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虚ろの小路

作者: 黒崎江治

 異界、という言葉がある。

 この世ならざる場所。人が生きる世界の外にある場所。

 通常、人間社会と異界は境界によって分けられている。

 たとえば川。たとえば峠。あるいは人工的に作られた門。

 これらによって人は、容易に異界へと足を踏み入れることはない。

 では、都市部においても同じことが言えるだろうか。

 無秩序に造成された道路や街は、従来の境界を破壊し、人の世界へ外へと広げた。

 しかしそれは同時に、都市自らの内奥に、異界を取り込む結果をもたらした。

 ゆえに都市では、人間の住む場所の、ごく近くに異界が存在しているのである。

 そして、それを知らぬ人々は、時として容易に、異界との境を踏み越えてしまうのだ。




 私は夜の街路を歩いていた。

 季節は夏。日中に焦がされたコンクリートが熱を放ち、夜気に不快な蒸し暑さをもたらしている。少し歩いただけ汗が浮くような夜だった。明るい街灯の向こうには、上弦の月が浮かんでいる。

 私は仕事を終えて家路を急いでいた。大学での仕事だ。稼ぎは多くないが、負荷もそれほど大きくない。ハングリーさに欠ける私には似合いの仕事だった。今日はレポートの採点のため遅くなったが、日の長い季節には、大抵日没前に帰ることができる。

 自宅は最寄り駅から徒歩十五分程度の安アパートだ。貧窮しているわけではないが、住環境にさほどこだわらない私には、これまた似合いの住居であった。周囲は取り立てて特徴のない住宅街だ。街路が碁盤の目状になっており、迷いやすいのが難点と言えなくもない。

 人通りの少ない路を歩いていると、ふと、私の五感が何かを察知した。右前方から流れてきた冷たい空気が、汗の浮いた肌を撫でたのである。どこか不穏な匂いのする風だった。風の根本をたどると、見知らぬ小路を見つけた。ここに住んで数年になるが、見たことのない路だった。

 小路を覗いてみる。冷涼な空気は、確かにここから流れてきていた。左右をコンクリートブロックに挟まれた、幅二メートルほどの細い路。奥は暗くてよく見えなかった。遠くに見える灯は、少しばかり青みを帯びているように思えた。

 私は比較的好奇心旺盛な人間である。しかし冒険家という程ではない。こんな夜間に、見知らぬ小路に足を踏み入れるのは、通常考えられる私の行動規範を逸脱していた。しかしその時は不思議に思わなかったのだ。もしかすると、近道になると考えたのかもしれない。あるいは、奥に何があるのか気になったのかもしれない。あるいは、不思議な力に導かれたのかもしれない。とにかく、私はどこか虚ろな感じのする小路に、迂闊にも足を踏み入れたのである。




 小路に入った私は、何かに躓かないよう、慎重に歩を進めていた。足元が見えぬほど暗いせいで、地面の感触が定かではないような気さえする。前方から冷たい空気が漂ってくる。周囲の気温は明らかに下がっていた。空を見上げた。先ほどまで出ていた月は隠れてしまったようだ。

 それにしても暗すぎる、と私は訝った。ここは大自然の真ん中ではない。現代日本の住宅街なのだ。家から漏れる灯ぐらいあってしかるべきである。しかし、見えない。

 見えないのだ。ブロック塀の左右にあるはずの住宅が見えない。塗り込められた壁のような闇があるだけである。今やそれは圧迫感を持って私に迫っていた。不安になって振り返る。まだ十五メートルも進んでいないはずだが、小路の入り口も見えなかった。

 私は非常に不安定な心持になり、急いで来た路を引き返した。心拍数が上がるのを感じた。小路に入ったときのわずかな好奇心は消し飛んでいた。

 五十メートルは戻ったはずである。小路の入り口は見えなかった。もう百メートルほど戻ったところで諦めた。非常に困った事になった、と私は途方に暮れた。

 ふと思い出して、携帯端末を起動した。頼りない明かりだが、濃い闇の中に在っては非常に心強い。インターネットに接続し、地図のアプリを開いて現在位置を確認する。

 数度確認したが、ない。このような長い路は存在しない。歩きながらGPSで位置を確認しても、私は一歩も動いていないことになっている。ここは一体どこだろうか。私はますます途方に暮れた。おそらく論理的な思考や、現代的な機器では対処できない状況に陥ったのだろう、と私はしぶしぶ認めることにした。

 しかし、ここで座して餓死なり狂死なりを待つのはあまりにも間抜けである。しかしどちらに進めばよいのだろうか。あるいはブロック塀を超えてみるべきだろうか。私が思案していると、正面から急に、人影が現れた。

 その人影は音もなく現れたので、私は肝を潰した。動揺を隠すように息を吐いて、その人影を観察する。

 近付いてくる人影は黒い衣服をまとっていた。ポンチョか、マントのように見える。顔は能面のように白くて、ぼんやりしている。表情がぼんやりしているのではない。文字通り輪郭がぼやけているのだ。存在自体がひどく虚ろな感じがした。狐狸か霊魂の類だろうか、と私は推量した。

 超常の存在を前にしたものの、私はそれほど恐怖しなかった。既に異界に迷い込んでいる、というのもあったが、目の前の存在から害意が感じ取れなかったからである。こんばんは、と私は間抜けな感じで声を掛けた。

「こんばんは」

 と、その男……声が男の様だったし、背格好も男のように見えた……は挨拶を返してきた。その存在とは裏腹に、低くよく通る声だった。少なくとも理性的なコミュニケーションが可能であることが判り、私は幾分ほっとした。

 挨拶をしたはいいが、話をどう繋いでよいかわからず、しばし沈黙する羽目になった。男は黙ったまま、通り過ぎるでもなく、来た路を戻るでもなく、そこに佇んでいた。

 少しの間を置いて、私は男に、この場所が何処であるか尋ねた。間抜けにも迷ってしまったようだ、とも付け加えた。

「少なくとも、生きている人間が来る場所ではない」

 と、男は意味深かつ役に立たない返答を寄越した。害意はないが、親切ではないようだ。少々共感に欠ける部分がある。

 ともあれ、この場所が何処であるかは、さして重要な情報ではない。私は無事に帰ることができさえすれば良いのだ。明日の仕事に差し支えるほど遅くならなければ、なお良かった。私は男に、ここから出るにはどうすればよいか尋ねた。

「真っ直ぐ歩けばよい」

 と、男は私の前方を指さした。男には言葉の修飾を、可能な限りそぎ落とす習慣があるようだった。彼と付き合う女性は間が持たなくて苦労するだろう、と私は要らぬ世話を焼いた。

 男の言葉が正しいという保証はなかったが、それ以外に根拠のある選択肢はなさそうだった。私は礼を述べると、男が指さした方向に歩き始めた。

 数歩踏み出した私の背後を、男はさも当然と言うように、足音なく付いてきた。理由を尋ねるのも何となく憚られたので、私は特に何も言わないでいた。先頭に立って歩いてくれないという事は、道案内をするつもりではないのだろう、と私はぼんやり考えた。




 小路はどこまでも続いているように思われた。青白い幽かな光が、街灯の様に間隔を空けて頭上に点在している。不吉な冷気はいまだ周囲に漂っており、私の心身を寒くしていた。

 しばらく歩くと、左右のブロック塀が板塀に変わっていることに気が付いた。見れば地面もアスファルトではなく、固い土だ。板塀は古さを感じさせたが、最低限の手入れはなされているように思えた。その様子は神社仏閣を私に想起させた。

 私は周囲の検分もそこそこにして、さらに歩を進めた。私は運動を好まない人間なので、この徒歩行進に早くも嫌気が差してきていた。あとどれくらい歩けばよいのだろう、と私が考えていると、前方に光が見えた。出口か、とも思ったが、落ち着いて考えれば今は夜のはずだ。しかし前方の空、闇の切れ間から降っているのは間違いなく陽光である。雨と晴れとの境の如く、手前が夜、向こうが昼、という奇妙な光景だった。

 その明るい空の下には、街のようなものが見えた。その全景は蜃気楼のように朧げであり、近づかねば詳細は把握できそうになかった。まだ歩く必要があるだろうが、目的地があるのとないのでは随分気持ちが違う。少しばかり歩調を速め、私は街に向かった。




 街に近づくにつれ、徐々にその輪郭がはっきりしていった。高層ビルの類は存在せず、ほとんどの建物が木造だった。しかしそれよりも、私の目を引く要素が一つあった。

 荒れている。建物のほとんどが倒壊しているのだ。火が出ている家屋もあった。逃げ惑っている人々も見える。私が動揺と共に立ち止まり、その様子を見ていると、すぐ後ろの男が呟くように言った。

「昔の話だが、この場所で大きな地震があった」

「子を愛する母。父を慕う娘。互いに愛し合った恋人たち。多くの人が死んだ」

「暴動や虐殺もあった。もっと多くの人が死んだ」

 男の声に悲しみの色はなかったが、それは非情というよりも、諦めの感情が混ざったもののように思えた。毎夜見る悪夢に対する感想を述べているようだった。私はその言葉に少々眉をひそめてから、再び歩き始めた。街に入るのは気が進まなかったが、他に選択肢はなさそうだった。

 市街に入ると、土埃と焦げた木材の臭いが感ぜられた。街路には避難民が溢れていた。街並みは現代よりかなり古い時代のそれだ。先ほどの男の話から考えるに、この状況は大正時代の関東大震災ではないかと思われた。

 私は時をかけてしまったのだろうか。それにしては、ここまでの行程が現実感に欠け過ぎているように感じた。確認のため、比較的余裕のありそうな避難民に声をかけてみたが、返答はなかった。無視されたというより、聞こえていないようだった。試しに避難民の肩に触れてみた。触れることはできたが、またも反応はなかった。私は自分が亡霊になってしまったような気分になった。

 そのようなことをしていると、不注意にも何かに躓いて転んだ。私は膝を強かに打ち、しばし悶絶した。男は私に心配の声をかけなかった。

 私が躓いた地面を見ると、死体があった。瓦礫に頭を無残に押しつぶされた、男性の死体だった。頭蓋がざくろの様に割れ、血液と脳漿が飛び散っていた。せいぜい猫か烏の死体、あるいは骨格標本しか見たことがなかった私は、頭から血の気が引くのを感じたが、無様に卒倒するのは辛うじて免れた。

 私は呼吸を整えて死体に向き直り、目を閉じて合掌した。死体の男は先ほど死んだのか、それとも大昔に死んだのか。あるいはすべてが幻覚なのかは判らなかったが、あまり考えても詮無いことだ。とにかく私の気は少し休まった。

 しかし、何時までも死者を悼んでいるわけにはいかなかった。私は脚についた埃を払い、倒壊した街路を再び歩き始めた。先ほど打ちつけた膝が痛んだ。

 避難民の波に抗うようにして進んでいると、一人の少女が私に駆け寄ってきた。彼女は私を認識しているようで、縋るように私の手を掴んだ。

 少女は十歳か十一歳ぐらいに見えた。栄養状態の良くない昔の事だから、もしかしたらもう少し年上なのかもしれない。私は少し身をかがめて少女と目線を合わせた。

 少女は非常に焦っていたようで、その話は中々要領を得なかったが、どうやら生き埋めになった兄を助けてほしい、ということのようだった。

「助けるのかね?」

 と背後の男が言った。私は少し思案した。亡霊が生者を誘い、自らの世界に引きずり込む、というのはありそうな話である。しかし危険を顧みず善行を成した者が最終的に救済を得る、というのも、物語の定型として良くある。

 しかし論理的な思考で対処可能な事態ではない、ということを既に認めていた私は、結局自分の良心に従うことにした。私は少女の肩に手を置いて落ち着かせ、兄が埋まっているという場所への案内を求めた。




 少女が私に声を掛けた場所からさほど遠くない場所に、件の家屋はあった。いや、正確には家屋だったものだ。完全に倒壊している。とはいえ、周囲の家屋も大体似たようなものだったが。

 本来ならすぐに瓦礫を撤去するべきだったが、いかんせん細腕の私と幼気な少女である。周囲の人間に声をかけてみたが、案の定反応はなかった。男にも助力を頼んでみる。

「残念だが、手伝う事は出来ない」

 男が腕を広げた。その両腕は胴体にもまして存在感がなく、先端に至ってはほとんど見えないほどだった。どうやら男は、この世界に物理的な干渉はできないようだ。

 男がなぜこの世界に干渉できないのか、なぜ私はこの世界に干渉できるのか、人々が私に注意を向けないのはなぜか、少女だけがなぜ私に助力を求めてきたのか。考えるべきことは色々あったが、目の前の状況はそれを許してくれそうになかった。

 私は手近な瓦礫の山から梃子になりそうな廃材を見つけ、それを使って少女と共に撤去作業を開始した。以前、縄文遺跡の発掘作業に参加したことがあるが、それよりも数段辛い作業だった。

 瓦礫の撤去を始めてから十五分程度で、私は汗だくになっていた。前腕にはもうほとんど力が入らず、軍手もせず作業したせいで、手の皮はボロボロで、血が出ていた。

 しかし非常な重労働の甲斐あって、それから間もなく、少女の兄と思しき青年の身体の一部が露出した。私は先ほどの死体を見たこともあって、彼の身体がかなり悲惨な状態になっているのではないか、と身構えた。

 しかし幸運にも、青年の身体は落下した瓦礫の空隙に位置していたらしく、致命傷を受けてはいなかった。骨の数本は折れている可能性があったが、命に別状はないように思われた。発掘当初意識を失っていた青年は処置により、少しして意識を取り戻した。少女は泣きながら兄にすがりつき、ひとしきり無事を喜んでから、私に何度もお礼を言った。私は兄妹が死に別れるという修羅場を目撃せずに済み、非常に安堵した。

 周囲に炎は見えなかったので、急いでこの場所から離れる必要はなさそうだった。しばらく待てば周囲の人間にも余裕が出て、兄妹に手を差し伸べてくれるだろう、と私は考えた。両親が無事ならば、間もなく帰ってくるかもしれない。

 あまりこの街に長居するつもりはなかったし、余震で怪我をするのもつまらないので、私はそろそろ先に進むことにした。男は待たされたことに文句を言うでもなく、いまだ私の傍らに佇んでいる。特に労いの言葉もなさそうだったので、互いに無言のまま、崩れた街路を歩いて街を離れた。




 被災した街から伸びる路の先には、隧道の如く濃い闇が渦巻いていた。地獄に吸い込まれるような気がして嫌だったが、おそらくその先に進む必要があるのだろう。ちらりと背後の男を確認すると、私は再び暗い小路に足を踏み入れた。


 街を離れ、小路に入ってしばらく。私は陰鬱な行進を続けていた。振り返っても既に街は見えず、前方には幽かな灯りと、それに照らされた路が見えるのみ。無言で歩き続けるのに飽いた私は、背後の男との会話を試みることにした。

 答えはあまり期待できなかったが、私は先ほど考えたことを、男にぶつけてみた。この場所について。私が見たものについて。あれは一体なんなのか、と。

「ここは記憶」

 とだけ男は答えた。長々と問答する気はないようだった。私はなんだかすべてが面倒になり、男に対する質問も、ついでにこの場所に関する詮索も諦めることにした。擦りむけた手がじんじんと痛んだ。

 私が脱出への意気を萎えさせつつあった時、また遠くに街が見えた。例によって遠景はぼんやりとしているが、朱く染まっている様子を見るに、夕暮れなのかもしれなかった。気付けば左右の板塀も、やや時代が新しいものへと変わっていた。路はそのまま真っ直ぐ街へと向かっている。私は歩調を速めた。




 夕暮れと思われたものは炎であった。街全体が朱く燃え上がっていたのである。舞い散る火の粉に照らされた空には、爆撃機が編隊を組んで飛んでいた。それらは街に向かって爆弾を落としており、そこから火の手が上がっているのだった。遠くからでも熱が肌を焼き、煙が目を苛んだ。先ほどに増して進入するのが躊躇われたが、当然進む以外の選択肢はなかった。

 街の様子は酸鼻を極めた。多くの建物、財産、そして人命が現在進行形で喪われつつあった。私が顔をしかめていると、背後の男が涼しげな声で呟いた。

「戦争ではまた多くの人が死んだ」

「政治、権益、そして威信。そういったもののために、たくさんの犠牲が出た」

「私は……、私は戦争があまり好きではない」

 ごく陳腐な感想だったが、彼が自身の価値観を表現したのは初めてだったので、私はいささか意外に思った。なにか個人的な感慨でもあるのかと彼に尋ねようとしたところ、近くの住宅から炎の塊が飛び出してきた。

 その塊には二本の脚が生えていた。それは正確には上半身を炎に包まれた人間であった。性別は判然としなかったが、それはもはやどうでもよい事柄のように思われた。犠牲者は私の目の前で倒れ、手足をばたつかせた。

 私は逃げ出したい気持ちを抑えて消火を試みたが、手近に役立つものがない現状では難しかった。加えてこの炎は、身体に付着した粘性の燃料から生じているらしく、化学消火器でもなければ消せそうになかった。犠牲者は間もなく動かなくなった。

 頭がくらくらした。吐き気もしてきた。私は肉体的にかなり疲労していたし、煙も少し吸っていた。精神的な負荷は無視できないものになっていたし、この理不尽から逃れるすべは明瞭でなかった。

 しかしそれにもまして街は理不尽のるつぼと化していた。思想的、政治的な判断は抜きにして、人命が失われていくのはただただ哀しかった。

 非常にナーバスな気分になっていた私を現実……まあ一応現実ということにしておいて……に引き戻したのは、弱々しい女性の声だった。それは周囲の喧騒にも関わらず、かなり明瞭に聞こえたような気がした。

 私が声の主を探すと、一人の若い女性が倒れているのを見つけた。もんぺらしきものを着ているが、その半身にひどく火傷を負っているのが分かった。早急な治療が必要なのは、素人目から見ても明らかだった。平時なら救急車を呼ぶのだが、この状況ではそうもいかない。私は何かできることはないかと、女性に駆け寄った。

「もしかして人助けが趣味なのかね?」

 と、背後の男が言った。私はごく無愛想に否定の言葉を返してから、女性に自分の無力を詫び、励ましの言葉を掛けた。火傷のショックと脱水症状で朦朧としながらも、彼女は徒歩十分ほどの距離に避難所があることを私に告げた。

 女性はさほど大柄ではなかったが、貧弱な私には文字通り荷が重かった。しかし周囲に援助してくれそうな人はいなかったし、なにより時間がかかれば諸共に焼かれてしまう可能性があった。男は例によって役には立たず、私は途方に暮れた。

 しかし僥倖にも、手近な所に大八車を見つけた。現代ではほとんど見なくなった木製の運搬器具だ。私は苦労して女性を大八車に載せ、避難所への道を進み始めた。




 熱い。避難所へは最短のルートを選んだはいいものの、この区画はひときわ延焼が激しかった。加えていつ焼夷弾が落ちてくるか分からない状況とあっては、生きた心地がしなかった。背後の女性をちらりと見遣る。まだ息があるが、非常に衰弱しているのが分かった。

 私はなぜ、このような苦役に進んで身を投じているのだろうか。ここが現実ではないと解っているのであれば、さっさと無視して先を急いでもよかったのだ。それが出来なかったのは、情景のリアルさゆえか。それともこの空間に、私の精神が取り込まれつつあるのか。

 そのような物思いに耽るあまり、私は周囲への注意を怠った。それ故に、火炎に舞い上げられた瓦礫が頭上から降ってくるのに気付くのが、一瞬遅れてしまった。

 気配と熱を察知した時には既に回避は間に合わず、とっさに身をかがめた私の背面を、赤熱した木片が焦がした。悲鳴に近い声が出る。布と肉が焼ける臭いがした。私は慌てて地面に転がり、衣服が燃え上がるのを防いだ。

 多分ひどい火傷をしているだろう。痕が残ってしまうかもしれない。しかし致命傷ではなさそうだった。このままうずくまって夢が醒めるのを待ちたい気分だったが、私は自らの弱気に鞭を打って立ち上がった。

 振り返って女性を確認する。幸い彼女は火の粉を被らなかったようだ。さらにその向こうに目を向けると、私達が先ほどまでいた場所は、火炎を纏った旋風によって焼き尽くされていた。果たして間に合うだろうか。どちらにせよ、焼死は御免被りたかった。

 灼熱した街路を行く。煙で喉が痛かった。普通に歩けばさほど時間は掛からないのだろうが、慣れない大八車を曳いているのでは、どうしても歩みは遅くなる。もはや汗も出なかった。

 干からびそうになりながら、私は一歩一歩進んでいく。やがて前方に学校らしき建物が見えた。人もいる。おそらくあそこが避難所だろう。

 私は息も絶え絶えに、避難所の入り口に倒れ込んだ。数人が寄ってくる。そのまま親切な人々の手によって、私は避難所内へと運搬されていった。




 気が付けば私は暗い小路に倒れていた。周囲は冷え冷えとした闇が満ちており、炎に包まれた街はすでになかった。背中の火傷には最低限の処置がされているようだったが、それでもじくじくと広範囲の痛みがあった。

「目が覚めたかね?」

 と、私の頭上から男が言った。半ばその存在を忘れていたが、彼は変わらずそこにいた。あまり役には立たないが、もしこの世界に一人取り残されてしまったら、と考えると、彼の存在は多少なりともありがたいものに思えてくる。私は彼に、あの女性はどうなったかを尋ねた。

「命は長らえたようだ」

彼はそっけなく言った。私の行為は無駄ではなかったようだ。この世界にとって、それが意味のあることなのかどうかはともかく。

それから私は大儀そうに立ち上がり、またとぼとぼと歩き始めた。体中のあちこちに傷があったし、全身の筋肉がギシギシ軋んだが、私は体力と意気が続く限り、この路を進もうと決めていた。




しばらく歩くと、またも周囲の様子が変わっていることに気が付いた。街灯がアスファルトの地面を照らし、頭上には満月が輝いていた。現実に戻れたのだろうか、と一瞬期待したが、そうではなさそうだった。月齢が違うし、なにより周囲の家々に見覚えが無かった。となれば、ここは先ほどの街と同様、どこかの時代、どこかの場所に違いなかった。

私は昭和時代に発生した陰惨な事件を思い出しながら、戦々恐々と小路を進んだ。進んでも進んでも一本道なのが、ここが現世ではない何よりの証左である。この時代には何があったか背後の男に尋ねると、男は黙って前方を指さした。

前方は行き止まりになっていたが、私はそこに二つの人影を認めた。向かって奥にいるのは女性だった。長髪の美人だったが、少し服装が時代遅れな感じがした。手前にいるのは黒っぽいジャージを着た男だ。こちらに背を向けている。右手に持った大ぶりの刃物がギラリと光った。今にも女性に襲い掛かりそうな危うい雰囲気を纏っている。

「こういう事もしばしばあった」

「この場所に来たからそういう心持になるのか、そういう人間がこの場所に集まるのか、しかとは判らないが」

 私は男の声を聴かず、思わず暴漢に鋭い声を投げかけていた。投げかけてから、私は焦った。刃物を持った暴漢に対処するだけの腕っぷしも技術も、私にはなかったからである。子供時代に喧嘩をした経験はほとんどなく、腕相撲で勝った記憶さえなかった。暴漢がゆっくりと振り返る。その表情は、まず関わるべきでない人間のそれだった。

 暴漢の背後にいる女性はすっかり腰を抜かしており、自力で逃げられそうにはなかった。なによりここは一本道である。暴漢はゆっくりとこちらに近づいてきた。

 私が周囲に素早く目線を走らせると、電信柱の陰に、水色の大きなポリバケツを発見した。牽制の為にそれを男に向かって蹴倒すと、蓋が外れて中身が散乱した。金属バットでも入っていればよかったのだが、そう都合よくは行かなかった。

 暴漢はさらに間合いを詰めてくる。私は慌ててポリバケツの蓋と、ビール瓶を拾って構えた。非常に間抜けな勇者のような格好になったが、この際外見は気にしていられなかった。

 暴漢が刃物を振り回す。私はそれを蓋で防ぐ。相手がナイフの名手ではないのが幸運だったが、私もビール瓶の名手という訳ではない。精神的には相手が優位だった。

 しかし焦れた相手がこちらに刃物を突きさそうとしたとき、蓋に刀身が深々と刺さった。私はこれ幸いと身を捻じって、蓋ごと刃物を引っ張った。暴漢は刃物を離すまいとして、大きく前方にバランスを崩した。無防備な後頭部がそこにあった。

 私はほとんど無意識に、右手のビール瓶を暴漢の頭に振り下ろしていた。硬い打撃音がして、暴漢は地面に倒れた。私が死にもの狂いでもう一撃すると、ビール瓶が割れた。

 男は昏倒しているようだった。死んではいないだろう。確かめる勇気はなかった。

 私は衝動殺人の犯人と同じ気分を味わいながら、とりあえず刃物を回収して遠くに投げた。カツンと音がして、それは背後の闇に消えて行った。

 腰を抜かしている女性に声を掛けようとすると、背後から足音が聞こえた。すわ新手かと振り返ると、若い男がこちらに走ってくるのが見えた。その男は小奇麗な格好をしており、どうやら暴漢の仲間ではなさそうだった。

 私が身構えていると、若い男は女性に声を掛けた。どうやら互いに知己であるらしかった。恋人なのかもしれない。男性は状況を把握すると、女性に無事を喜びながら、私に礼を言った。

 私は罪悪感と照れ臭さがないまぜになった曖昧な笑みを浮かべた。夜道には気を付けるべき、といった旨の陳腐な助言をしたところで、ふとあることに気付いた。

 若い男の声である。低くよく通る声だった。背後の男にとてもよく似ていた。

 しかし考えてみれば、若い男と、背後の男が同一の存在であるという可能性は十分にあった。この場所が死者の記憶によって作られたのであれば、背後の男もその一部であるはずだからだ。

 かといって、そのことを指摘するつもりはなかった。男の気分を害するかもしれなかったし、意味のある返答があるとも思えなかった。

 私は恋人たちの前途に思いをはせつつ、気づけば目前に出現していた路の先へと進んだ。背後の男は無言だった。




 その後の行程は長かった。変わらぬ景色しか見えないとあっては、実際の距離以上に長く感じられた。同行人は無愛想を極めたし、負傷はじんじんと痛んだ。今ではそれに空腹と喉の渇きが加わった。

 あるいは背後の男ははじめから嘘を付いていて、私が疲労困憊したところで魂を取り込むつもりなのではないか。そのような疑心暗鬼が頭をもたげ始めたとき、遠く前方に光が見えた。

 それはまだ小さかったが、現世を感じさせる確かな光だった。暖かく湿気のある風さえ、そこから吹いてきているように思えた。

「どうやら先は長くない」

 背後の男は言った。私は安堵で大きな息をついた。この陰鬱な散歩を終えることができるのは嬉しかった。

 しかし今までの行程を確かめるように振り返った私は、身を凍らせた。遠目に不気味な塊が見えたからである。それはかなりの速さでこちらに迫ってきているように思われた。

「……運が悪いな」

 男の声にも不吉な響きがあった。あれは何かと尋ねても、悪いもの、としか男は答えなかった。その間にも塊はどんどん大きくなりつつあった。

それは、遠目から見れば半透明の塊であった。

しかし少し目を凝らせば、それは多数の人間の姿をしていることが判った。

半ば崩れ、半ば融合し、凝り固まり、蠢きながら、滑るように近づいてきていた。

怨嗟、呪詛、慟哭。声なき声があたりに響き、身も凍るような冷たい気配が満ちる。

亡霊の群れは仲間を欲し、生者である私を引きずり込もうとしているのだ。そう直感した。

 私が寒々とした死の恐怖に晒され、全身を硬直させていると、男が存外力強い声で私を鼓舞した。

「アレに臆するな。取り込まれるな。決して足を止めるな」

 男のそばには数名の人影があった。今まで助けてきた人々に似ているような気がした。

「私達は死者で、君は生きている人間だ。虚ろならぬ人間だ。ここに居るべきではない」

 そう言って男は追ってくる亡霊に向き直った。男の言葉ははっきりと感情を帯びていた。どうやら彼らは亡霊の群れを堰き止めるつもりの様だった。それが可能かどうかはともかく、私がすべきことは一つだった。残念ながら、彼の心情の変化を慮っている余裕はなかった。

 短く礼を言い、私は光に向かって走り始めた。一度だけ振り返ると、男もこちらを振り返っていた。

 光までどれくらいあるだろうか。とにかく走るしかなかった。全力疾走はいつ振りだろうか。私は記憶を掘り起こしていた。生き残れたら水泳でも始めよう、と思った。いきなり走り始めると膝に負担がかかる。

 徐々に光が近づいているのがわかった。しかしそれは背後の存在も同様だった。追いつかれたらどうなるのかは考えたくなかった。

 走り始めて十五秒も経たないうちに脚がもつれ始めた。筋肉は早くも限界だった。言わずもがな、心理的な圧迫は半端ではない。

 肺と喉が焼けそうになっていた。圧倒的に酸素が足りなかった。

 心臓は胸郭を激しく叩いていた。こめかみがひどく痛んだ。

 ついには目が霞んできた。それでも私は走った。恐怖は人間の最も強い原動力なのだと知った。

 亡霊が数十センチの距離まで近づいてくるのが分かった。しかし光も手が届く場所にあった。私は半ば倒れるようにして、その光の中に飛び込んだ。




 倒れ込んだ先で、私は硬いものに頭をぶつけた。ブロック塀の様だった。悍ましい気配はすでになかった。私は地面に手を付きながら、必死に酸素を吸い込んだ。太ももが激しくこむら返りを起こし、悶絶した。

 呻きながら仰向けになると、街灯の光が目に入った。その向こうには上弦の月が浮かんでいた。

 いまだ荒く息を吐きながら周囲を確認する。見知った街路だった。走り出てきたはずの場所に既に小路は無く、無機質な塀があるだけだった。当然、男もいない。

 ぶつけた頭とこむら返りした太ももの痛みはあったが、手と背中の負傷はもはや痛まなかった。あの場所はやはり現実ではなかったのだ、と私は改めて感じた。筋肉疲労が残っているのはやや理不尽な感じがするが。

 このまま倒れていては通報の恐れがあったので、私はよろよろと立ち上がった。近くの家からは子供のものらしき元気な声がした。

 私は急激な場面の変転に戸惑いながら、見知った街路を、自宅の方向へ歩き始めた。見つけた自販機で冷たい飲料を買って、一気に飲んだ。

 ふと気づいて時計を見ると、午前零時を回っていた。定かではないが、あの場所で過ごした時間と、体感的には変わらないように思えた。また脚がつりそうになったので、私は慌てて筋肉を伸ばした。

 ともかく、私は帰ってくることが出来たのだ。人間社会と異界の境を再び越えて、光の差す日常の世界へと。

 しかし私は実感することになった。我々が住むこの世界において、異界があまりに身近であること。ふとした拍子に、人はその世界に迷い込んでしまうのだということ。

 そして自分が、再び同じ目に遭わないという保証はどこにもないのだ、ということを。

 しかしなんにせよ、私は無事生還することが出来た。そのことは私に少々の安堵をもたらした。

 おそらく確かな日常を送ることで、自分と異界とを遠ざけることが出来るだろう。

 そんなことを考えながら、私は家路を急いだ。


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