暗黒の章 第五話 その言葉
暗守はこの旅に出てからいつも人を避けるように離れたところに座っていた。
溶けて今にも消えてしまいそうな闇との境界に。
「暗守さん」
恐る恐る名を呼ぶと、彼はちゃんと美珠の声を聴き、顔を向けてくれた。
漆黒の兜は美珠のほうへと向いている。
―目が見えていないなんてうそだ。
そんなこと、ありえるわけがない。
けれど魔央が伝えてくれた言葉を否定することはできなかった。
彼がそんな嘘をつく必要はどこにもない。
仲間として、彼を理解する一人の人間として、伝えられた言葉の真贋を確かめなけれないけなかった。
「ねえ、暗守さん、単刀直入にお聞きしてもよろしいですか?」
相手は黙ったままだった。
もう質問の内容はわかっているのかもしれない。
「目が見えてらっしゃらないの?」
「見えています」
即答。
けれど何一つ安心できなかった。
「本当に?」
「ええ、まだ貴方の姿は見えている。見えているんですよ」
その答えが漆黒の兜から聞こえた途端、美珠は駆け寄ってその足元に手をついた。
崩れ落ちたといったほうが正しいのかもしれない。
「ごめんなさい。ごめんなさい、今まで気がつかなくて!」
土に汚れた美珠の手を冷たい黒い籠手が力強く引き上げた。
「謝らないで下さい。私が悪いんです。本当に申し訳ありませんでした。貴方には伝えられなかった。私の目は強い光ならまだ見える。そばにあるものならまだ見える。まだやれるそう思っていたのです」
「ええ、だって私が見えているんでしょ? 今だってこうして私の手を握ってくださってる」
「けれど結局貴方を危険に巻き込んでしまいました。あの卑しい人攫いの表情が見えていなかったのです」
彼はだからこそ美珠の言葉に頷くしかなかったのだ。
あの人攫いの嫌な笑みもおかしな言動も彼には実際見えていなかったのだから。
ああ、と美珠は深く息を吐き出した。
悲鳴にもにた声が漏れた。
「ごめんなさい。気づけばよかった。貴方が聖斗さんと喧嘩する人ではないことだって知っているのに、なにか大きな事情があるって気付けなかった」
「聖斗はわかっていたんです。私がほとんどのものが見えていないということを。二人になった時を見計らって、何度も私に王都に戻るようにいってきましたが、私は聞かなかった。認めるわけにはいかなかった、目が見えていないということを」
聖斗が苛立っていたのは、母のことではない。
妥協を許さないあの男は万全ではない体調であるにも関わらず、任務から離れようとしない暗守に苛付いていたのだ。
そして心配もしたのだろう。
「そうだったんですか。私が間違っていたんですね、何もわかっていなかった」
「いいえ、間違っているのは私です。北での失態の後、すぐこの職を退けばよかったのです。そう決意していたはずなのに、また自分の感情を優先させたのです。貴方を失うあの日、自分の感情を走らせてしまったように」
美珠は思い出したように目を閉じた。
「貴方からもう片時も離れたくなかったから」
祈りのような言葉が耳に入ってきた瞬間、美珠の胸の奥が苦しくなった。
その言葉にどんな想いが込められているのか。
暗守がどのような想いを自分に抱いてくれていたのか。
けれど美珠にはその言葉に応えることは出来なかった。
どれだけ彼のことを想っても、それは応えられる感情にはならなかった。
「王都に戻って下さい。治しましょう。絶対見えるようになります」
暗守は静かに美珠の言葉を聞いてから、
「教皇様に伝えにあがります」
消え入りそうな小さな声とともに立ち上がり教皇の天幕へと戻っていった。
次の朝、暗守の姿はもうなかった。
教皇によるとあれからすぐに離隊の希望を出して王都に帰ったという。
-それが彼のためなのだ。
今悔しく、辛い思いをしても、治療に専念すれば彼はまた共に立ってくれる人となる。
彼は絶対にこれからも一緒に戦ってもらいたい人なのだ。
美珠は母と暗守が一日でも早く回復することを祈りながら旅を続けた。
*
それから一週間、日々の行程には目を背けたくなるものもあった、気が滅入って動きたくなくなる日もあった。
けれどその都度、母の精神の強さと判断力を目の当たりにしながら日程を全てこなし、帰路についた。
同じくらいの背丈で体重も変わらないのに、どこにそんな力があるのだろうか。
そんなことを何度も思った。
しかしか弱そうに見える色白の美しい母は教皇は国王とともにこの大国を動かす人間なのだ。
国王である父と並んで称えられる人間であり、そしてこの国の精神的支柱とならなければならぬ存在。
いつか自分にも求められる力だ。
美珠の前方にはもう王都が見え始めていた。
人と物で埋め尽くされた愛おしい巨大な街。
あとわずかで母との旅は終わりを迎える。
初めての教皇業務は最悪、というに近いものがある。
人に騙され、人を信じられず、人を傷つけた。
忘れてしまいたい、記憶から出て行って欲しいことではある。
それでも美珠は母のように日記にあったことをしたためた。
今回の失敗を次回にまで持ち越してはいけない。
騎士に美珠は全く何もできない姫だと語り継がれたくはない。
そして何よりも助けを待っている民を救わないといけないのだ。
だからこそ、消してしまいたいような、忘れてしまいたいことも全て書き綴った。
きっと母だってそうしてきたのだろう。
母だって沢山の失敗を抱えながら今あるはずなのだ。
王都の人々に温かい目で迎えられ、教皇と跡継ぎの姫はにこやかにほほ笑みながら手を振った。
やがて王都の人々から騎士へと迎える人々が変化し、白い大理石で作られた白亜の宮の正門をくぐると、そこにももう人だかりができていた。
美珠という存在がいかに出来損ないであろうが、決して突き放したりすることのない人々が待っていてくれていた。
まず先頭を陣取る幼馴染の女剣士珠利が馬車に一目散に駆けより、もう一人の幼馴染、国明がゆったりとした足取りで笑みをたたえながら馬車に近寄ってきた。
その二人の表情を見れば、なにがあったか聞く前に、逃げ出さずに帰ってきた美珠をよく頑張ったと褒めるつもりであるのだろう。
その後ろで目じりを下げる父国王と王のそばに控えながらも温かい瞳で迎え入れてくれる光東。
帰ってきたのだ。
そう痛烈に感じた。
馬車を降りて、出迎えてくれた人に囲まれながら、なによりもまず母が一つ確かめた。
「暗守は? 療養に専念しているのですか?」
「は?」
「ん? 教皇様どういうことですか?」
尋ねられた国明は珠利と目を見合わせ、また教皇へと目を向けた。
「戻ってらっしゃらないの?」
一つ詰め寄って美珠が確認すると国明は不穏な空気を感じ、顔を引き締め軽く頷いた。
「ええ。姿もみておりませんし、そんな話もきいてはおりません。暗守がどうかしたんですか?」
体中から冷や汗が流れてゆく。
息ができなくなって、目の前が真っ暗になる。
ふらついて力を失った美珠をあわてて珠利が支えた。
「ちょっと、美珠様?」
「そんな、暗守さん」
彼がまた騎士団長として立てるようになるまで、一緒に支えるつもりで帰ってきたというのに。
だというのに彼は全てを諦めてしまったのか。
「あの馬鹿が」
教皇のすぐ後ろで聖斗が怒りを込めたように小さく呟いた。
彼が思ったことも美珠の脳裏をよぎったものと同じだったのであろうか。
「ねえ? どうしたの? 美珠様」
珠利が尋常ならざる空気を感じつつ、蒼白になった美珠の手を握る。
その手は信じられないほどぐっしょりと濡れていた。
「美珠様、ちょっとどうしたの?」
感情を抑えることなど出来なかった。
まるで子供のようにその場にしゃがんで美珠は泣いた。