暗黒の章 第四話 代理
その夜の野営は村を解放したというのに全くもって明るい雰囲気ではなかった。
相馬や騎士たちは美珠を危険にさらせたという苦悩をいだいていたし、美珠自身も後悔の中にいたからだ。
誰もが言いようのない気持ち悪さを抱えたまま寝静まったはずの野営地で事態を更に悪化させることが起きた。
「ちょっと、来て! 早く!」
相馬にたたき起こされ何事かと天幕から寝巻のまま飛び出した途端、美珠は目を疑った。
繰り広げられているのは信じられない光景。
あってはならぬものだった。
二人の騎士が互いに刃を向け合い戦っていた。
騎士同士の喧嘩は決して許されるものではない。
厳罰に処されるものである。
それを誰であろうか、聖斗、暗守という、この場を収めるべき二人の騎士団長が戦っているのだ。
騎士達もそれを遠巻きに見守っていたが、彼らもまた禁制を犯す二人に動揺を隠せずにいた。
聖斗は容赦なく暗守に切り込み、暗守も力一杯盾で聖斗を弾き飛ばす。
派手な金属音が沈黙の中響いていた。
この場を取り仕切るはずの二人がこんなことになった以上、止めるのは教皇の代理を務める美珠の仕事に違いなかった。
だからこそ迷いなく、いや仕事といよりも二人を心配する一人の個人として美珠は声をあげた。
「ちょっと待って下さい!」
団長同士とはいえ、一人はこの国最強の称号を得た男だ。
そして暗守がかつて一番聖斗と戦うことが苦手だということを言っていた覚えがある。
実力差はお互い既にわかっているのだ。
だったら何の為にこんなことをする必要があるのか。
「何をなさっているんですか!」
けれど美珠にはむかったことのない暗守ですら美珠の話を聞いてはくれていなかった。
美珠はまた声が届いて欲しくて叫んだ。
「皆さんの目があります! やめてください!」
無防備に割り込んだが悪かったのかもしれない。
目の前に黒い鎧が見えた。
そして一瞬後にはとんでもなく重いものが体中に圧し掛かってきた。
体を咄嗟に支えようとした右足に激痛が走る。
巨大な体躯、そして金属の鎧を支えられるわけもなく、押しつぶされるように倒れると、さすがにこれはまずいとすぐに騎士達がかけつけて暗守の体の下から助け起こした。
この状況にさすがにキレたのは相馬だった。
顔を真っ赤にして、聖斗、暗守の前に仁王立ちすると臆することもなく怒鳴りつけた。
「正気か! あんたら騎士団長だろうが! 何を考えてんだよ!」
けれど相馬の言葉など聞かぬといいたげに聖斗はさっさと背を向けて天幕へと戻り、いつも美珠に優しく接する暗守ですら美珠に詫びも何も言わず天幕へと引き上げてしまった。
取り残された美珠は本当にどうしていいのか分からなかった。
何がどうしてこのようなことになってしまったのか。
母がいなくなっただけでこうも絆はもろくなってしまったというのか。
彼らと自分との信頼はどこへいってしまったというのか。
それとも、信頼はもう存在しないものなのだろうか。
無力なくせに口だけは達者な馬鹿な自分の言葉など誰も聞きたくないということか。
泣いてはいけない場面だというのはわかっていたが、涙がいっぱい毀れてしまう。
弱い人間だと思われたくないのに、結局は人の目があるにも関わらずその場で泣いてしまった。
それでも進まなくてはいけない。
まだまだ待っている人は沢山いる。
野営地は最悪の朝を迎えていた。
昨日の一件で、教会騎士と暗黒騎士には完全に溝ができていたし、魔法騎士も彼らだけで固まっていた。
それを肌で感じ、怒りさえ感じている相馬もまた表情暗く、馬車の用意を整えながら手帳をめくっていた。
美珠はというと、重い心のまま天幕に籠もっていた。
薄い敷物の上で膝を抱えて何をどうするべきなのかをただ考え続けていた。
自分さえ強力な統率力があれば、年上の男達だって納得させられたのだ。
けれど自分にあるのは王と教皇の娘というとてつもない権力から発動する命令という強制的に人を跪かせる力だけだった。
出発の時刻が迫り、涙のこぼれそうな目を一度閉じて立ち上がろうとすると右足に激痛が走りその場で蹲った。
白い夜着の裾をまくると足首が紫色に変色し腫れていた。
足を地面につくことさえ痛みをともなっていたが、折れているわけではなさそうなので昨晩は黙っておくことにした。
第一、暗守が倒れてきたせいで怪我をしたなどと、本人の前でいうことはできない。
姫を怪我させたのだと、さらに状況を悪くしてしまうだけだろう。
頃合を見て転んで、それで怪我をしたことにすればいい。
天幕に迎えにきた相馬に痛めたことだけは伝えて、なれない手当てを受け、包帯で何とか固定してもらい馬車に乗り込む。
馬車の窓から見える見飽きた森、これは一体いつまで続くのか。
本来だったらいい人生経験になるはずだった。
教皇の業務というものを理解し、紗伊那の騎士のすばらしさを知る。
だからこそ、白亜の宮から出る時の自分は喜びに溢れていた。
けれど今は
(もう帰りたい)
口にだせぬそんな願望すら浮かんでくる。
宮に戻って自分という人間をしっかり理解してくれている人々とどうでもいい会話をしながら、お節介に励むのだ。
お節介なんてものは自分に余裕があってできるものなのだと今気が付いた。
馬車はそんな今にも泥となって崩れ落ちそうな信頼関係とはお構いなしに次の地へと向って進んでゆく。
どうしていいのか分からなくて静かに涙を落としていると、切り出したのは相馬だった。
「ねえ、美珠様、今回はここでおしまいにしようか。美珠様の足もその状態だし。俺が悪かったんだ、もっとうまく立ち回るべきだった」
相馬のせいでないことくらい分かってる。
けれども乳兄弟は自分のせいにすることで美珠が気にしないようにしようとしているのだ。
いや、相馬の場合、本当にそう思い詰めているのかもしれない。
「でも、待っている人がいるのよ、行かなきゃ」
立ち止まってはいけない、失望させてはならない。
それが今美珠を動かす最後の砦だった。
「じゃあ、そんな気持の美珠様が人を救える?」
乳兄弟の言うことは最もだった。
今、自分の方が救って欲しいくらいだ。
誰かお節介な人が現れて、自分たちに握手して仲直りと微笑みかけてほしい。
お見通しの乳兄弟になんと返していいのか分からず黙り込んでいると、馬車の外がざわついた。
敵襲か、喧嘩かとあせった顔で美珠が窓に目を遣ると暗守が後方へと視線を送っていた。
何が起こったのだろうかと、美珠は確認のために窓を開けて目を後ろへと遣ってみた。
はるか後ろから近づいてくるのは紗伊那の騎士。
それは教会、暗黒、魔法、すべて教会側の騎士で、母が率いる騎士達だった。
教皇が本隊においついてきたのだ。
安堵と喜びの歓声に包まれる中、合流した教皇に聖斗が素早く竜を降りて迎えにゆく。
聖斗の姿を見て、教皇はやさしく微笑んだ。
「お加減は? ご無理なさったのではないのですか?」
「もう大丈夫ですよ。皆にも心配かけましたね」
遠巻きに母の元気そうな顔を見た瞬間、美珠の中では何一つ満足に出来なかった悔しさともう終わったという安心が交互に押し寄せてきた。
けれど安心しているその心に腹がたって結局喜ぶことはできなかった。
唇を噛み締めて、足を痛めたことを気付かれないように馬車からゆっくり降りると母へと近づいていく。
教皇の名代は仕事を終えたのだ。
きっと自分と行動をともにした騎士は自分のこの統率力のなさを後世まで語り継ぐだろう。
「お母様、優真」
教皇の馬車から飛び降りてきた優真を抱きしめて母へと手を伸ばす。
教皇という存在が、いや、母という存在がここまで大きいものだとは全く思わなかった。
「お母様、もうお体大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫よ。貴方にも迷惑をかけたわね」
「私は別に」
迷惑を掛けられたのは私の周りにいた騎士達です。
そんなことも言えずに母の後ろに下がる。
教皇の姿を見た途端、騎士達に気力が戻ってきているのが分かる。
役不足。
誰かが何をいったわけではないけれど、それは肌で感じた。
「何か変わったことはありませんでしたか?」
きっと何もなかっただろうと見越しての質問だったが、答えはこうだ。
―言い切れぬほど、いっぱいあります。
黙っておくという選択肢もあるだろうが、ここは仕事なのだ、自分たちは今、母娘ではなく、教皇とその跡を継ぐものだと割り切って、報告をしなくてはと思った。
もしもこの先、何かあって、その時この亀裂のせいでさらなる不幸があってはいけない。
万全の体勢で人々を救いにいかなくてはならないのだ。
「お母様、少しよろしいですか?」
病み上がりの母にあまり心配はかけたくないが、その母の細い手を引いて、再び馬車に引き込んだ。
「聖斗さんと暗守さんがおかしいんです。お二人がというよりも聖斗さんがおかしいといったほうが良いのかもしれません。相馬ちゃんの言葉を借りると苛立ってるって」
少し怪訝な顔をした母は目頭に涙をためる美珠の背中を撫でて、そして目を外に向けた。
教皇の目には何もかわらぬ景色が広がるだけ。
「何かあったのやもしれませんね。分かりました、あの子から話をきいてみましょう」
美珠にとっては年上の成人した男は、母にとってはいつまでも子供なのだと思うと二人の間に入れない絆のようなものを感じさせられた。
けれど彼にとって母が本当に特別であることくらい知っている。
そう、二人は特別な関係だったのだ。
「お母様がいらっしゃらなかったからだと、私は思います」
「美珠」
諌められるように名を呼ばれ、居心地が悪くて口をつぐむ。
別に今更二人が男女の関係で、どうのこうの思っているわけではないが、やっぱり思わずにはいられなかった。
「貴方はまだ、私達の関係を」
「そういうわけではありません! そんなこと」
母を傷つけたくはなくて、慌てて否定したものの母の顔はもう充分過ぎるほどに傷ついていて、口にしてしまった自分が情けなくなってゆく。
どれほど人を不快にすれば救われるのだ。
母もまたもうそれ以上何も言わず、目を瞑った。
「わかりました。聖斗と暗守、二人から話を聞きましょう」
休む間もなく馬車から降りてゆく母にそれ以上何も言えず美珠はただ俯いていた。
「ねえ、ヒナ」
ひょっこりと顔を出したのは優真だった。
その悪意のない顔を見ていれば美珠の心が少しだけ和んだ。
そして彼女の前では決して弱いところは見せたくはなかった。
「ああ、優真、どうしたの?」
無理に顔の筋肉を引き上げて、彼女を抱き上げる。
「教皇様、まだお熱があるの。寝てようっていったのに、ヒナが心配だって。あんまり無理しないようにヒナも言ってあげて」
そんな母に娘は何一つしてあげることはできなかった。
気を悪くすることを言い、その上嫌な仕事を押し付けた。
どんどん嫌な気持が積みあがってゆく。
「ヒナ? どうしたの? しんどい? 大丈夫?」
「美珠様、足を怪我なさったとか」
不安そうにのぞきこむ優真を抱いて途方にくれていると、来てくれたのは魔央だった。
彼もまた信頼できる人間であるはずだ。
けれど泣き顔は見せられなかった。
「あ、はい」
「何? ヒナ、怪我してるの? 言ってくれたら優真なおしてあげるのに」
「大丈夫、優真大先生はヒナちゃんを笑わせてあげて」
魔央は優真に笑みを向け、美珠に断ってから足首を掴んで曲げてみる。
とてつもない痛みが広がり顔をしかめると、一つ頷いてそこに手をかざした。
「あの、お母様、熱、引いておられないの?」
「ええ。お止めしたのですが」
「そうですか」
涙を隠すために優真の背中に顔を埋めると優真はくすぐったいと笑い声をあげた。
「魔法騎士から報告を受けましたが、なにやらとんでもないことになっていたようですね。聖斗も暗守も気性は荒くないと思っていたのですが」
「聖斗さん、暗守さんに辛く当たっておられて」
その言葉に魔央は首を振った。
そして少し躊躇ってから口を開いた。
「おかしいのは暗守だと私は思うんです」
「え?」
まさかそんなことがあるわけない。
「暗守さんはいつもと変わらないと思います」
「ええ、そう振舞っているだけです。そう思って欲しいんです」
「じゃあ、何がおかしいとおっしゃるんです?」
背中を嫌な汗が流れた。
自分が気が付かないところで、暗守がどうしたというのだ。
彼が変わった、そんな可能性考えたこともない。
「思い過ごしだとよいのですが、目がよく見えていない。そう思う事があります」