れ、死者達の生きた証が風化していく。そして手を合わせてくれる相手が住職くらいしかいなくなる。しかし住職だって、すべての墓の掃除までは手が回せなくなってきている。日本の人口のうちの老齢人口が5000万人のうちの25%。つまり四分の一が老爺と老婆になってしまった。確かに元気な爺さんや婆さんは少なくないが、それでも限界があった。だからこの職業が誕生したのは言うまでもない。

因みに黒田がやっている「墓守代理人」という職業は、小・中学生の就きたくない職業ランキングの常に上位にいる。

理由は主に、

「人の死を糧にしているみたいで嫌」

「不気味だから」と言った理由が多い。また、「悪い夢を見そうだから」という理由で忌避する者も少数ながらいる。

黒田は寧ろ好都合だと考えた。これだけの評価が出回っているならば、よっぽどの覚悟を決め込んだ奴くらいしか来ないだろう。評判がすでに人を厳選している。手間が省けて本当に楽だ。時に悪評だって方便になる。

仕事の話に戻すと、黒田がいつも通りの仕事をしていると、同じ日に墓参りをしていた人に素性を問われたので、名刺を渡した。すると、その人は、その名刺を見て、

「お疲れ様です」と言った。当たり前の事なのかも知れないが、黒田はお疲れ様なりそれに近い言葉をここ10年くらい赤の他人から掛けられた事はなかった。それだけに驚いていた。そしてただ頭をペコペコ下げるばかりになってしまった。その時の黒田は子供のようにただ、純粋に照れながらも、嬉しさがにじみ出ていた。

その後、黒田の所に一本の電話。ある市の終活担当職員だという。内容を聞き、現地へ向かった。墓参りを、その職員と共に行い、現金を受け取った。この現金は、墓参りに来る黒田を相続の対象に設定した人の死後、黒田にその市の職員から渡されるものである。これは極めて稀なケースだが、黒田はその金を職業の必要経費以外には使わないという信条を持っている。どうにもその金を生活費に使う気にはなれなかった。どこか不気味であったためである。

急用で黒田の時間の振り分けが狂った。仕方がないので、未来に遅くなる旨を伝え、なるべく急いで、確実に終わらせる方法を模索したが、結局、慌てると碌な事がないので、いつも通りが一番早い。急がば回れ。しかし、急がば回れって、水上の最短距離と地上の安全な遠回りを天秤にかけていたような気がするが、やはり地上だなと黒田は確信している。足がしっかり地についている感覚がないと黒田は不安で仕方がない、というより三半規管を安定させたい。足を失った人はもうその恐怖から強引に自分を引っ張り上げたのだろうけども。というか義足にお洒落という概念すら生まれた世界では無関係なのだろう。

仕事の続きを終わらせて、今日も帰宅。9時半だった。幼女の見た目をした奴を待たせるのは罪悪感に駆られるが、まあ、未来がみんなとご飯を食べたがるので、仕方がない。見た目相応の感情は彼女にも存在するのだ。というか飯は皆で食べるものだと学校で教わってから、一人で飯を食べること18年。こうして4人で食卓を囲むなんて考えてもいなかった。

《4月17日(金)》

黒田はこの日、故郷の墓地を回った。黒田の住んでいた村はどちらかと言うと村と街のハイブリットみたいなものだった。セロリとかレタスとかが有名な村だ。(本当は故郷のセロリと同県内の別の場所のレタスとかを使ったサラダが食べてみたかった)

黒田がこの場所に来る時は、仕事で来るか七年に一度(と言われているが実際には六年に一度)の、あの御柱祭に参加する時くらいしかなくなってしまった。その事で少し黒田は黒田自身を嘲った。

御柱祭について簡単に言うと、ある神社の御柱の入れ替えの際、その柱となる大木を曳行する祭である。その祭の間にはイベントがあり、坂の上から木を意図的に坂の上から滑落させる《木落とし》や、木を曳きながら、川を渡る《川越え》などがある。観光客は、『天下の奇祭』の名をこの祭がほしいままにしている事から推測出来る通り、多い。見物席のチケットは馬鹿みたいに高くなり、カメラを向ける外国人もあちらこちらで見かける。正直曳く側の黒田は手伝って欲しいの一言に尽きる。人手不足は次第に深刻な問題になりつつあった。余所者扱いは殆どしない村なので、人が増えないのが余計に不思議で仕方がない。黒田はこのときなぜか孟子の話を思い出した。

「確かここら辺ってさ、どデカイ祭があったよね」久恵が黒田に聞いた。

「ある。俺が参加してる奴が」

「その祭に、出てみたいなぁ」久恵が言った。黒田は驚いていた。あの祭は、難所が様々な場所に用意されている。そのうえ、事故も多く、女子にとっては更なる苦行になるのではないかと考えていたが、

「やり甲斐を求めるなら俺はこれ以上いい祭を知らないなぁ」嘘ではない。御柱が立った時に最も近くにいられるのは、とても良いものだ。

「次はいつ?」

「二年後になるよ」

「私も参加したいです」

「途中で投げ出さないなら二人とも全ッ然大歓迎だけどさ、」黒田は続けて、

「女子は曳き手をやる人は殆どいなくて、皆喇叭か木遣りをやってるよ」

「木遣り…ですか?」

「まあ、あれだ。木を曳く時、その神に対しての掛け声みたいなものがあってね、それが木遣りなんだ」

「へえ〜いろいろあるんですね〜」

「俺の同級生に、木遣りをやってた奴と喇叭を吹いてた奴がいたから、そいつらのコネを使って練習すれば、参加できると思うよ」

「募集は来年ですよね?やってみます!」

「頑張れ」

「私はどうしようかなー」

「見てるだけでも十分に楽しいよ」

「引っ張ってみたいなー」

「うーん、俺が何とかするよ」

「何かごめん」

「いやむしろ嬉しいんだけどさ。ちょっと難しいから100%出来るとは思わないで欲しい」

「分かった。出来るようになったら教えて」

「ああ、もちろんさ」曳いた次の日は筋肉痛になるけれど、それはそれだ。

今日は黒田の家の墓も訪れて、手を合わせた。実に半年ぶりだった。黒田は、「久しぶりだったな」と墓に一声かけて、墓を後にした。

《4月18日(土)》

休日が控えているので、黒田の足取りは相応に軽かった。エクスペ世代と言われた彼の世代は、たくさんの事を学校で授業とは別に毎日体験させられ、帰りは8時になる事も。その度に休日が恋しかった。そんな奴が多かった。無論、黒田もその一人である。日本人の行動力を更に強化しようという名目だった。

実際のところ、優秀な人間は過去より多いようにも思える。だが、ついていけない人間も少なくなく、体罰が横行したり、不登校になったりした影の部分も多かったように黒田の目からは映った。まあ人には適不適があるしそれは仕方のない事なのかもしれないが、最低限の事は出来るようになっておきたい。黒田としては、自立する力と、自分を正しく導き同志を探す力を養うべきだと考えていた。少し難しい気もするが。黒田の通っていた学校では家庭科の授業が少し増えて、自立の力を養おうとしている国家の熱意が地方にまで伝わっていた。与党は皆、すごく熱くなっていた。野党は与党を落とす事だけを考えすぎて足場をどんどん崩していった。最早選挙は茶番と化している。

今日は遠出になるので、帰りには日付が変わっているかも知れない。未来に夕飯を作れる力があってよかった。インスタントと未来は今後も縁が無さそうだ。余所者扱いされる場所も歓迎される場所もあるけれど、仕事に支障はあまりなかった。よほどのこと(杖でフルスイングとか痴呆症持ちの職務質問とかその他諸々)がない限り。

今日は悪名高い国会議員の墓が荒れていたので、墓参りに行かされたついでに掃除までした。全く、親にまで墓を放置されるとは、相当嫌われていたんだろうと黒田は思った。まあ、日本を敵に回すくらいの発言をしたのが問題になって国会を追放されたから仕方がないと言えばそうなるのだが。安直にものを言うべきでないという典型的な反面教師になった。というかこの国が嫌いなら出て行けばいいのにと黒田は思った。

悪名高い元国会議員の墓参りを終えた後、黒田はさっさとその場所を後にした。何故こんな奴の墓参りまでしなければいけないのかという疑問は仕事に対する熱で上書きされた。黒田は仕事は確実にこなさなければいけないという信条を持っている。だから今までに孤独な墓の管理は欠かさないようにしてきた。それが信用となり、仕事となり、金になる。一つの綻びがあればその一瞬で積んできた山があっという間に崩落する。いかんせん脆弱で仕方がない。

次の場所もかなり寂れた墓地だった。未だに埋葬という概念が存在する場所がある。ここもその一つだが、それが理由なのか、屍肉にかなりの数の蝿が群がっていた。その羽音は黒田たちをひどく不快にさせた。とっととこの場を去りたいが、仕事はしなければならない。仕方がないので、次からは蠅殺しの霧(商品名)を持ち歩いておこうと心に決めた。もう懲り懲りだ。黒田にとって、あれほどどこかに頭を叩きつけたくなる音はなかった。今日という日に限って、なぜこうも面倒な墓地が連続するのか、全くもって謎である。

黒田たちの体力を削り尽くす心算であるかのように、次の場所は車の入れない山間部だった。黒田の疲労は極限に達し、目の前に布団の幻覚が見えるほどではないが、早く帰りたい。

しかし現実は非情である。この場所の次もまた、同じような立地だったのである。黒田は呟いた。

「………ええと、布団の幻覚が見えるのですが」

「………奇遇ですね、私もです」

最早3人の足取りはゾンビ同然だった。さっきそこの墓から出て来ましたと言っても、全く違和感がない。墓守代理人の仕事も結構な重労働である。3人になったから、以前よりはある程度楽になったが、それでも辛いことには全く変わりがない。女子大学生並の見た目をしていつも元気そうな2人も呻いている。金曜日で本当に良かった。

彼ら3人の頭の中には、「帰りたい」の4文字が敷き詰められていた。今日最後の仕事を終えた黒田たちは、車に向かってどこから出たかも分からない力で車に向かって走り出した。

0時30分頃の帰宅となった3人は、シンクロしたかのように月を睨め付け、完全な無表情で飯を口に放り込んだ。(未来が怯えていた)そして、目の隈がこれ以上深くならないうちに、布団に入った。

《4月19日(日)》

次の日、黒田の眼が開いたのは午前10時だった。またすぐに目が閉じようとした所を、未来に4の字固めをされた。

「起きないと折るよー」余りに黒田が起きないので未来は黒田を布団から追い出した。

「起きますのでお許しを…痛い痛い痛い!」

「二人とも起きてるよ、だから早く起きて飯食べて片して!」

「はいっ!」

「もー、みったぐない寝方をして、体調管理ぐらいしっかりしてよ!」

「後半関係なくない!?」

「それより早くあれ食べてよ!」あれ?黒田にはあれが分からなかった。

「あれって何だよ」

「あれったらあれさや」

「あれじゃあ分かんないよ」

「あれだよ!昨日食ったトンカツの残りだよ!」

「あれか」

「だからあれって散々言ったに」側から見れば祖母と孫の会話である。見た目の年齢からはあり得ないが。

黒田は朝食(どちらかというと昼食に近いが)を平らげ、普段着に着替え、買い物に出かけた。前に比べ、物価は遥かに上昇していた。第六次中東戦争や国家間の不仲が原因で、関連商品が少し前と比べると、1.5倍になっている物もある。

物価の高騰が招いたものは、治安の悪化と主婦(夫)の怨嗟だった。スーパーマーケットだって、いつカツアゲに遭うかわからない恐怖の時代に入っていた。黒田も遭遇したが、護身用の武器や説得で、なんとか難を逃れた。荒れた時代もあったものだ。

それはそうと、今日はまだ4月だというのに、やけに日差しが強い。かと言ってサングラスなんかかけていたら職質の的だ。職質の時間というのは、憂鬱以外の何者でもなく、分かりきった事を言うあたり、煽っているようにしか思えない。全くもって虫酸が走る。

黒田は一週間分の食材をリスト通りに購入し、ついでに多少つまみを購入し、スーパーを後にした。かなりの量を買ったが、これくらいじゃないとあの労働に耐えられる熱量を得る事が出来ない。黒田に至っては、食欲が20歳のときより旺盛になる始末である。しかも、体調不良の時ですら、その食欲が衰える事はない。酒や煙草を避けた反動が食欲に回っていると考えるのが妥当だろうか。

黒田が家に帰ると、皆が掃除をしていた。黒田の部屋に見覚えのない棚が置いてあった。聞くと、久恵が黒田の部屋の荒れ具合を見兼ねて日曜大工で作ったものらしい。それにしては精巧なものだった。材料費が7千円だったという事を知った時、黒田はとても驚いていた。商品として買ったら、かなりの額になるであろう逸品を作り上げるだけの腕があるとは全く思っていなかった。そもそも、久恵にそんな才能があったとは全く意外だった。

黒田はこの職業について、上下関係に気を配る必要が無いことに安堵している。黒田は、目上の人にごまをするのが苦手だった。

だからこうして只の自己満足を、こうして職業にしただけで、黒田は社会人として全うに生きることができていた。だが、思いがけない出会いが黒田のモノトーンの脳内カレンダーの色彩を増やした。黒田は更に幸せになったが、本人にはあまり自覚がないようだ。

季節は冬と夏の狭間を彷徨い続けている。なかなか丁度いい、まさしく「春」といった日が来ない。この国には、「ほどほど」という概念が季節からも人間からも抜け落ちている。ほどほどにして休むという事をこの国の人間は知らない。勿論、それは黒田も同じで、だから人の満足する仕事が出来るし、人に喜ばれる物が出来る。黒田にとってその事象こそが母国の誇りだ。

黒田はふと、心に虚しさが占める割合を考えていた。彼女らが来る前は、もはや機械のように、実験動物のように、世界の全てが白と黒に埋め尽くされたような感覚で、仕事を行い、休みを過ごしていた。死を想起したり、物思いに沈んだりといった行為に時間を割く事が多かった。まさに感情という概念は死んでいた。感情は学生と名のついていた頃に失った。もう取り返す事はないと、そう思っていた。感情は、人付き合いの邪魔になる場合も多い。内面を悟られるのも気に喰わない。その堅物過ぎる性格から、鉄面皮のあだ名をつけられた事を黒田は思い出す。もう、忘れようと決めた事が、ぶり返す。

無実に対する粛清、いじめ、自殺未遂、家族の突然死、天涯孤独、精神異常者管理法、身体の故障、蔑視、生存意義の喪失…

彼はいつの間にか灼熱の液体を体から吐き出していた。心の病をこじらせただけで血を吐くなど、通常ではあり得ない事態だ。黒田は慌てた。急いで口の中を洗い、吐いた血を拭き取り、何もなかったようにした。黒田は、もうあまり長くは生きられないだろうと、この時悟った。

黒田は、医者に診てもらうという事を、すでに放棄していた。自分は自分の管理の許で死ぬのが理想だと思っていた。だから、死の時が近づいていても、あまり恐怖を感じなかった。死は覗き相手としては、友人のようなものだった。

こんな事があった後も、黒田は普通通り仕事と休暇を繰り返し、平然としていた。黒田が思っていたより、楽に時間を過ごせている。自分の最期は、いったいいつなのか、そして、どこになるのか。それは黒田にとってあまり意味を成さなかった。骸なんて、ただ意思が抜けた人間の抜け殻だから人形となんら変わりはない。いや、腐臭がする辺り人形より厄介な代物だろう。自分の骸がどうなってもいい。黒田は他人の骸を拝む職業だったから、自分の死に際はしっかりその手の業者に任せてある。自分の死で、他人に迷惑を掛けたくない。黒田には自分には、他人の足を引っ張る資格はないという理解不能な責任感と、死んで他人の足を引っ張り続けるなど、屑のやる事だという信条があった。久恵には、黒田が死んだ時、黒田の馴染みの葬式業者の奴に電話しておくように頼んだ。後はその手のプロが始末してくれる。金はあらかじめ渡してあるので、心配する必要はない。死を恐れる者はさまざまな手を延命の為に施しているが、黒田にはその気持ちがあまり理解できるものではなかった。人は老いで理性を失ったらそれは死と同じであると黒田は思っている。だから尊厳死には賛成である。生き恥を晒す事はなるべくしたくない。

そんな考え事をしていたらもう3時になっていた。日暮れまではまだそれなりに時間がある。何をしようか、それとも何もせずに呆けているか。今日やろうと思った事はあらかた始末した。この後は少し暇な時間が続く。何をしようか。

唐突に、麻雀が打ちたくなった。しかし、3人とも麻雀が打てるとは限らない。聞いてみるか。黒田はそう言って埃に埋まった雀卓を探した。

「皆って麻雀した事あるの?」

「やった事はある」

「大きな声じゃ言えないけど、お金を賭けて打ったことがあります」※違法です。

「役満をあがった事もあるよ」なんなんだこいつら。

「さて、卓は確か…」黒田は所定の位置をごそごそと探しているが、見つからない。

「そこの棚の上から三番目」

「そういえば片付けてくれたんだっけ」

「全部揃ってる?」

「136枚全部揃ってるはずだよ」

「ハクが余ってますよ」

「それは予備だよ」

「分かりました」

そうして始まった東一局。いきなり黒田の瞳が未来のつばめがえしを捉えた。

「⁉︎」黒田は必死に目をこすった。しかし、きっと疲れていると思い、何も考えずに1萬を打った。

「ロンッ!」未来が一枚ずつ麻雀牌を倒していった。一枚倒れるごとに、黒田の顔から血の気が引いていった。

「国士無双、32000点」しかも13面待ちじゃないか。東一局から黒田がマイナス入りした。

「つ…続けるか」

「そうよ。まだ始まったばっかりじゃない」

「気を落とすのはまだ早いですよ。黒田さん」

「そ、そうだな」

そうして迎えた東二局。久恵は配牌が揃った瞬間、

「リーチ!」この時点でダブルリーチで二役。嫌な予感がした。久恵はその不安を煽るように、

「カンッ!」ハクをカン。ドラ表示牌は…中だ。詰んだ。黒田は只管に現物を打つ他になくなった。そして…

「ツモッ!」久恵が和了。白、混一色、ダブル立直、ツモ、裏ドラは…乗った。しかも二枚。数え役満になった。

黒田は埴輪のような顔になって呆れ、石像のように動かなくなった。この時点で、黒田は-18000点になっていた。対照的に、久恵と未来は点棒の山を築いていた。

「ここからが勝負なんだろう?」1位に言われてもなぁ。と黒田は思った。

「まだ最低でも6回は残っているよ?」2位に言われてもなぁ。と黒田は心で嘆いた。

まだ東二局一本場だから、まだ復讐もとい挽回のチャンスはある。黒田は連荘に望みを託した。

しかし、その幻想を破壊したのは紗都美だった。紗都美は物凄い速さで白と發を鳴き、テンパイまでこぎつけたようだ。黒田もまずいと思い、中はキープして、東を切っていった。

「おっとその牌は頂きますよ?」紗都美も未来と同じように牌を一枚ずつ倒していった。字一色大三元。ダブル役満だった。黒田の目は兜煮にされた鯛の目をしていた。黒田には、3人がサスケの反り立つ壁に見えてきた。半荘で黒田は一体どこまで点棒を持っていかれるのだろうか。それにしてもあの賽子の振り方は、明らかに狙っている。積み方は全然違和感を感じないのだが…黒田には有効牌が殆ど来ない或いは捨て牌が当たり牌になる場合かしかない。

流れを変えたい。そう思った黒田は様々な手段を脳内で履行した。しかし、どれも上手くいかなかった。ましてや相手は皆イカサマのプロフェッショナル。下手な小細工は通用しない。どうしたものか。運だけではどうにもならない世界。力の弱い人間が食われるのはどの世界でも変わらない。自然界であれ、人間界であれ、どんなゲームであれ、弱者は更なる捕食者に食われるか絞られるかの二択になる。博打でもないのに、凄まじいプレッシャーが黒田を襲った。最初に誘った人間が敗北するなど、あってたまるか。まだあと5回。まだだ。まだ終わらせるには早い。この後は積み込みに魂をかけるしかないと黒田は踏んだ。

そして東三局。黒田は賽の目を的確にヒットさせた。そして、配牌も狙い通り、九蓮宝燈の9面待ちになっていた。そしてツモ。黒田は反撃の準備を整えた。

東四局。ドラ8の大役を狙った。ここを凌げば、次の親番で、点棒を掻っ攫う事が出来る。しかし、黒田の欲深さが災いをなした。親の紗都美に振り込んでしまったのだ。安い役ではあるものの、連荘が確定した。嫌な予感しかしない。

東四局一本場。紗都美は素早く一九牌を鳴きまくっていた。しかし、暗槓ばかりしかしない。嫌な予感は更に増した。まさか、四暗刻清老頭なんていう荒技をかますのか?と黒田は思い、喰いタン早仕掛けに方針を変えた。そうして何とか南一局までたどり着いたが、まだ彼女らの積み込みを見切る事が出来ない。 黒田は何とか軽い役を何度か和了し、一位のまま時間が来たので対局を終えた。

「絶対に負けると思っていたが、やってみるものだな」黒田は言った。しかし、三人は全くの無表情だった。

次の日まで、誰も黒田に口を利いてくれなかった。

《4月20日(月)》この日は雨が降っていた。雨といえば、学生時代の天敵の一つだった事を黒田は思い出す。教材を濡らして怒られたのも、今ではいい思い出だ。

墓参りの最中に、ふと、雨粒がどこからともなく桜の花弁を連れてきた。黒田の肩にそれが止まった。結構稀な光景を、紗都美のカメラが捉えた。

「何でカメラを…」

「写真撮影も私の趣味といえば趣味です」

「そういえばそんな事を書いてあったな」

「雨に映像を遮られてないかい?」

「大丈夫です。人間の眼と同じように写ります」黒田にとっては科学技術の発展を実感した数少ない瞬間であった。

「さて、今日は早めに引き上げるよ」

「そうだな。天気予報見たらこの後春なのに夕立が降るっていうじゃん」

「洗濯物は明日ですね…」紗都美は残念そうだった。

「それにしても寒いなぁ」この時、気温は11℃。

「ブラウス着て来なくて本当に良かったです…」

「ああ、確かに」中にTシャツを着ているなら多少は具合が良いのだろうが…

「傘は?」

「私ともあろう者が傘を忘れるとは…」抜け目のない紗都美だっただけにこんな事があろうとはと黒田は思った。

六月の雨を前倒しにするのを黒田は本当にやめて欲しかった。雨は降っても霧雨くらいであって欲しい。強い雨は人生に絶望した時に降ってくれるだけでいい。生きた証なんて、流されてしまえばいいと思った時でいい。後は熱くなった地面を打ち水のように冷やすだけでいい。それ以外の雨はあまり好きにはなれない。乱層雲は星を隠すし、雨音に眠りを妨げられた時だってある。雨というか乱層雲とか積乱雲とかが嫌いだ。異常気象は正直勘弁願いたい。もはや日本に春や秋なんていうお気楽な季節は存在しない。そう断言出来る日も近づいている。暖季と寒季しかなくなるような気もする。いずれにせよこの国の季節は完全にトチ狂っている。標高が四桁メートルいってる黒田の故郷では、雪は冬に120センチメートルくらい降ることもあるくせに、夏は37度を記録する。なんて村だ。

雨は黒田たちを余所に激しさを増していった。雲は太陽を隠し、気温を肌寒いまでに下げていく。静寂を押し潰すほどの雨音が、黒田を苛立たせる。風が吹かないだけまだマシだが。まだ傘が役に立つ範囲だ。風が吹けば、横雨によって傘の存在意義がなくなる。夕立に立ち尽くす羽目になる前にとっとと仕事を終わらせないといけない。今日は午前中で引き上げる事が出来るだけの余裕があったので、家に帰り、イルミナティーズの『昨日の太陽』を聞いて耳障りな雨を打ち消した。

気温は10度に近い。少し冷ました珈琲を啜り、黒田は最期を想い憂いた。自分に訪れる最期の時、それは何時で、そして何処か。それさえ分かれば、白骨になっても安心できる。しかし、そんな事がわかるのは正直者の予言者くらいだ。しかもそんな奴は見たことがない。まぐれが殆どだ。適当な事をほざく野郎ばかりで全くと言っていいほどあてにならない。定められたパターンが存在するものだけならある程度次の展開を予想出来ても、死に際なんて何時、何処で来るかなんてわからない。死因が病死だという事はなんとなく分かる。

この病は憂いを喰らい大きくなる生まれつきの奇病だというが、そんな言い伝えなど信じるに値しない。その程度で黒田の心が揺らぐ筈はない。幼少期に散々欺かれ、嘲られ、罵られた黒田には迷信などどこ吹く風だ。黒田は普通の夫婦の許に生まれ、その時から、人との関わり方や人との話し方を母親の胎内においてきてしまったため、異質である事に恐怖を感じ、異質である事から逃げる人生を送っていた。そんな噂と振り回された自分の馬鹿馬鹿しさにいつの間にか腹を立てて、自室のサンドバッグを蹴り倒す。買っておいて良かった。このとき黒田は、欺き嘲り罵った野郎共に今度会っても忘れたフリをすると、心に決めた。同窓会なんていう巫山戯た会合に行く事もない。大体、この世界にいる正直者は直ぐに嘘つきに食い潰される。嘘をつき過ぎても、虚ろな正義の鉄槌に潰される。そんな世界だから、人との関わりがあまりない職業は好都合。骸は殆ど嘘を吐けないから、正直一部の生者よりはマシなのだ。それに、死者は身をもって教訓を遺す事もあり、黒田は多くを学んだ。特に、金の費やし方には気をつけろと屍たちは口を揃えて言った。

その後黒田は布団に入り、冷えた身体からわずかばかりの熱を生じ、予め久恵に起こすように頼んでおいてその熱を頼りに眠りについた。静寂からは程遠い中だが、疲労が睡眠まで直ぐに引き摺り込んだ。

寝起き(起きたというより起こされたのだが)はそんなに悪くなかった。雨は寝る前よりは幾らか降りが弱くなっていた。黒田は微睡みも無く、次の日のルートと天気予報を調べた。夕方の5時。特にやる事もなくゆっくりと風呂に入り、髪を洗った。髪を切ってから2週間。黒田は結構髪が伸びたような気がしていた。自分で髪を切ると失敗したとき鬘が必要になるし、そうなると面倒なので、床屋に任せている。これを億劫だと感じる時は来るのだろうか。何かのついでに行く事ばかりで、理容師と話す事も全くと言っていいほどない。今度の週末に行くことにした。

平凡な日常が訪れるという事は平和だという事であるが、第三次世界大戦を見ずに生まれた黒田はその実感があまり持てなかった。国家において、現実と欲望は決して天秤の上で釣り合う事はない。黒田を含めた人間の殆どが現実より欲求側に天秤が傾いている。争いは名誉を含めた様々なモノをお互いに求め合い、奪い合うから、小火から大きくなって戦火となる。黒田は小さなトラブルを側から見ていた事もあって、それを熟知していた。自分だけはそうなるまいと、最低限まで人との関わりを避けてきた。そうでないと、見えない小火がまた何処から出るのかもわからない。例えばあの日杖で殴ってきた老爺を傷害罪で訴えても良かったけれど、無視した方があとで恨みを買わない。あの老爺はきっと、何か理不尽な仕打ちでも受けたのだろう。だから、黒田に対して理解不能な発言と理不尽な一撃を飛ばしてきた。そう考えると合点がいく。全く、可哀想なジジイもいたものだ。ああいった事をする老爺のような奴の墓参りなどとてもやる気にはなれないけれど、それも仕事だ。金を得るためだ。黒田には悪くない収入があったが、こういうしがらみから逃れられた幻想をぶち壊しにされた気分になる時があるのが玉に瑕である。

夕食は黒田が全員分の梅肉と紫蘇入りの唐揚げを揚げた。一人暮らしをしていた時、通常の唐揚げの脂っこさに腹を立てた時に黒田が作っていた物を再び作ってみる気になったので、揚げてみると、前に作った時よりも思いの外上手くいった。

「うめぇ」

「檸檬もいいけどこっちもなかなかですね」

「しつこくないの好き」

「良かった良かった」

梅肉の割合を少し増やしても良かったかなと、料理用のメモ(結構な年季物)に書き加えた。だいぶ襤褸くなっているが、手放す気は無い。そこには14年くらい研究した黒田の味覚に完全に合致したレシピがいろいろと載っていた。これからも活用していく予定だった。

《4月21日(火)》

体は軽いが休日まではまだ遠い。先週ほどの重労働があるとは思えないが、何処へ行くことになるかは分からない。疲労の溜まり具合があまり安定しないのは、やはり面倒だ。一週間にたった1日しか確定的な休日が存在しないので、遊ぶ暇がなかなかやってこないのだ。黒田は就職からその事に慣れるまで2年くらい掛かった。今では下手に休日ばかりでも面白みが無いから問題はない。

霧がかかった一面に、アスファルトが繫がるような天気。見飽きた建造物も見えない。悪くはないが事故は御免だ。

そう思って車を出そうとした、その瞬間、黒田は、崩れ落ちて、意識を失った。

「此処は、何処だ…」

謎の場所に手枷だけ繋がれ放り出された黒田は自分の位置を確認しようと努めた。しかし、浮いているか沈んでいるかも分からない。空気の中か水の中か、いや、どちらでもない。こんな感覚は人生において一度もなかった。こんな世界に放り出されるとは…

「⁉︎」黒田は遠くから何かの気配を感じた。巨大な何かが、圧倒的な力を携えてやって来るような気配がしたのだ。

その姿を黒田が目にした瞬間、黒田はそれの目の放つ光に圧倒された。蠱惑されるようでありながら、強かに恐怖を湧き立たせる光をその双眸は放っていた。

しかし、そのものがとった行動は、黒田にとって信じがたい物だった。傅いたのだ。その蛇は黒田を前にして、その頭を下げて、黒田に礼をする姿勢になった。

黒田は言葉を発する事が出来ず、唯相手と同じくする他に何も頭になかった。すると、その蛇は、黒田についていた鎖を断ち切り、そのまま呑み込んだ。黒田の鼓動が、止まった。

その後、黒田の遺骸は黒田が存在していたという事実や人々の記憶諸共跡形もなく消滅し、其処には蛇が哀愁を漂わせながら佇んでいたという。そしてその蛇も姿を消したという。

黒田が消えると共に、黒田と共に生きてきた3人も消えた。しかし、世間に知られることもなく、人々の記憶からも跡形もなく消え去ってしまった。

彼等を欠かした世界では、音を立てて崩れ去るが如く怪奇が続き、やがて混沌への道を歩む事となった。皆が皆賊となり、互いが互いを喰らい、殺め、刺し違えた。最早人間としての高度な知能は存在せず、その光景はまるで、双眸を失った蛇が違いを咬み殺しあうような世界だった。


「と、まあこんな事があったのさ」

「もう何遍言えば気が済むのよ」

「聴きたい奴がいる限り」


ここまで読んだやつ暇を持て余しすぎてる感あるわ

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