第1話 ラッキースケベは許さない
顔を隠すとき、どうすればいいだろうか。
一般的なのはヴェールを被ることだろうか。だが風で吹き飛ばされてしまう可能性がある。
前髪を長くする。陰鬱な印象も与えてしまうだろうが、周囲の評価なんて関係ない。でも飲食店で働いているため、それは許されなかった。
眼鏡をかける。小物をつけることで印象付けることは出来るだろうが、それでも限度はある。
だからティアは、その3つを併用することにした。
分厚い眼鏡をかけ、かつ目をあまり見られないように可能な限り前髪を長く。外を出歩くときはしっかりとヴェールを被って。
本当はマスクもつけたかったのだが、そうするとあっという間に不審者になってしまう。それは流石に御免蒙るので我慢した。
本人的にはまだまだ物足りないのだが、周囲から見れば充分関わり合いになりたくない恰好。だから、ティアはひとまずそれで我慢することにしていた。
暗闇と同化しそうなくらいに黒い髪もボサボサでいい。手入れなんて必要ないと考えているから、していない。とりあえず、適当に後ろで纏めているだけ。手だって水仕事のせいで荒れているし、肌の手入れも随分と怠っている。胸も貧相。ティアが女だって示すのは髪が長いことと、スカートを履いていることくらい。服だってどこからどう見ても古着で、小柄、というより痩せすぎているティアが着るにしては大きすぎる。これで、どこからどう見ても貧しい町民の娘の出来上がり。こんな恰好を日常的にしているのだから、同年代が興味を持つのであろう色恋沙汰にも疎い。というより関わろうとしない。恋愛なんて興味ない。
そんなティアは外見こそ良いとは言い難いが、なるべく清潔であるようにしている。
何せティアが住まわせてもらっているのは、食堂の屋根裏部屋。ただで住まわせてもらっている代わりに、手伝いをしなければならない。そのためにも清潔でなければいけない。もし食中毒か何かがあったら目も当てられない。だから本当は髪だって伸ばし放題にしたいのに、ある程度整えなければいけない。
「アギト豚のシチュー煮込みに黒パン、お待たせしました」
どうやらこの客はティアのことを知らないらしい。分厚い伊達眼鏡で顔を隠しているティアを見て驚いたような顔をした。
何度か通っていただいている客は、悪目立ちするティアの容貌を覚えているためそんなに驚かない。本当は裏方で皿洗いとかの方をしたいティアなのだが、女将がそれを許してくれない。そうすれば、こんなに目立たなくて済むのに。女将はティアが顔を隠そうとしている理由を知っているのに、わざと一番嫌な接客を任せてくるのだ。本当に良い性格をしている。ティアがこの家に引き取られてもう2年にもなるが、その願いが聞き届けられたことはない。
料理を出し終えたら食べ終わっていそうな皿を下げ、厨房に運ぶ。そして出来上がった料理を提供し、合間を見てテーブルを拭く。お昼はまるで戦場だ。といってもティアは戦場なんて知らないけど、よくそう例えられているらしい。それくらい忙しい。ピークが過ぎればようやく休憩。とはいっても店を閉めるわけではないから数人ずつ、何回かに分ける必要がある。
でも私に休むことは許されない。
「ほらティア、何してるんだい」
それでも一息つきたくて布巾で調理台を拭いていると、モップを片手にしたアルカに急き立てられてしまった。
ティアの叔母アルカは、行き場のなくなったティアをわざわざ引き取り、住み込みで働かせてくれているこの食堂の女将だ。30後半になるはずだけど年齢を感じさせないくらい若々しい。碧の瞳を持った眦はきりりと吊り上っていて、栗色の豊かな髪を高く結い上げている。怒るたびに揺れているのを、ティアは見ないようにした。血は繋がっているはずなのに、ティアとは似ていない。
「怠けてるんじゃないよ、それが終わったら……そうだね、ラズベリーを採って来とくれ」
「……分かりました」
「言っとくけど、サボるんじゃないよ。行って、帰ってくるだけだ。遅かったらぶん殴るからね」
言われなくったって、分かってる。ティアだって外に出たいわけじゃない。すぐ帰ってくるに決まってるのに。
王都オーニキスを出て3刻程歩いた場所にある森。
その森の小川のほとりで、ラズベリーが生い茂る一帯がある。そこはアルカが直々に教えてくれた秘密の場所。冬が終わり温かくなると、小さな赤い実がたくさん成る。それを収穫し、食堂に持ち帰るのはティアの仕事。ジャムにしてもいいし、デザートに添えたり、紅茶に淹れるのもいい。そんなことを想像していたせいか、たった今摘み取ったばかりのラズベリーを食べたくなってしまった。
小さな赤い実を見つめることしばし。甘い誘惑に耐えられずティアは一粒口に入れた。とたん口内に甘酸っぱい果汁が広がった。どうしても残ってしまう小さな種はそのまま飲み込む。
今年のラズベリーは出来が良い。気分を良くしたティアは鼻歌まで歌い、せっせとラズベリーを摘み取っていった。
歌が聞こえる。
幼い頃から吟遊詩人に様々な歌を聞かせてもらっていたが、今聞こえているのは初めて聞く歌、それも今までに聞いたことのない種類のもの。物語を浪々と歌い上げるのではなく、まるで一音一音が意味を持つかのように。
その歌声に、シエルは目をうっすらと開けた。
甘く芳しいラズベリーの茂み。そして美しい歌声。きっとそこにいるのは絶世の美女なのだろう――――。
そんな淡い期待はあっという間に打ち崩された。
「は、はああああああ!?」
その叫び声に歌声の主……ティアははっとして頭上を仰いだ。
「え、ええええ!?」
木の枝にいる青年がバランスを崩し、落ちる。だが余裕でいられたのもそのときだけ。
シエルがいたのはティアの真上。つまりシエルが落ちる先にはティアがいるのだ。
つまり。
「痛たたた……」
後頭部と背中を強打するが、どうやら土がクッションとなったらしく瘤も出来ていない。
「っていうかアンタ……!」
木から落ちてきた人物を睨みつける。
茶色に赤が入った色鮮やかな髪。エメラルドを嵌め込んだかのような瞳。整った顔立ちと言っても差支えのない顔面。だがまあ、ティアは外見的美醜にはあまりこだわらない方であるし、何よりのしかかられているのだ。こんな状況でときめくはずもない。
さっさと上からどくように言おうとした瞬間。
ティア乳房が鷲掴みされた。
「……え」
いくらつるぺたに近い、同年代の女性に比べても明らかに劣っているとはいえ、恥じらいがないわけではない。むしろ嫌悪していると言っても過言ではない。
「……あ」
対し、シエルの方も茫然とティアのことを見つめていた。
押し倒してしまった拍子にヴェールが脱げ、ボサボサの黒髪が地面に広がっている。衝撃でずれてしまった眼鏡から僅かに伺い知れる素顔。
「さ、さっさとどけー!」
だがシエルがそれを見る前に、ティアは渾身の力で突き飛ばした。そして拳を握りしめ、渾身の力でシエルの腹を殴りつけた。
「がふっ!?」
予想以上に硬い。だがいい所に入ったらしく蹲って動けなくなったようだ。
「あ、あんた何なの!? ふざけんなじゃいわよこの変態!」
そしてシエルから距離を取り、ヴェールを被り直し眼鏡の位置を正す。
「へ……、変態だ!?」
シエルの方も黙っていられず、怒鳴り返す。思ったよりも回復が早いことに密かに感心。
「ふざけんじゃねえ! 誰がお前みたいなまっ平らな不細工女に興味持つか、この暴力女!」
「言ったわね! 不細工はともかく貧乳で悪かったわね! んじゃあアンタはその貧乳不細工女に興味持つ変態ってことよね! それと暴力じゃなくて正当な自己防衛よ、男の急所じゃなかっただけ感謝しなさいよね!」
「だから変態って言うんじゃねえし興味もねえ! ついでに殴られて感謝するほどマゾじゃねえ! つかテメエがそんな恰好してるのが悪いんだろ! いい歌が聞こえてきたからてっきり美人が歌ってるもんだと思っちまったじゃねえか!」
「勝手に期待しといて何て言い草! しかも私の歌盗み聞きしたわねこのドロボー!」
「不可抗力だ! それを言ったら俺が昼寝してたところに勝手にやって来たそっちが悪い!」
「アンタまさか、木の上で昼寝してて落ちたの? 変態な上に情けないわね~」
「るせえ! つかテメエ……!」
売り言葉に買い言葉。言い合いはどんどんヒートアップし、互いに譲らないものだから終わりが見えない。実際、シエルに終わらせる気はなかった。
しかし、不穏な気配を感じ反射的に口を閉じる。
「……おい」
ティアも何かを感じ取ったらしく、大人しく口を噤んでいたかと思うとばっと身を翻した。
「何してるの。早く隠れるわよ」
声のトーンを落とし、指で人2人が隠れられそうな茂みを示す。
「お、おう」
その切り替えの良さにシエルも戸惑ってしまう。
しかしティアとシエルが並んでながら、そっと外の様子を伺う。
やがて近づいて来たのは、成人男性の倍以上はあろうかという大型の魔物。
「……オーガ、だと」
「おかしいわ。オーガがこの辺り出ることなんてないはずなのに……」
オーガがいるのはここから10メイル程離れた山岳地帯。森周辺での目撃例はほとんどない。しかもあのオーガ、よく見ればあちこち傷を負っている。どうやら致命傷はないようだが、怪我せいか非常に苛立っている様子を見せていた。
その傷が剣によるものだということにティアは気付いてしまった。
「……知るかよ。いるモンは仕方ないだろ」
「そうね。でも普段いないところに、いるはずのないモノがいる。おかしいじゃない」
「分かってるさンなことは。でも今はあのオーガをどうにかする方が先だろ」
「だからって、原因の追及をしないわけにはいかないじゃないこの馬鹿」
「馬鹿とは何だ馬鹿とは」
「頭で考えられない脳筋男の上変態なんて、本当に手がつけられないわ」
「何だと?」
ティアは口が悪いところはあるが、本来そこまで攻撃的な性格をしているわけではない。だがシエルに対しては自制が効かない。そしてシエルも熱しやすい性格をしているようだ。そのため口論がヒートアップしてしまう。
普段は鳥の囀りがよく聞こえるのだが、このオーガが登場したせいか鳥たちもすっかり静まり返っていた。しかもそのオーガは気が立っている。
そんな中で騒いでいれば、見つかるのも当然だろう。
「……あ」
ティアとオーガの目が合った。眼鏡越しにだが、間違いなく目が合ってしまった。
「何やってんだこのドジ!」
「それはこっちの台詞よこの間抜け!」
「その間抜けのせいでこうなっちまったんだろうが!」
敵を発見したオーガが雄叫びを上げ、獲物である棍棒を振りかざして突進してくる。強靭な肉体で力任せに棍棒を振り下ろされたら、人間の頭はあっという間に潰れたトマトみたいになるだろう。正規兵は3、4人でオーガ1匹を倒すという。しかしこの場に騎士団はシエル1人しかいないし、ティアはどう見ても戦えるとは思えない。そしてこんな状況でもティアは大人しくするということを知らないらしい。
「私のせいだっていうの? 言いがかりもいい加減にしてよ!」
「ああもういいから黙れ!」
覚悟を決め、シエルは仕方なく腰に佩く長剣を抜いた。
ようやくティアは、その青年が王国騎士団の制服を着用していることに気付いた。青と黒を基調とした、アルフォード王国騎士団の制服。その胸元と、抜かれた長剣に刻まれているのは、王国の紋章であるソードリリーと月。
直後、オーガの大胸筋からぱっくりと裂けた。魔物であるオーガに血はない。代わりにうっすらと紫がかっているガスが漏れ出した。それが魔物の血の代わり。
悲鳴を上げ、オーガが倒れ伏す。
「……うわ」
たった一太刀でオーガを絶命に至らしめた剣筋。それは惚れ惚れする程だった。だがティアにとってはそれよりも。
「ちょっと! こんな所でオーガなんか倒して、瘴気でラズベリーが食べられなくなったらどうするのよ!」
瘴気とは魔物が死に、遺体が消失する際に発せられる有毒ガスである。魔物は人間と違い肉体は残らず死後まもなくするとガスに変質するのだ。オーガ1体くらいなら人間に左程影響はないが、植物にどんな影響が出るかは分からない。
「お前なあ……助かっといて開口一番それかよ。もっと他にあるだろ」
「ええ、助けてくれたことには感謝するわよ。ありがとう。でも、それとこれとは別」
「うわっ、可愛くねえ」
「可愛さなんて私に求めるのが馬鹿じゃないのこの馬鹿」
「あーはいはい、そうだよな」
シエルも悪口に腹が立たないわけがないが、今はそれよりも重要な案件が出てしまった。面倒だが、放置しておくことは出来ない。
「んじゃあ俺はこのこと報告しとくから。お前はさっさと町に帰れ」
「え、それ困る。だって報告したらこの場所のことも報告しなきゃいけないんじゃない。この場所は私と叔母の秘密だったのよ」
そんなことをしたら、大切な収入源が減ってしまう。ティアがそう言うとシエルはあからさまに顔を顰めた。
「うわ、面倒な女」
「うっさいわね。大体あんた制服ってことは任務か野外訓練中でしょ? なのに木の上で昼寝。つまりサボってたんでしょこの税金泥棒!」
「ぐっ」
言葉に詰まるシエル。更にティアは攻勢に出た。
「いいのかしら。私がオーガに襲われたって吹聴したら、アンタのサボりのことも喋るわよ~」
「テメエ……良い性格してやがるな」
シエルの蟀谷に青筋が立った。
外見といい言動といい、今までシエルが知る女性とは全然違う。むしろ女性扱いしたら女性に失礼な気がしてきた。
「そりゃあ、清廉潔白なまま生きていけたらどんなに幸せだったか」
「……そりゃそうだな」
あっさりとシエルは同意を示した。それがティアには意外で、思わず目を丸くする。
「だがまあ、それとこれとは別問題だ。第一俺はバレても痛くも痒くもねーよ。元々不良騎士だしな」
「うわっ、自分で自分を不良って言っちゃった」
「るせー。俺はサボりの常習犯だからな、今更ひとつやふたつバレたって問題じゃねーんだよ。つまり、お前の脅しは無効ってこった」
「くっ……。でもそれ、言ってて悲しくない?」
「るせー!」
叫んでから、シエルは大きく息を吐いた。
「……とにかく、軽く聴取するぞ。名前は」
「ジェシー・マーク」
「住所は?」
「オーニクス北スプラウト通り18番地。喫茶店よ」
もちろん嘘だ。しかしシエルがそれを知るはずもなく、素直にメモに書き取っていく。
「そんで、あなたの名前は。もし何かあったとき、アンタの名前出すから」
「くっ……シエル・メグレスだ」
何やかんやで教えてくれる辺り、悪い人間ではないのだろう。だからといって簡単に信用する程ティアは正直者ではない。
「それじゃ、もういい? 流石にちょっと長居しすぎたから」
アルカにこのことがバレたくないし、嘘をついたことを見抜かれる前にさっさと退散する。
僅かに漂う瘴気と甘酸っぱい匂い、そして嗅ぎ慣れない匂いがやけに鼻に着いた。