古代から中世へ
アウグストゥス、ティベリウス親子がもたらした影響は計り知れない。
だが初期ローマの皇帝は君主ですらない、あくまでも元老院・市民・軍隊の承認によって存在する最高権力者であり市民の第一人者なのだ。
形式は面目上は共和制なのだ。
ローマの帝政は、その複雑な政治上の理由から”皇帝のいない帝国”として始まったのだ。
時代が降り、
ユリウス・クラウディウス朝断絶後に起きた、四皇帝の年
それを制した。ウェスパシアヌスを、開祖とするウェスパシアヌス朝
ネルウァ
トラヤヌス
ハドリアヌス
アントニヌス・ピウス
マルクス・アウレリウス、5代に渡った続いた平和と繁栄を謳歌した五賢帝時代。ネルウァ・アントニヌス朝
セウィルス朝の滅亡とプリンキパトゥスの衰退から始まった軍人皇帝時代と3世紀の危機。
ディオクレティアヌス帝から始まったドプリンキパトゥスの終焉とミナートゥス、専制君主制の始まり。
ディオクレティアヌスの時代から皇帝は元首から君主へと変わり始めて行った。
テオドシウス帝死後の東西の分割統治と西ローマの滅亡。
そしてバシレイオス2世による東ローマ帝国全盛期の時代。
ローマは形を変えてもその名は存続し続けた。そして、テオドシウス帝の死で古代ローマ帝国は長男アルカディウスと次男ホノリウスが東西の皇帝となり、ローマは東西に分裂(再統合されなかった分割統治)した。しかし、百年経たぬうちに西ローマ帝国はゲルマン人の浸入に耐えきれなくなりついには、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ滅亡した。残された東の帝国は西のローマ皇帝位を継承し、実行支配こそせずとも、面目上は、東西全ローマの支配者として宗主権を持った。だがローマ文化を継承したものの、次第にギリシャ化し、公用語もラテン語からギリシャ語に代わられローマの名すら建前となっていったのだ。
それだけでなく、正教会を国教とする東ローマ帝国は西欧で急速に勢力を広げるカトリックとの間に、教義の差異を巡る激しい宗教問題も抱えていた。
次回から本章に入ります。
長々とすいません。