act.4
玄関前で、コートごと沙成を抱きしめた哲平は、頬に触れる髪のあまりの冷たさに驚いた。
「沙成ちゃん、どれだけあそこに立ってたわけ?!」
「んー。・・・覚えてない」
すっぽりと哲平の腕の中に収まり、肩口に顔を埋めたまま沙成はくぐもった声で応じた。
「覚え…って、体冷え切ってるんじゃないの?!」
「・・・へいき」
確かに最初は寒かったけれども、今はこうして哲平が抱きしめていてくれるから大丈夫。
「駄目だよ、風邪引く!!」
抗議する間もなく、沙成は哲平によって家の中へ連行された。
何度か泊まって、家の中の事も多少は勝手が分かる。哲平は沙成をリビングへ連れていき、ヒーターを付けると風呂の用意までした。
「いいよ、そんなこと」
「駄目。・・・まだものすごく冷えてるじゃないか」
氷のように冷たい、紅潮したままの頬を大きな掌で包む。
・・・初めて会ったときも、緊張からか寒さからか沙成はこんな風に頬を染めていた。あの時、シャッターを切りはしたけど、本音を言えばこうやって触れたかったのだ。
込み上げてくる愛しさを抑えられず、触れるか触れないかのラインで哲平は唇を近付けた。
「沙成、会いたかった・・・」
いつものように哲平のキスから逃げようとする沙成を、今夜ばかりは許してやれない。
「哲…」
「だめだよ、今日は。…逃がさない」
「てっぺい、やだ」
泣きそうな顔で、必死に沙成は首を振る。
「そんなに、嫌?」
気分を害するよりも、なぜそんなにも沙成が自分とのキスを嫌がるかわからなかった。さっきだって抱きしめたら、嬉しそうに自分から腕を回してきたくせに。・・・わざわざ哲平を迎えに来たくせに。出会ってから三ヶ月。ケンカして、沙成から折れたのは今回が始めてだった。
「約束しろよ。…そしたら、良い」
「約束? 何の?」
「--俺を一人にしないって言う、約束」
今回のことが余程こたえたのだろう。怖がるというより、縋るように沙成は哲平を下から覗き込んだ。・・・そんな可愛い事をされたら、理性など簡単に飛んでいってしまうと言うのに。
視線を絡ませたまま、哲平はローファーの背もたれに沙成の肩を押し付けた。髪と揃いの栗色の瞳が不安げに揺れている。そんな表情さえ愛しいのは、惚れた欲目だろうか。
「約束する。今泉哲平はこの先何があっても、西枝沙成を独りにはしない」
「……嘘ついたら、別れてやるからな」
「嘘なんてつかないよ」
「どうだか……」
「本当だよ。……沙成、愛してる」
「……うん」
吐息で囁かれ、今度こそ、沙成はおとなしく瞼を閉じた。
優しいキスが、二人を繋ぐ。
触れて離れて……、もう一度角度を変えて触れる。啄ばむような口付けに、沙成は甘えるように応じた。
唇を放し、頭ごとすっぽり沙成を抱きしめた哲平は、くすすと笑った。
「何かさっきのってさ、結婚式の誓いの言葉みたいだったよなー」
「な、何言って…」
うろたえる横顔に、そっとキス。もう遠慮なんてするつもりはさらさらなかった。
「今夜は取りあえずキスだけで見逃すけど、最終的に俺は沙成が欲しい」
「馬鹿たれ! 五年早いわ、このマセガキ!」
「…そーゆーこと言うと、このまま襲うぞ!」
「やだやだ!」
じたばたと沙成は年下の恋人の腕の中でもがく。本人必死で抵抗しているつもりらしいのだが、傍目からは出来立ての恋人同士のじゃれあいにしか見えなかった。
ローファーの上に押し倒され、コートの襟の隙間に唇が寄せられる。唇ほどではないが首筋も冷えていた。
「……ほら、まだ体が冷たいよ。もうすぐ風呂の用意できるから、入ってきなよ」
「わかった、わかったから……っ」
予想外の場所に直に触れられて、はっきりいって沙成は焦っていた。触れられるのが嫌なのではない。ただ心の準備が出来ていないのだ。
……大体、キスだってさっき始めてしたばかりなのに。
「ーなんだったら、いっしょに入ろうか?」
「いらないっ」
「……つまんないの」
口で言うほど本気ではないらしい。唇の行き先も、首筋から額に変わった。甘やかすように、冷えた額や鼻にキスを送る。沙成も今度は拒まずに、哲平の背中に腕を回してキスの雨を甘受した。
家の中も沙成自身もすっかり暖まった後、二人は遅い夕食を取った。
あの日一方的に怒って飛び出したものの、やはり会いたい思いは消せなくて。哲平は最初から<ウエスト>の閉店まで時間潰しするつもりで部室に残っていたので、パーティには出ず食事もしなかったらしい。
「ありあわせでいーよ、沙成の作ったもんなら」
殊勝に言った哲平の前に出されたのは、どう見ても〈御馳走〉の域に入る品ばかりだった。しかも献立は哲平の好物ばかりで構成されている。料理を作っていてくれたことも嬉しいのだが、沙成が自分の好物を覚えていてくれたことが何よりも嬉しかった。普段の言葉はすげないくせに、沙成はこんなところでいつも哲平を大切にしていてくれる。
冷たい言葉で哲平を拒むのは沙成なのに、さりげない優しさで暖かな気分にしてくれるのも彼なのだ。
ダイニングに用意された御馳走を、哲平は舌だけでなく心でも味わっていた。
「……なんだよ?」
向かい合わせでサラダをつついていた沙成は、哲平の視線に気がつき顔を上げた。怒っているように唇を尖らせてはいるが、実のところ照れているだけである。「待ってた」とも「会いたかった」とも口には出していないが、料理を用意していたあたりで哲平に気持ちはばれているだろう。
「暇はないとか散々なこと言ってたくせに、待ってたんだ?」
案の定嬉しそうな揶揄の言葉が掛かる。
「……暇はないとは言ったけど、一緒に居られないとは言ってない。ハヤトチリしたのは哲平だろ」
実を言えば言い過ぎたと少々後悔もしていたのだが、今ここで告げるのはなんだか悔しい。
今だって言葉の揚げ足を取って、悪戯げに瞳を輝かせているのだから。
「一緒に居たいと、少しは思っててくれたんだ?」
「……仕事を手伝わせようと思ってただけだよっ」
アルバイトと言うほどではないが、時々哲平は<ウエスト>で臨時店員をする事がある。絵画に対して造詣はないのだが、梱包したり、会計をしたりそれくらいの事ならば十分に役に立つからだ。
「それって、一日中俺と居たかったってこと?」
「ーなんでそうやって自分の都合のいいように考えるんだよっ」
真っ赤になって抗議したって、威力はない。図星だと白状しているようなものだ。
哲平はシャンパンを口に含みつくづくと呟いた。
「……今カメラ持ってたらよかったなぁ」
「なんだよ、薮から棒に」
「だって、今の沙成めちゃくちゃ可愛かったよ。撮りたかったなぁ」
「……撮らなくていいよっ。大体お前ポートレート苦手だって言ってたじゃないか」
以前の会話だ。『ポートレートが苦手だから沙成で練習させて』と哲平は、無理矢理に沙成をモデルにしたのだ。無理矢理とはいっても、<ウエスト>の店内で仕事をしている姿を彼が勝手に撮るといった手法だったけど。そう言えば出来上がったものは見せてもらっていない。出来が悪かったから持ってこなかったのだろうか。
「うん。今でも得意じゃないけどさ、でも、沙成だけは撮りたくなるんだよ」
「恥ずかしいから、もういやだ」
「そんなこと言わずに撮らせてよ」
鋭いはずの瞳を細め、哲平は子供をあやすように笑った。そして脇においてあったカバンから、一枚のパネルを取り出した。
「……良く撮れてたからさ。クリスマスプレゼントに自分の写真なんて嫌かもしれないけど、貰ってよ」
渡されたのは、満面でこそないものの、幸せそうに笑う自分のポートレートだった。焦点をしぼってあるため背景は良く分からないが、恐らく<ウエスト>で撮ったものだろう。哲平にカメラを向けられたのは、初対面の時とあの練習の時くらいしかないから。
……哲平の前で、自分はこんな表情をしていたのか。
……哲平は、こんな風に自分を見つめていたのか。
愛されていると、愛していると……言葉にしなくても伝わる思いがそこには溢れていた。
黙り込んだまま一言もない沙成に、哲平は不安になった。いつもなら、絵画とは畑が違うものの、画商の観点から色々と感想やアドバイスをくれるのに。
よほど気に入らなかったのだろうか。……自分としては今までで最高の出来だと思ったからこそ、伸ばしてパネルにしたのに。
だが哲平の想いは杞憂だった。
「……ポートレートが苦手なんて、嘘吐きだよ、おまえ」
「え、じゃあ気に入ってくれた?!」
「うん。……サンキュ」
どんな表情をしていいか分からずに、結局泣き笑いの顔で沙成はパネルを抱きしめた。
不安が去れば、普段の調子が戻ってくる。
「沙成はくれないの? プレゼント」
あくまで冗談のつもりだった。自分が渡したからと言って、相手にまで要求するつもりはなかった。ただ、キスの一つでもせしめようと思って言った言葉だった。
なのに。
「後で渡そうと思ってたんだけど……。取ってくるよ」
予想外の返答が返ってきた。
ー哲平が思っていたよりももずっと、沙成はこのクリスマスを大切にしていたらしい。あんな何気ない言葉に腹を立てたりしないで、いつもみたいにさらりと流しておけば良かった。そうしたら沙成を傷つけずに済んだのに。
苦い後悔をしている間に、沙成は戻ってきた。手にはキャンバスと思しき包みを抱えている。哲平があげたパネルよりも一回り大きい。
奇麗に包装された紙を解くと、雪の中に静かに佇む西枝邸を柔らかな色調で描いた一枚の絵画が出てきた。
絵画の知識はないが、絵から零れてくる穏やかで優しい温もりを、哲平は感じる事が出来た。
「……俺はお前みたいに自分で物を創造する事は出来ないからさ。幸に我侭言って描いてもらった」
「杉本さんに?」
絵画の世界の事は分からないが、杉本幸画伯は若いながら売れっ子である。1号に結構な値がつくと聞いた事も有る。いくら大学時代からの友人とは言え、沙成も大した我侭ぶりを発揮したものだ。
「……自分の好きなもの、哲平にも見せたかったんだよ。雪の中に立つこの家も、幸の絵も、俺は大好きだから、おまえにも好きになって欲しかった……」
哲平はもう一度手の中の絵を見詰める。描いた人の技量も筆舌に尽くし難いものが有るが、その暖かな絵を自分にも見せてくれようとする沙成の気持ちが嬉しかった。
貰ったばかりのキャンバスを丁寧に脇へ置くと、哲平は急に顔つきを改めた。不意の変化に、傍らに立ったままの沙成は戸惑う。
「ー今さ、凄く後悔してる」
「なんだよ?」
「食事の終った後に、パネル渡せばよかったよ。そしたらいい雰囲気のまま沙成のこと、押し倒せたかもしれないのに」
「………………ばかっ」
逃れようとする手首を掴まえ、哲平は沙成の腰を引き寄せる。
「ありがと、沙成。沙成の好きなもの、俺に見せてくれて。嬉しかった。-大切にするよ」
絵ばかりではない。沙成の気持ちも、ずっと大切にしていきたい。
「……うん」
せっかく暖めた食事が冷めるとは分かっていたけれども、仕掛けられるキスを沙成は拒めなかった。
椅子に掛けたままの哲平に覆い被さるような不自然な格好で、深いキスを与えられる。
「好きだよ」
「……言ってろ」
吐息で何度も囁かれ、恥ずかしさについつい天の邪鬼な言葉が返る。
「なんでそう素直じゃないかなぁ。一回くらい『好きだ』って言ってくれてもいいんじゃない?」
呆れた声で応じるものの、本気は入っていない。
「ばーか。哲平の分際で。十年早いって言ったろ」
「じゃあ、十年後、楽しみにしててよ。俺、いい男になってるからさ。その時は『好き』って言葉だけじゃ言い表せないくらい、沙成のこと惚れさせてみせるよ」
「……。楽しみにしてるよ」
本音を言えばとっくに『好き』だけで気持ちは言い表せなくなっているのだが、この大言壮語を吐くお子様に言ってやるのも悔しい。
お子様……。
その言葉に引っかかるものを感じて、沙成は、哲平の腕の中で思いを巡らせた。
社会人にとってクリスマスイブは仕事と相場が決まっているが、学生にとっては終業式のある日ではなかろうか。
にやりと沙成は唇の端を持ち上げた。実に実に楽しそうに。
「ー哲平、俺見せて欲しいものが有るんだけど?」
「なに?」
てっきりほかの写真の事だと思っていただけに、沙成の言葉は、効いた。
「通知票♪」
「……こんなときばっか、大人の権利振りかざすなよっ」
「だって大人だし」
楽しそうに笑って、沙成は哲平からカバンを取り上げようとする。勿論、哲平が素直に渡すはずもなく。二人の攻防は続いた。
もとから、どちらも本気ではない。
激しく暴れて疲れたものの、目が合えば、どちらともなく吹き出してしまう。
こんな風に笑える時間がたまらなく幸せだと、思ったのは一体どちらだったのだろうか。
「来年も再来年も、ずっと一緒にクリスマスやろう」
「……十年先に、俺を惚れさせるんだろ?」
「十年先も二十年先も、ずっと一緒に居てよ」
「……哲平次第だな」
「じゃあ決まりだ」
顔を上げれば、雪のように優しいキスが降りてきた。
「俺が沙成を嫌いになる事なんて、この先絶対ありえないから」
自信満々に言い切った恋人に、幸せな笑顔で、でもいつものように沙成は応えたのだった。
「……ばーか」
クリスマスイブも明けて二十五日。
<ウエスト>の休憩室には一枚の写真パネルが飾られていた。
休暇の終わった秀宏や、沙成を心配して来た幸はそのパネルを見てほっと胸を撫でおろしたそうである。
この二人が、これからどんな物語りを作っていくか、とても楽しみだけれど、それはまたの機会においておいて、この冬の物語りはおしまいになります。
END
かなり前に書いたものなので、現在と色々変更点があります。
可能な限り修正したつもりですが、やらかしていても目を瞑っててくださいませ(笑)。
なお、高校の冬休み期間については、下記を参考にさせていただきました。
http://wonder-trend.com/archives/2806.html
哲平と沙成の話は、まだ短話があるので、こちらもそのうちに掲載したいですね。
あと、他のカップルも書きたいです。
雪野桂(時代活劇作家)×杉本幸(画家)…共に峰波学園卒業生。同い年。
森生聖里×遠野文月…共に峰波学園在校生。学年は同じ。とある理由で遠野が一つ年上。