プロローグ
少年は夢を見た。
怪物の夢を。
そしてその怪物は何か黒いモヤのようなものが全身を包み込んでいて、
どことなく陰湿な雰囲気に飲み込まれていたのである。
ヤツは走っていた。
彼らの街を、ヤツに接した人間はたちどころに覇気を失い、
ただプラナリアのような異様な目つきになってしまった。
けだるく、悲しく、憂鬱で、憎しみで、怒りで、嫉妬で、そんな負の感情を押し付けられた人々は生きる意味を失い、
死ぬこともできずにアスファルトの道路に崩れ落ちるのである。
怪物の通る道には凄まじい悪臭が放たれており、呼吸をすることもままならない程そこいらじゅう全体が汚染された道と化してしまっていたのである。
ヤツはだいたい男かなと想像できた。
そしてさらには、強力な闇の波動を発していた事も理解できた。
少年は夢の中で、ひどく過酷な状況に追い込まれたのである。
それは怪物から逃げなくてはならなからである。
いや、正確にはその怪物の視野に入ってはならない、意識の範疇にあってはならないため、常に身を隠し続けなければならない状態であったのだ。
彼は逃げた、走って遠くまで行っても、視界のどこかにヤツの姿が現れる。
父親の車の中に逃げ込もうかと考えたが、車にはヤツの手形がビッシリとついており、中を確認された形跡を残していた。
車に逃げ込んで、万が一戻ってこられた場合、その場ですべてが終了するバッドエンドだ。
彼は走った。
突き当りのT字路まで差し掛かる瞬間、彼は身の毛のよだつ思いをした。
怪物が滑るようにして目の前を横切ったのである。
幸いにもヤツ少年の存在に気付いていないらしかったようで、遠くのほうまで行ってしまったようだが、生きた心地がしなかったのは事実である。
少年は再び走り出す。
友人の家に逃げ込もうか、
あの角を曲がれば、すぐ左側に友人の家があるはずだ。
だが、そんな希望は速やかに砕け散った。
鬼瓦の塀に怪物の影が映し出されている。
その距離およそ5メートル。
出会いがしらにとり殺されるのは幼稚園児でもわかる事だった。
彼は逃げた。全力で、
問題は、ヤツの視界に入らない事である。
夢から覚めた少年の布団は、汗でびっしょりとしていて、息を切らしていた。
だが、そんなことよりももっと重大な後遺症があった。体が、動かないのである。
金縛りだ。彼はさっきの夢が夢であるとの安心感に浸る間もなく、金縛りにかかった状態で目を覚ました事実にさらに怯えた。
「動かない、どうしよう」
少年は心の中で叫んだ。
彼がこの時、最も危惧していたことはタッタ一つ、金縛りが続く状態で奴と対面してしまう事だった。
彼は理解していたのだ。
「ううっ。たぶん、おそらく、これはまだ夢なんだろうな。まだ体が起きていないんだろうな。だから、奴を見てしまう可能性も、夢ならではの起こり得ることなんだろうな」
お互いが、お互いの存在を観測した瞬間、この物語は始まる。
カルマの浄化という運命が課せられたこの少年の名を、栄一という。
「いる、扉の外に……」
彼がちょうどそう直覚した瞬間に、彼の肉体は解放された。
「動く! 動くぞ!」
次の瞬間、扉は開け放たれ、そのどす黒いナニモノかが
彼の顔を、のぞき込んだのである。