act.1
商店街の並びに、その画廊はあった。
ガラス張の扉の間口はさして広くないが、一歩中へ入ると外見からは想像もつかない広い空間に、多くの絵画が掛けられているのが分かる。
経営者の才能か、雑多に並べられているように見えて、存外圧迫感を感じない。
それも、ここ<ウエスト>の魅力なのだろうか。
<ウエスト>の客層は女性に広い。葉書大の大きさから気軽に買える品を揃え、主婦がインテリアに出来る物も数多く置いているせいだろう。
また親切な買い取りもしているから、季節や内装に合わせて買い換える主婦も最近は増えてきたそうである。
カラン。
ドアに付けられているカウベルが来客の到来を告げた。
「いらっしゃいませ」
先代が交通事故で亡くなった為に、去年から店主となった青年はにこやかに客を迎えた。まだ二十代も前半だが、子供の頃から両親について仕事を見てきただけあり、目端が利くと評判の画商である。
「寒ーいっ!」
開口一番喚きたてたのは、どう見ても画廊には不似合いな学生服姿の少年だった。
西枝沙成は相手を見るなり、げっと呟いた。
「沙成ー、寒いよ、ここっ」
「馬鹿たれ!変にヒーターなんぞ掛けたら絵が悪くなるわっ」
「軟弱だなー」
来た早々に「寒い」を連発した少年は、自分のことは棚に挙げて言い切って下さった。本当にこの馬鹿ときたら…!
自称「沙成の恋人」今泉哲平は、近所の名門私立・峰波学園に通う高校三年生である。写真を趣味とする彼は三カ月程前、<ウエスト>の裏に価する西枝邸に無断侵入したという過去を持っていた。
沙成の父が建てた屋敷は、大通りに面した画廊が近代的な無機質さを強調しているのに対し、裏の住居は赤い煉瓦を基調にした中世ヨーロッパ風に仕上げられている。庭も広く、彼が海外へ仕事で出掛けた際に仕入れた樹々が、屋敷を更に洒落たものにしていた。
大通りに画廊があるのは知っていたが、なんの気紛れかその日に限って哲平はカメラを下げて、裏道に足を踏み入れ、くだんの屋敷を見つけたのである。
まだ少し紅葉には早かったが、美しい風景は彼のカメラマンとしての心をくすぐった。それでつい、良いアングルを探そうと庭に入ってしまったのだ。
「何してるっ?!」
不法侵入者に沙成が叩きつけた推何は、しかし、当の本人の耳には届いていなかった。
少年は思わず、カメラを構えてシャッターを切っていたのである…。
屋敷を包む静謐な空気に負けることなく、さりとて空気を壊す事なく立っていた青年を、哲平は今まで見たどんな風景よりも生き物よりも美しいと思ったのだ。
以来、暇さえあれば(なくても見つけて)哲平は、沙成のもとを訪れるようになった。
もちろん目当ては屋敷ではなく、沙成本人だった。ストールを羽織って怒鳴りつけた青年に、哲平は一目惚れしたのであった。
来客用に設けてあるパイプ椅子のセットを乗っ取って、哲平はハンサムな横顔をテーブルに押し付けた。
ハンサムとは言うものの、哲平の一つ一つのパーツは取りたてて整っているわけではない。なのに、全体が揃うとなぜかバランスが取れているように感じられるのだ。
標準を軽く10cmは上回る身長に、短く切り揃えた漆黒の髪。被写体を探して四六時中外に出ているためか、健康的に焼けた肌。印象的なのは、相手をじっと見詰める切れ長の黒い瞳だ。無邪気な子供みたいに笑うくせに、時折、獲物を狙う鷹のような鋭さを垣間見せる。この瞳に見つめられていたいと願う少女も、そして女も多い。・・・本人は預かり知らぬ事だが。外見はともかく、中身はいたってお子さまな今泉哲平だった。
「なーなー、沙成ちゃん。明後日、暇?」
「暇じゃない」
今更「退け」といって聞く相手でないことは分かっているので、若い店長も敢えて哲平に注意しようとはしなかった。買手のついた絵の代りに出す作品をあれやこれやと検討しながら、店員と話している。店長とあまり年のかわらない店員も、沙成と哲平の仲は承知していて、どちらかの肩を持つようなことはしなかった。彼も中々したたかと言えよう。
想い人に冷たくあしらわれて、哲平はむくれたが、相手にする沙成ではない。
五つの年の差は痛い。沙成ときたら、哲平のことなどてんで子供扱いなのだ。
「ほら、哲平君。お客さんがきますから、テーブルにへばりついていないで、奥でお茶でも飲んでて下さい」
「秀宏~。甘やかすんじゃない、その馬鹿をっ」
「馬鹿じゃないよっ。沙成のいけず!」
「あー、もー、店長! ケンカなら奥でやって下さいよ。接客は私がしますから」
沙成が答えるより早く、哲平の大きな手が細い手首を捕まえた。
「秀宏さん、ありがとっ。沙成貰ってくね!」
「静かにしてて下さいよ」
〈どちらの肩も持たない〉と言うのは絶対嘘だと思う西枝沙成、二十三才だった。
結局、哲平の思惑にはまって、沙成は二人で控え室のテーブルを挟む羽目になってしまう。
「俺は凄く不本意なんだけど」
「そ? 俺は嬉しいけどな。沙成と居られて」
初対面で告白してからというもの、哲平は沙成に対して気持ちを繕う事は一度としてなかった。
「他人の迷惑を考えない奴だよ、全く」
頬杖をついて、ふんと横を向いてやる。おとなしそうな外見とは裏腹な短気で口の悪い本性を知っている少年は、それくらいではめげなかった。
「仕事の邪魔したって?」
「わかってるなら邪魔するなよ、ボケ」
だん!と机を殴るが、効果ゼロ。おそらく校内校外問わずもてまくっているだろうハンサムな少年は、両手に頬を乗せて嬉しそうに沙成を見ているだけだ。
実のところ、くるくると変わる沙成の表情を見ているのが好きなのだ。仕事をしているときは取り澄ましているくせに、素の沙成は、とても感情的で可愛い。
「いーじゃん。フレキシブルに時間を使えるのが、自由業の良いとこなんだし」
「…事件の解決になってないぞ、おまえ」
男性的と言うよりもむしろ少女めいた印象を与える顔を顰めて、沙成は嫌そうに応じる。そんな顔も恋する哲平にはとても愛しくて。ついつい顔がにこにこと緩んでしまう。
「するつもりないもん。…それより、沙成ちゃんかわいいなぁ」
「〈ちゃん〉付けはよせ!気持ち悪いっ!」
「かわいいのに」
「かわいかないっ」
力一杯叫んで会話するせいで、沙成は哲平の倍は体力を消耗する。今度は沙成が事務所の机につっぷす番だった。
事務所の机といってもスチール製の物ではなく、木作りの逸品である。店員が休憩できるようにと、父親の代から入れられていて、沙成や秀宏はちょっとした休憩や昼食に良く使っていた。小さいがキッチンもついているので、お茶や簡単な料理くらいはここで十分に作れた。
「哲平に付き合ってると疲れる」
「年寄りの台詞だよ、それ」
むっとして顔を上げた小めの頭に哲平は手を伸ばす。沙成の髪は少し栗色ががっていて軟らかく、指で梳くと気持ちが良い。嫌がるかと思ったが、沙成は素直に哲平の好きに任せていた。
しばらくその感触を楽しんで、哲平は今度は下手におねだりを開始する。
「なー、沙成」
「なに?」
「明後日、本当に時間ないの?」
「ない。…学生と違ってこっちは仕事があるの」
冬休み期間については、周辺の学校でも各々差がある。
幼稚園を含めて12月23日から冬休みに入る教育機関が多いが、哲平が通う峰波学園は12月25日制を維持したままの数少ない例だ。
よって、クリスマス・イブに当たる12月24日も、哲平は半日学校に通わなくてはならない。
「だって、クリスマス・イブだぜーっ?! やっぱり恋人と過ごしたいじゃんか」
だだをこねる少年に、沙成はちろりと一瞥をくれる。
「だからコーコーセーはやだって言うんだよ。そっちは半日で終わりかもしれないけど、俺は夜までお仕事! クリスマスなんていったら掻き入れ時の一つなんだ。哲平の我がままなんかに付き合ってられないね」
「沙成!」
「大体、誰が〈恋人〉だよ。厚かましい」
ぴしゃりと言い放ち、席を立つと沙成は店に戻り掛けた。
が、何かを思い出したように少年を振り返る。
「哲、もう少ししたら…」
だが、彼はすべてを言い終えることはできなかった。
哲平は急に椅子を倒す勢いで立ち上がり、一度も沙成を見ようとしないで裏口から飛び出して行ってしまったのだ。
「哲平?!」
慌てて沙成が後を追っても、もう手遅れだった。彼の言うところの高校生は、とっくに西枝家の門を出て行ってしまっていた。
「哲…」
言葉が出てこない。
「店長?! 哲平君?!」
物音に弾かれたように、店から秀宏が飛び込んでくる。
哲平が開けっ放しにして行った扉の横で呆然としていた沙成は、その声ではっと我に返った。
ぎこちない笑みを、友人でもある店員に向ける。
「なんでもない、秀宏。あの馬鹿がちょっと短気起こしただけだって」
「短気起こしたって…要はケンカしたんですか?」
突出した美貌ではないが春の日だまりのような笑顔を持つ背の高い青年は、心配顔になった。
「ケンカって言うほどじゃないよ。…大丈夫だって、そんな心配そうな顔しなくても。どうせ、一日と持たないよ。あいつ馬鹿だし、明日には忘れてるんじゃない?」
自分でも信じられないくらい、すらすら言葉が出てくる。肝腎な言葉は出てこないのに。
秀宏はじっと沙成の瞳を見つめていたが、やがて深い溜め息をついた。
沙成との付合いはこれでも結構長い。意地を張ったら頑として引かない性格を知っているだけに、秀宏はそれ以上彼を問い詰める事が出来なかった。
「店長が言うならいいですけどね。…でも、哲平君も良い子なんですから、あんまりケンカしないで下さいよ?」
「うん、わかってる」
親切な店員に言われるまでもなく、沙成だってケンカがしたいわけではなかった。そもそも、あの馬鹿が最後まで自分の言葉を聞かなかったのがいけないのだ。
無理矢理責任転換して、沙成は秀宏を促した。
「さ、もうお客も切れたようだし、今夜はそろそろ閉めよう。どうせ、クリスマスにはカップルや奥さんたちが買いに来るだろうし」
「店長、本当に休ませて貰っていいんですか?」
毎年クリスマスにはプレゼントだとか飾りとかで絵を買いに来る人が多く、<ウエスト>もにわかな忙しさを見せるのだ。沙成もそれを知っているから、家庭向きな小さな壁掛けや、ちょっとした宗教画をたくさん仕入れる。
正社員になる前からアルバイトに来ていた秀宏は、その忙しさを知っている。勤続年数で言えば沙成よりもずっと長いのだ。
だが、店員が以前の半分に減ったせいで、沙成は中々秀宏に休日をやれなかった。単純に人手の問題もあるし、店長として未熟な沙成の補佐をしてもらうためでもあった。彼がいなければ、沙成は両親の後を継ぐ事はできなかっただろう。
誰より一生懸命勤めてくれている秀宏だからこそ、その努力には報いたいのだ。
「済みません、忙しいと分かっているのに…」
「いいっていいって。ここのところ、杉本幸の個展なんかがあって休みがとれなかったし、彼女も怒ってるんじゃない? クリスマスくらい、つきあわなきゃ愛想尽かされるよ?」
美大在学中に二科展などで賞を取り、新人作家としてデビューを果たした杉本幸の作品を扱いたがる画商は多かったが、幸は自分の作品の売買はすべて<ウエスト>に一任していた。柔らかな風景画を得意とする彼のファンは多く、個展開催中の一週間は文字通りてんてこ舞いだった。
「けど、明後日…哲平君に手伝って貰う予定だったんでしょう?」
「心配性だな、大丈夫だって。俺一人でどうにもならなくなったら、店閉めちゃうから」
我ながら良い案だななどと、空笑いをしながら、でも沙成は秀宏の明日からの休暇を取り消させはしなかった。
大切な人だから優しくしたい。
秀宏には、偽りなくそう言えるのに。
…言葉が上手く綴れない。
哲平の大馬鹿、ドアホ、ハヤトチリ…。
俺は暇はないとはいったけど、一緒に居られないなんて一言も言ってないぞ。
本当に、馬鹿なんだから。
秀宏と別れてから沙成は、大量に余ってしまったホワイトシチューを一人で食べるはめに陥った。
『哲、もう少ししたら…』
あの時、哲平に言うはずだった言葉の続き。
『もう少ししたら店閉めるから、夕飯食ってけよ』
今日は寒いから、哲平の好きなシチューにしたのに。
どーするんだよ、こんなにたくさん余って! 人の話を最後まで聞かないからだぞ。もうおまえになんて作ってやらないんだから!
…わからないけど。〈今度〉が二人の間に来るのかどうか。
塩味のするシチューは、美味しくなんて全然なかった。