暗黒の章 第二話 お母様がいないから
数時間後、まずはじめに辿りついた村では、幾度にもわたる河川の氾濫が報告された。
教皇の訪れを待っていた各村の首長らはやってきたのが美珠ということには驚きこそしたものの、新たなる世代の出現に喜び、すぐに専門家と軍を送り処置させるという美珠の言葉に頭をさげた。
「まず一つこなしたね」
相馬は手帳に済みと赤字で書き込み、次の資料をめくる。
そこにはまだまだ人々の嘆願があふれていた。
領主の横暴を訴えるもの、生活の困窮を訴えるもの、美珠の身近にはありえないものばっかり想像することすら困難なものもあったが、母を倣った美珠自身の決断に人々も騎士たちも異を唱えることもなくすぐに手続きが行われてゆく。
美珠は自分の考え方が間違っているのではないのだと理解すると、自分なりの成果に少し安心することができた。
なんとか一日の予定量の仕事を終え、夕食を取るために鍋の近くへと自ら足を進ませると、森の中の暗闇に誰かいることが気がついた。
その人と一緒に食事を取ろうと、食事係の教会騎士からトマト風味の鳥の煮込みを受け取り足場の悪い森の中へ踏み込む。
すぐ目の前にあるはずのその姿が今にも闇に溶け込んでしまいそうで、美珠は心配になって声をかけた。
「ねえ、暗守さん、どうなさったの?」
両手に二人分の食事の乗った皿を持って傍にいくと、暗守は暗闇をずっと凝視していた。
「あの?」
もう一度呼びかけるとやっと我に返ったのか黒い兜をこっちに向ける。
北の襲撃以降、新しく作られた暗守の兜はさらに彼の表情を隠してしまったように思う。
初めて出会った時、国境で再開した時、彼の顔を覗き込んだのだが、今日もまた美珠は知らず知らずのうちに彼の顔を覗き込んでいた。
けれど何も見えない。
美しい色をした瞳も、男らしい骨格も何一つ。
兜の中に広がるのはただの漆黒の空間だった。
「考え事をしておりました。申し訳ありません」
「お食事、一緒に食べましょうか」
不安を隠しながら食事を見せて、右手の皿を持ち上げると暗守も受け取ろうと手を伸ばしたが、呼吸がかみ合わなかったのか、するりと滑って落ちた。
「ごめんなさい、すぐに新しいのもらってきますから。こっちを先に食べてください」
「いえ。申し訳ありません、自分で取りにいきます。ちょっとぼんやりしていたもので。さあ、美珠様、あちらの明るい場所で食べましょう」
「そうですね。こんな暗いところで食べるのもね。皆で食べましょう」
笑顔を浮かべ皆が食事を取っている場所へと行くと、騎士とは全く違うひょろっとした体つきの相馬が何か書類を読みながら無心にスプーンを口に運んでいた。
「国王様からだよ。教皇様のことお耳にはいったみたいだ。美珠様、一人で大丈夫かって。誰か送ろうかっておっしゃってくださってるけど」
「一人じゃないわ。皆いてくださるんだもの」
他の騎士たちの気持ちを持ち上げるつもりで少し大きな声で相馬に返すと、背後に人の気配があった。
「出来るなら人員は補充してもらいたい」
そう言ってきたのはだれあろうか聖斗だった。
美珠としては教皇と人員を割いたといってもあえて危険だとは思わない。
母の方に警備を増やすなら分かるけれど、騎士団長二人が率いたこちらに何の不備があるというのか。
「そんなにいる? 結構多くない?」
相馬も返事をどう書くべきか考えあぐねて確認の意味を込めて美珠と聖斗二人を見比べていた。
相馬は美珠に媚びることもしない、自分が思う姫のための最良の手段を取るだけだ。
「ただでさえ人数がすくないのに、貴方が予測不能な行動にでてしまえば取り返しの付かないことになるかもしれない。騎士として先日貴方が北へ行った時のような失態は犯してはならない」
(それはかなり失礼ではありませんか)
確かに自分の行動は軽率な部分があるというのは否めない。
いや、重々承知している。
けれどその棘のある失態というのは、その当時警備をしていた暗守を責めているように感じて美珠は黙っていることができなくなった。
「あれは暗守さんが悪いわけではありません」
「いいえ。聖斗のいう通り、あれについては私が。しかし、人員は増やさなくてもいい。精一杯仕事は努める」
「精一杯やっても結果が伴わなくては意味がない」
波風立てぬようにと、暗守が言葉を返しているにも関わらず、空気を読まない聖斗の言葉に美珠は無意識のうちに詰め寄っていた。
聖斗がもともとあまり人と相容れないほうだというのは知ってる。
一体いつになったら自分を認めてくれるのだと思うこともある。
しかし、ともに戦ってきた仲間だ。
この国最高の腕前を持つ彼が自ら剣術の師をしてくれることだってある。
自分の中では少しは分かり合えたのだと思うようになっていた。
けれど、その同僚に、仲間であるはずの人にどうしてこんな冷たく言えるのか。
もう少し言い方というものがあるだろう。
「いい加減にしてください! 聖斗さん、それ以上暗守さんを侮辱したら私が許しませんよ」
別に彼に対して何ができるわけでもないけれど、ここまで自分のことを守り続けてくれた暗守に対しての態度があまりに悔しくて、美珠は怒鳴りつけていた。
暗守の気持ちは美珠は理解している。
彼はとても熱い人なのだ。
騎士としての魂だってすばらしいものだと思う。
自分はそれを充分過ぎるほど理解している。
そういう自負もあった。
突然はじまった姫と団長の不和を、周りで食事をとっていた騎士たちが驚いたような顔でみていた。
その様子に気づいた相馬がすぐにとりなそうと二人の間に入ったが、止まらないのは聖斗の方だった。
「馴れ合いで仕事をされたら困る、貴方はこの国の大事な跡継ぎであり、暗守は騎士団長。その違いを理解なさって下さい。我々団長は何があっても貴方を守らなければならない。それが使命なのです」
聖斗は美珠を怒らせても別段焦った風ではない。
とりなそうとも考えていない。
一方美珠だって引けなかった。
「馴れ合いなんかではありません、信頼です!」
きつい視線を向けてそう怒鳴ると、聖斗は一つ息を吐いて背を向け、騎士たちが呆然と見ている中、自分の天幕へと引き上げていった。
「なんで聖斗さん、あんな苛立ってるんだ?」
相馬は主と騎士団長とのやり取りを見守った後、ツンツンした頭の気を指でねじりあげポツリと呟いた。
「美珠様、私のことはお気になさらず。相馬殿、人員を増やしてください」
「大丈夫です。これで充分じゃありませんか! そう連絡しておいてちょうだい」
興奮したまま美珠はそう結論付け相馬に命令すると、天幕へと怒りを納められずに戻った。
一人になり、簡素な椅子に座った途端、相馬の言葉が甦ってくる。
―なんで聖斗さん、あんな苛立ってるんだ?
そう、それはとてもおかしなことなのだ。
聖斗は感情などむき出しにする人間でも自己主張がはげしいわけでもない。
淡々とそして完璧に職務をこなしてゆく人間だ。
それがあんな風に、人の前で暗守を仲間を辱めるようなことをした。
ーいつもの彼ではない。
「お母様がいないから?」
母がいないことが彼の心を不安にでもしているというのだろうか。
熱を出した母の傍に彼はいたかったのだろう。
確かに三歳の頃から母の傍にいたのだ。
娘である美珠以上に気にかけているのかもしれない。
そこには色んな感情がある。
けれど彼は職を優先させ、本隊となるべく美珠の供を選んだのだ。
どれだけ病気の教皇に対し後ろ髪を引かれようが、自分でその職を選んだのだ。
だったら彼にはその職務を全うしてもらいたい。
母と聖斗との関係を考えれば考えるほど、感情が高ぶって、美珠はその夜なかなか眠ることは出来なかった。