真紅の章 第八話 藪のなかの犬
「そんなところ舐めちゃだめ。先生、もうだめ、こんなの体がもたない」
草陰で妙につやっぽい声を出す女と黒い犬が何かしていた。
優菜はそれを遠い目で眺めていると、やがて長靴をはいた黒い犬は人の気配に気が付いて、咳払いしてから乱れた毛を舌で繕った。
「何してるんですか? 一体」
「お前には経験のないことだ。この童貞め。で、どうした。何をこんな朝方から歩いている」
「喧嘩しちゃった」
「王子か! シメてやったのか? まさか騎士団長の方か! ととっくみあいの喧嘩か」
「ヒナだよ」
先生は気をそがれて怒っている女の機嫌をとる気もなく、愛想なしに帰るように言って、それから弟子の隣に来ると後ろ足で首を掻いた。
「まあ、遠距離恋愛というのは大変だからな。一つのずれが取り返しのつかないずれになり、やがて……」
「先生、失恋したこと前提で話してない?」
「しているが、まだ違うのか?」
「『まだ』してない」
優菜はむっつりしながら頭を掻いた。
「俺が間違ってたのかな。美珠姫をくださいっていえば、本当に姫の両親は、はいはい、って認めてくれたと思う?」
「それは難しいところだな。可能性がないわけでもないし、あるわけでもない。ただお前が選ばれた理由はお前のおつむだけじゃない。もし恋におちたら結婚相手としてそこまで問題がないところも我々がお前を選んだ理由だ。
国王すら頭の上がらない、騎士の中の騎士、光悦様の孫だからな」
「それって俺の成果とかじゃないんだね」
「そうだ、しかし王子であることも貴族であることも、その人間の努力とは程遠い話でもある」
「まあ、確かに」
それからしばらく優菜は座りこんでいた。
先生は何度かあくびをして優菜の隣で伏せていた。
聞いてくれているようなので、優菜は少し心の内をさらけ出してみることにした。
「俺が小ずるい人間だったら、何がなんでもヒナから離れないとおもうんだよね。相手の心がどこへ向いていても気もしなくて、いいようなことを言って。そしたら権力も紗伊那も転がり転んでくるんだから。その利権ってすごいよね。でもそれじゃ藤堂秀司のしたことと何も変わらない。あいつだけにはなりたくない。それだけはしたくないんだ。ヒナのことが好きだから、ちゃんとヒナにも幸せになってほしい」
なのに美珠は自分を疑っていた。
それは相当傷つく出来事であったが、自分が勇気が出せず、人々の目の前で美珠と結婚するつもりなのだと言えなかった。
あの場で、美珠は俺のものだ!と声高らかに宣言したら、祥伽王子に罵倒はされるだろうが、少なくとも美珠には自分の気持ちは通じたのだ。
そして二人で皆を説き伏せるその第一歩を踏み出せたのだ。
けれど、そこで踏み出せず、ただ窺っているしかできなかった。
「まあ、そう落ち込むな。お前は藤堂秀司とは全く違う。あの男は人を人として愛することができなかった。お前は私の弟子だ。この慈愛に満ちたワンコのな」
慈愛?
恐怖政治ではないのか?
それでも違うと否定してもらえたことは嬉しかった。
「うんうん、慈愛に満ちた先生の弟子だから、人の心を持てたんだよね」
「わかってるではないか。本当にお前は聡い弟子だな。もう一人の弟子とはえらい違いだ。あいつは私にやさしい心があるとは認めようとしなかったからな」
それはかなりの根性だ。
だから騎士団長にまで上り詰めたのか、優菜は兄弟子に尊敬の念を抱きながら、そのまま師匠へと視線を送る。
「でもさ、ヒナは恵まれてると思うんだ。だって政略結婚するかもしれない王子とは友達なんだ。それも大切に思ってもらえてる。普通だったらもっと悲劇だよ。
もし俺が認めてもらなくて、結局結婚できなかったとしても、それでも、ヒナが幸せに暮らせて、それでヒナが幸せだと思う国が作れたら、それでいいんだ」
「ふむ」
「父さんもそうだったんじゃないかなって思うんだ。だって上皇様と父さんが結婚したっておかしい話じゃなかったけど、上皇様は北晋の由緒ある貴族と結婚した。国のためにね。ずうっと父さんは宰相として補佐し続けてきた。でも俺は父さんの人生がさみしかったとは思えない。さみしくなる時もあっただろうけど、国がその分豊かになっていく。それでよかったんじゃないかって。で、落ち着いたころ、二十も年の離れた母さんと出会って、結婚して。そういうのもいいんじゃないかって」
「つまりは、幼女趣味に走るという話か?」
なんでそうなるんだよ。
優菜は乗り出しそうになったが、先生は杖で優菜をつついた。
「若いんだからもう少し望みは高く持て」
「そうだね。口ではこんなこといってても、いつかヒナが隣にいないこと、すごく後悔するかもしれない。でも俺が説き伏せて隣にいてもらうよりも、ヒナには自分で選んでほしいんだ。自分の未来なんだから」
「お前、中身、いくつだ? この年の男なら、嫌だといって駄々をこねるもんじゃなか?
ひょっとして私よりも年上か?」
「はあ? そんなのおじいちゃんじゃない」
「お前……」
牙をむき出したワンコ先生にやっぱり恐怖を覚えつつ優菜は先生を抱き上げて自分の部屋に戻ることにした。
「ありがと、先生。ちょっとすっきりした。さっきまで何だか俺が悪者になったみたいで悶々してたんだ」
「ムラムラの間違いじゃないのか?」
「先生とは違うんですよ!」
「ええ? なんで?」
優菜の布団の中で寝ていたのはヒナだった。
「気まずくてかえっていくもんじゃないのか?」
そしてまずいことに遠くから美珠を探す女の声がする。
何かうまい説明をして出てきてはいないのだろう。
「やばい、俺、殺される」
何もしてなくても、悪くなるのは自分だ。
布団に隠れたらあらぬ疑いをかけられて殺される。
クローゼットに入るか。
「ってか、俺、逃げる必要あるのか? 先生がちゃんと今まで別のところにいたって説明してくれたら」
抱っこしていた先生はもう薄目をあけて眠りについていた。
「なんで!」
絶対わざとだ、優菜は叫んだが、その間にもどんどん足音が近づいてくる。
結局優菜は誤魔化そうと地べたに寝ころんでみたのだが、扉が開いて入ってきた珠利は迷うことなく優菜を思いっきり踏みつけてそれから怒鳴った。
「守ってもやらずにやることだけはやるのか。この腐れ外道め」
嫌な予感がする。
優菜は体を守ろうとしたが、その時には股間に強烈な一撃がめり込んでいた。




