新ローマ
東ローマ帝国が消える一週間前、帝国はブルガリアを征服したばかりの軍人皇帝バシレイオス2世によって統治されていた。皇帝はコンスタンス1世と同様に帝国の勢力拡大に熱心に取り組んでいた。
しかし戦争が終わり、コンスタンティノープルに帰還してしばらくした後、帝国全域で大嵐が吹き荒れた、この嵐は2週間に渡って続き、各地の村や町に大きな被害をもたらした。
東ローマ帝国帝都コンスタンティノープル。キリスト教世界最大の都であり、その歴史は古く古代ギリシア人の築いた都市ビザンチウムまで遡る。決して重要な都市ではなかったが東西交易路の中間に位置し交易による富を独占した。やがてローマ帝国が地中海の覇権を握り、皇帝コンスタンティヌス1世がビザンチウムを強化した。そして彼の名を取りコンスタンティノープル『コンスタンティヌスの都市』と命名された。良港の金角湾と天然の要害を有し、守り易く攻め難い場所に位置し、さらにテオドシウス朝2代目の皇帝テオドシウス2世が築いた、テオドシウスの城壁は鉄壁を誇り、長きに渡りコンスタンティノープルを守護した。
ローマ風の建築物が今も数多く残り、ギリシア文化と融合し独自のビザンツ文化を形成した。特に目を引くのはユスティニアヌス帝が建てたアヤ・ソフィア大聖堂であろう。後に後サン・ピエトロ大聖堂が完成するまで、キリスト教会最大の聖堂であったのだから。
たとえ帝国の領土が拡大しても縮小しても帝都である事は変わらない不変の都である。
そこに鎮座する皇帝の元に、嵐が収まり、氾濫で破壊された橋や、街道の修繕要請が各地から届けられ、文官たちが処理に追われるなか、地方の長官から受け入れ難い知らせが届いた。
帝国の東の国境アナトリア半島の彼方、仇敵イスラム帝国の領域、すなわちアジア全域と、西のバルカン半島より西方全域すなわちヨーロッパが忽然と姿を消したとの事だった。
はじめコンスタンティノープル政府は気に留めなかったが、交易路からの交易船やキャラバンが現れなくなった事、キプロス島から南、アフリカとの通信も途絶えた。各地の国境を管轄する長官達からも同様の報告書が大量にとどいた。実際に現地に派遣されたコンスタンティノープル元老院の視察団は、信じられなかったが見た事をそのまま皇帝と議会へ報告した。
当然東ローマ帝国の首脳は困惑した。皇帝は箝口令を敷いても広がるのは時間の問題と判断し、不安による暴動を予防する為各地の軍団に武装を命じ、戦闘準備を整えさせた。
この時東ローマ帝国は、地球から異世界アエテルニタスと呼ばれる世界に国ごと召喚されたなど当の帝国政府内において皇帝バシレイオス2世も、コンスタンティノープル元老院も閣僚も軍司令官達も、帝国住む市民達も予想しなかった。
そしてこの世界に”新ローマ(ノヴァ・ローマ)”が誕生したのだ。