#2 独善と英断
退職届
そう書かれた一遍の封が来栖 伸一のデスクに提出されたのは、未来の事件から二週間後であった。伸一はそれを一瞥すると、その封の差出人である望に聞いた。
「なんだ、これは」
「事情は先週お話しした通りです。一身上の都合により、まことに勝手ですが辞めさせて下さい」
生気の欠片もない目で、望は機械的に返答した。
「妹さんの介護の為か」
「……はい」
「無収入で、妹さんの介護が出来るのか?」
「……バイトでも何でもして、未来は絶対に俺が守ります!」
望の目に赤黒い激情の炎が灯った。
「バカヤロウ!!」
課内に響き渡る声で伸一が一喝した。
「妹が本当に大事なら、何故俺に相談しないんだ! 俺はお前の相談相手にすら値しない人間か? バイトで本当に大事な家族を守れんのか!!」
温和な伸一が怒鳴る事など、望を含めて課員一同聞いた事も無かった。伸一の一喝を受けた望は、放心状態で返答すら出来なかった。だが目から濁った炎は消え、変わりにひとすじの涙がこぼれ落ちた。
「これ以上……ご迷惑を……おかけする訳には……いきません」
涙をこぶしで拭き、必死に涙をこらえて望は言った。一年前の母の件でも上司や同僚にたくさんの迷惑をかけ、また自分の都合で皆を振り回す事は、望には絶えられなかった。
「バカヤロウ」
今度は穏やかな笑顔で伸一は立ち上がり、望の肩を抱いた。
「辛かったな」
母を亡くし、妹までを失いかけた望は、辛うじて保っていた最後の緊張の糸を断ち切られ、その場に泣き崩れた。
◇ ◇ ◇
「落ち着いたか?」
子供の様に泣きじゃくる望をただ見守り、泣き止む迄待った伸一が聞いた。
「はい、みっともないところをお見せして申し訳ございません」
「泣くのは健康にいい事だ。
……では営業本部営業推進課課長として命ずる。今月末、九月三十日を持って二又瀬 望の営業本部営業推進課主任の任を解く」
突然の伸一の言葉に望は理解が出来ず、呆然としていた。
「同じく同日付をもって比良坂支社営業一課主任を命ず」
ーー比良坂支社って俺の実家がある……
「ほれ、これが辞令だ。確かに渡したぞ」
「え? ほんとに……?」
「冗談で辞令が発令されるか。これはもう要らないな」
そういって伸一は望の返事を待たずに、退職届を真っ二つに引き裂いた。
時期外れの異例の人事。無論、偶然の産物などでは無い。
これは事件後、望から連絡を受けこの事態を想定した伸一が、自分の肩書きと人脈を最大限に利用し、望を実家に戻す為に水面下で動いた結果であった。無論、他部署の人間が組織の要となる人事に口出しするなど、組織としては言語道断であり、伸一のとった行動は明らかな越権行為である。
だが伸一は信じた。
望の連絡が全てで、情報が乏しい状況では確かな事など何もない。普通なら自らのキャリアを危険にさらしてまで、それ以上行動を起こす事を躊躇うであろう。だが伸一は少ない情報を分析し、未来を洞察して望の為に行動を起こす事を決断した。
時に選択は、失敗すれば独善と蔑まれ、成功すれば英断と称される。
伸一は信じた。望が必ず立ち直る事を。そして自分の選択を。
未来が見えぬ、神ならざる人ゆえに。




