第2話 嘘をついた彼女と嘘をつかれた彼のその後
アギト豚というのは、鋭い牙を持つ豚のこと。噛む力が非常に強く、鉄さえも噛み砕いてしまうらしい。それだけ強靭な顎を持つアギト豚の肉も固い。だがその分どっしりとした旨味が特徴で、煮込みに最適。ティアの働く食堂では人気メニューのひとつだ。だから他の食材よりも多く仕入れているのだが、今日は想定以上に売れたらしい。昼食のラッシュが終わってからアギト豚の肉が足りないと言われてから、そういえばアギト豚の料理ばかり提供していたような気がすると納得した。
仕方なく翌日分に向けて仕込んであった肉を調理に回し、ティアは翌日分の肉を仕入れに急遽仕入れに行くことになった。
「あー嫌だ嫌だ」
ヴェールをしっかりと被り、誰とも目を合わせないように。足早に目的の店を目指す。懐に、アルカから預かった銅貨の重みを感じる。
これも数分後には軽くなり、代わりに両肩に倍以上もの重さが伸し掛かるのだと思うと億劫になる。だが、それから逃げることはない。
口ではぼやくも、受けた恩をふいにするわけにはいかないのだから。
ティアのことを知っている精肉店の店員は、相変わらず顔をあまり露出しようとしないティアに苦笑しつつも、アギト豚のヒレとロースを手早く包んで行った。
「……値段、高くなった?」
「そうなんだよね。何か牧場がゴブリンの襲撃に会ってアギト豚が逃げ出したとかでさ。数が減ってるんだよ。だからさ、今はフース鳥がお勧め」
「分かった。アルカさんに伝えとく」
「まいど~」
ひらひらと手を振る店員にティアもまた片手を挙げて応じ、購入した物を大切に抱えた。
先日のオーガのことといいゴブリンのことといい、やけに魔物が活発になっている気がする。そういえば最近、巡回中の騎士を多く見かけるようになった。
まさか、御伽噺の魔族が復活したわけではあるまいし。
そんなことを考えていたからだろうか。背中に衝撃が走り、ティアは堪えられずつんのめってしまった。
「お早うティア。いつも通り辛気臭い格好してるね!」
背中に豊満な胸が押し付けられる。別に羨ましくなんてない。
嘆息を押し殺して振り返ると、豊かに波打つハニーブロンドが嫌でも目に入った。
「お早うシャーリィ。今日も元気ね」
食堂の近所にあるカフェの1人娘、シャーリィ・スプラウト。蒼玉を嵌め込んだような鮮やかな瞳。ぷっくりと艶やかな唇。朱を差した頬は健康的で、愛くるしい顔立ちをしている。同性のティアから見ても魅力的な女性。
ただ、やけに接触が多いように思えるのはティアの気のせいだろうか。
「今日は食堂の仕事いいの? お休み?」
「そんなわけないでしょ。食材の仕入れ」
「ふーん……つまんない」
するとメアリーはつまらなそうに頬を膨らませた。シャーリィは今年19歳。ティアよりも3つ年上のはずなのだが、その子供らしい仕草が嫌に見えない。
「じゃあさ」
ティアの後方に回り込んだシャーリィが、肩に体重を預けた。その拍子に再び背中にシャーリィの乳房が押し当てられ、甘い香りまで漂ってきた。恐らく、シャーリィが働いているカフェで売っている焼き菓子の匂いだ。
「誰かいい男いない?」
「いない」
完全に獲物を狙う肉食動物の目だ。しかしそれはいつものことなのでスルーする。
「えー、いないの?」
「というか私に男が紹介できると思ってる時点でおかしい」
「だから、常連さんとかさ」
脳裏に、とある青年の姿が浮かんだ。食堂の常連にティアと同い年の青年がいる。しかしそれをティアは全力で打ち消した。肉食獣に差し出すわけにはいかない。
「いたとしても紹介しない」
「ケチ」
「ケチで結構」
「そんなぁ」
唇を尖らせる仕草も可愛らしい。子供らしい仕草が様になることをシャーリィも熟知しているのだろう。生まれ持った武器を臆することなく使用する。そのことにティアは羨望を覚えた。
「あー、どっかにいないかなぁ。勇者様」
勇者。その単語にティアは胸の痛みを覚える。
このアルフォード王国を建国したという偉大な人物。この国の子供なら誰もが知っている物語だが、ティアは2年前までその物語を知らなかった。
読み聞かせてくれるような大人なんて、周りにいなかった。
「……御伽噺に夢見るくらいなら、お店の客見なさいよ」
「残念なことに、うちのお客さんは女性ばっかりなの」
「むしろあの雰囲気で男性ばっかりだったらびっくりするわ」
可愛らしい内装。見た目の良い焼き菓子に絶品のコーヒー。明らかに女性をターゲットにした店で、男性の客は少ない。いるとしても、ほとんどが彼女持ちだ。
「もう、ティアの意地悪」
「はいはい、なんとでも言いなさい」
あくまで取り合わないティアに、とうとうシャーリィはむくれてしまった。
「いいわよ、ティアなんか知らない。行き遅れたって知らないんだからね」
「安心しなさい。誰か特定の人物と付き合う予定はないから」
走り去っていくシャーリィの背中を見送り、ティアは嘆息した。
それに気付いたときには既に手遅れだった。
逃げられたと知ったときにはもう手の届かないところに行った後で、追いかけようにも逃げた場所が分からない。
「ああ糞っ」
口汚く罵り、苛立ち紛れに壁を蹴りつける。そんなことしたって何の解決にもならないし、足が痛いだけ。お蔭で余計腹が立ってきた。
「シエル……壁に穴を開けたいなら就職先間違ってるよ」
「るせえ! 大体俺は騎士一択だよ!」
「サボり常習犯のくせに」
「ぐっ」
旧友の言葉にシエルは呻き声を上げるしかなかった。
「……う、うるせー」
「しかも、サボりの最中にオーガ退治? 一体何をしてるんだか」
「べ、別に、仕方ないだろ。巻き込まれた一般人が……」
顔を隠した変な女。しかもいきなり殴りつけてきた。
あれを一般人と断じて認められなく何も言えなくなってしまう。
「……本当に俺何をしたんだろ」
あのくらいの凶暴さなら、シエルが剣を抜かなくても何とかなっていたかもしれない。そんな馬鹿げた考えが脳裏を過ぎった。
「……どうした、シエル」
「……なんでもねー。それより……」
改めて、シエルは旧友をまじまじと見た。
フィリオール・アークハイト。シエルと同期の騎士だ。艶やかな黒髪にルビーのように紅い瞳。筋の通った鼻筋に形の良い唇。大凡欠点というものを持たない容姿は女性に間違えられかねないのだが、細身だが筋肉質な体格が彼の性別を物語っていた。眉目秀麗というのはまさにこのことだろう。
「……相変わらず、だな。その荷物」
そしてフィリオールは、その容姿を裏切らず、女性に人気がある。シエル自身も割と女性に言い寄られる方だと自負しているが、フィリオールには負ける。というより負けていい。
毎日のようにフィリオールの元に送られてくるプレゼントの数々。それらを目の当たりにすると女性の執念を思い知らされて、嫉妬よりも同情が勝る。
今日もシエルは両手に大きな荷物を抱えていた。その箱にはデカデカと「処分品」と書かれている。
「ちなみに中身は?」
「手作りと思われるお守りやお菓子」
「……うわ」
お守りというと縁起が良いように思えるが、中には作者の体の一部……髪の毛や爪等が入っていることがままあるのだ。それは“御守り”という形を取っているが立派な呪いのアイテムと化す。お菓子も同等だ。こういうものは処分するしかない。
「何というか、大変だな毎日。受け取り拒否しないのか?」
「そうしたいけど、出待ちされたり任務中に付きまとわれたりするのも面倒だし。荷物だけなら受け取っちゃえば後は処分するだけだからさ。無理に規制してどこかで爆発されるよりかはある程度許容してコントロールしなきゃ」
そう、フィリオールは爽やかな笑顔を浮かべてシエルに言った。この笑顔が爽やかで素敵と女性に言われているのだから分からない。
「……そういえばシエル。聞きたいことがあったんだけど」
「あン?」
「この前君が野外演習サボってたくせに、結局ウチが取り逃がしたオーガを討伐したときの反省文と報告書がまで出てないって」
とたん、シエルはがっくりと肩を落とした。
「……わざわざ説明ありがとさんです」
あの傷を負っていたオーガは、たまたま森で演習を行っていた騎士たちが取り逃がしたものだった。4人1組での演習だったのだが、運が悪いことにオーガに遭遇したチームは騎士になりたての練度の低いところ。指導にあたっていた教官は傷を負った団員のフォローに回っていたため、手負いの魔物を取り逃がすことになってしまったのだ。そのオーガの逃げた先にシエルがいたのは……運が悪かったのやら良かったのやら。シエルならオーガくらい1人でどうとでもなる相手だったし、手負いで気の立ったオーガが町に迷い込む前に退治することが出来た。
しかし、シエルが演習をサボっていたのは事実である。
「……提出が期限ギリギリなのは今に始まったことじゃないけどさ……どうしたの?」
「……あの女、次会ったら許さねえ」
歯ぎしりをし、拳を握りしめるシエル。ただならぬ様子にフィリオールは若干距離を取った。
「……何があったの、一体」
「あの女に名前と住所聞いたんだが、出鱈目だった。そんな通り無いっていうし、女に心当たりのある奴もいなかった」
「へ~、虚偽の報告されたんだ。んでもってシエルは不覚にもそれに気付かなかった、と。わー大変だー」
「るせえっ!」
感情の籠っていない応援なんて虚しいだけだ。それを苛立ちに変え、吠える。
「大体俺だって好き好んで触ったわけじゃねーよ! だというのに突然グーで腹殴ってきやがって! 信じられねーだろ!」
「シエルをグーで殴るって……。それはまた……っていうか触った……?」
何やら聞き捨てられぬ単語が入っていた気がするが、とりあえずフィリオールは先を促した。
「しかも襲われたっていうのに礼もロクに言わねえし、ラズベリーのこと気にし出すし。まったく、本当に何だよあの女!」
「……随分な、言いようだね」
いくらサボり癖のために不良の落胤を押されていようとも、シエルは騎士だ。子供や女性を守るべきだと教えられているし、弱い者をいたぶるほどシエルの性根は腐っていない……はず。
そう言外に指摘すると、流石にバツが悪そうな顔をした。
「……なーんか、腹が立つんだよ。自信なさそうに顔隠してたくせに、平気で俺睨んでくるし。ワケ分からん」
「ふーん……ちなみに、どんな人だったの?」
フィリオールは好奇心から聞いた。もし巡回中に見かければ、シエルに教えてもいい。そんな心づもりで。
「変な女だよ。ヴェールで顔隠して、分厚い眼鏡かけた女。ちらっとしか見えなかったけど、ありゃあ自分に無頓着なタイプだな。普通年頃の女なら化粧とかするだろうに……」
「……へぇ」
それを聞いて、フィリオールの動きが不自然に固まった。
「ん、どうしたんだフィル」
「……う、ううん。何でもない」
フィリオールが動揺を顕わにするのは稀なこと。だからシエルも疑問に思い、尋ねる。ちなみにフィルというのはフィリオールの愛称だ。
「……シエルの言うことを信じるなら、年頃の女性が綺麗にしないのが信じられない」
「ああ、そういうことか。確かに信じられなかった。しかも殴られた。この俺がだぞ」
だからこそ、シエルに強烈なインパクトを残してしまったのだろう。
「殴られたのはシエルが悪い。不可抗力とはいえ、ね」
「……それは、わーってるよ」
流石に気まずいのか、シエルは視線を逸らした。
「……でもやっぱり、殴られたのと嘘つかれたのは許せねー!」
「はいはい叫ばない叫ばない」
だがまあ、平手打ちでなくグーで殴るというあたりがその人の性格を表している気がする。
そんなことを考えながら、フィリオールはシエルの後頭部を力一杯叩いた。
「って! 何すんだよ!」
「いい加減、仕事しろ」
フィリオールの微笑みを見て、シエルは力なく何度も頷くしかなかった。