暗黒の章 第一話 使命
ほうっと息を吐いて、手を浸してみる。
春先のまだ冷たい水、けれども澄んだ水が、どこか心を清らかにしてくれる。
手ですくい、その清水に顔をつけると疲れ果て靄がかったようにぼんやりした頭が一気に覚醒した。
―私は人に尽くすために今ここにいる。
顔を持ち上げ濡れた頬の水滴を手の甲でぬぐうと、小さな小川の向うで松明を持った騎士たちが野営するためにせわしなく左右へと動いているのがみえた。
「あまり一人になられませんよう。どういう輩が潜んでいるかわかりませんから」
背後に広がる無限の暗闇からの声に一つうなづき、黒髪を束ねていたピンを取り髪をほどく。
滑らかにすべりおちた髪は松明の光で赤く光った。
「分かっています。でもそんなに見張ってくださらなくても、私なら大丈夫。過保護すぎです暗守さん」
振り返り目を向けると暗闇の中にさらに闇がある。
その闇は人だった。
漆黒の鎧に全身を包んだ大きな騎士がいるのだ。
けれどそのおどろおどろしい姿とは全く不釣合いな、やさしさを持った騎士だというのは充分知っている。
そして彼がどれだけこの自分の存在に身辺に心を砕いているのかも知っている。
彼は以前、警護という仕事よりも感情を優先させ取り返しのつかない事態に直面した。
守りきれず目の前でたった一人の跡継ぎ姫を失ったのだ。
それは性悪の魔法使いのみせた幻という結果で事なきを得たのだが、姫が存在しない間、自分を責め続けたであろう彼に申し訳なく、これ以上彼に気をもませるのも嫌で、素直に立ち上がると人々の待つ天幕へと向かうことにした。
生成りの粗末な天幕の中では母である教皇が羽ペンを持ち巻紙に何かをしたためていた。
清潔な白く長い法衣をまとい黒い髪をきっちりと後頭部で留め、書き物をしている母の姿は美珠でも見惚れてしまうような高潔な姿なのだとつい最近知った。
母が美しい字で書き進めていたのは日記だった。
どこでどういった話を聞き、何を見たか。
その時何を思い、どう対処したのか。
十三のころより、この国の精神的支柱にならざるを得なかった母はずっと記録として書き続けているという。
教会で保存されているその日記が彼女の教皇としての行動の全てなのだ。
後世まで語り継がれる史上初の女性教皇の歴史となるのだ。
今日もまた教皇の日記には救われた民のことが書き加えられたのだろう。
凛としてそこにいる母は俗人のようなものを一切持っていないようにさえ思える。
彼女は精神的支柱として存在しなくてはならなかった。
教皇の元に志を持って集まった教会騎士、暗黒騎士、魔法騎士を束ね、国を導くのだ。
けれど母は神ではない。
紗伊那の支柱ではあるが、人なのだ。
教皇であり、母であり、女である彼女にもいろいろな感情がある。
それも十六になってから、数か月前に理解したことだ。
十六まで大国紗伊那の跡継ぎは表に顔を出すことはなかった。
花を愛す引っ込み思案な可憐な姫であり、父国王と母教皇がその存在を晒すことがなかったからだ。
けれど姫が十六を迎え、事態は大きく変化した。
結婚話、内乱、二度にわたる性悪魔法使いの脳内操作、他国との戦争と姫の置かれた環境は劇的に変化し続け、今存在する紗伊那の姫、美珠は独身の双剣使いのおてんばだ。
母の邪魔をしないように慣れない白い法衣の裾を気遣いながら向かいに座ると、すかさず出されたほのかに黄色く色づいたお茶に口をつけた。
心を落ち着けてくれるカモミールのすこぶる良い香りに目を閉じると急速に押し寄せてきたのは睡魔。
父譲りの大きなくりんとした二重の瞳をこすりあくびをかみ殺す。
「これは危険なお茶ですね。こんなお茶を敵に出されたら気を許してしまうわ。聖斗さんのお茶だけは特別ですね」
お茶をいれてくれた銀の甲冑に赤いマント姿の愛想のない教会騎士団長にそんな戯言を言いながらもう一口口に含み、そして余韻に浸りつつも目を開くと机においた。
「王都を出て早いものでもう一週間、お父様、ちゃんと仕事をなさってるんでしょうか」
毎晩そんな言葉をつぶやいている気がする。
国王である父の仕事状況を心配しているというわけではない。
ただ、父やいつも周りにいてくれる人々は自分のいない日々をどうすごしているのだろう。
それが気になるのだ。
姫の護衛を願っていた女剣士、珠利は以前に負った怪我の具合が芳しくなく、長期の随行は邪魔になると教会騎士団長である聖斗に反対され、聖斗に対してしばらく口をきかないという対抗手段にでたが、相手がわるい。
相手がそんなことで折れることもなく、治療に専念することになった。
治療に専念しろと言っても珠利は毎日毎日、自由のきかない自分の体を呪いながら、姫のことを考えてくれているのだと思う。
その他の人は、自分のことを心配してくれているのだろうか。
それとも台風の目である自分がいないことをいいことに、案外のんびりとすごしているのだろうか。
どんなことを思っているのだろう。
自分のいない場所でどんな会話をしているのだろう。
「きっと寂しくて仕事に生きるしかないでしょう」
まだ三十前半の母は娘の会話につきあうことにしたのか、はたまた仕事を終えたのか、ゆっくりとペンを置いて、どこか楽しそうに微笑んだ。
今、紗伊那の跡継ぎは人々の声を聞く旅に出ていた。
母教皇とともに馬車にのり国を見て回る。
母と長期の遠征、そんなこと初めてで母から提案されて兎に角期待だけで出てきたが、母である教皇は苦しい人々の話を聞くことであり、旅行気分で出てしまった美珠にとってぶち当たる壁が大きかった。
どうしてあんな豊かな王都から離れるとこうも貧しく苦しい人々が多いのだろう。
そしてそれを目の当たりにして気圧されているのは自分だけで、同行の魔法騎士、教会騎士、暗黒騎士などは淡々と仕事をしていたし、美珠の御供についた乳兄弟 相馬も動じてはいなかった。
美珠は肩甲骨辺りまで伸びた黒髪を弄びながら、少し思案した。
きっとここに同じ年で恋人である優菜がいたらこの気持ちを表情に出し、素直に口にできただろうし、年上の幼馴染の国明がいたのなら、意気消沈しつつある自分をこっちが紅潮してしまうほどの素敵な笑顔で、甘ったれだの、世間知らずだのののしって虐められるのだろうと思う。
「お母様はこんな生活を十三の頃から続けられていたのでしょう? 苦しくはありませんでしたか?」
「もちろん苦しかったわ。でも、民が待ってるんですもの。それでも間に合わなかった命もたくさんあるけれど」
「貴方に救われた命もたくさんございます」
そうすかさず切り返した聖斗は旅をして回る母にとってはなくてはならない存在だったのだろう。
美珠が今思い浮かべた二人の男のように、母にとってのよりどころだったのだ。
娘である自分も入れない二人のその空気を眺めながら美珠は思う。
どうしても相容れられなかった父と母。
母が意気消沈してしまうときに、必ず傍にいてくれた男。
たった一人だけ自分を女としてみてくれる男。
いや、女に戻してくれる男だったのかもしれない。
そんな人がいてくれたなら自分でも貞操を守れるかどうか。
そんな美珠の眼差しの意図に気付いたのか聖斗は表情を崩すこともなく一歩下がった。
「美珠、疲れたのならもうお休みなさい。優真ちゃんも、もう天幕で休んでるんでしょう?
まだ行程の半分もすぎてはいません。貴方にとっては初めての行幸。精神的に参ってし
まってはいけませんよ」
民に気を遣うことが仕事の母に私的な時間まで気を遣わせて美珠はもうしわけなくなって頷いた。
「ではそうします。お母様、聖斗さん、おやすみなさい」
今日最後の作った笑みで天幕を出る。
一歩でると教皇の凛とした空気は消え去り、人々の声がたくさん聞こえる現世なのだと思い出す。
そしてそこではやはり何事もおこすまいと見張りの騎士達が目を光らせていた。
「ご苦労様です」
彼らはもしかしたら美珠のという問題児が同行することによってさらなる警戒の度を増したのかもしれない、そう思うと美珠は何割増しか愛想よく挨拶して、自分の天幕へと戻った。
小さな天幕では騎士団長が子供と添い寝をしていた。
魔法騎士団長魔央は騎士団長の中では年長者であり、その子と同じくらいの子がいてもなんらおかしくない年でもある。
その騎士団長はなにやら自分の武勇伝を分かりやすく語っているようだったが、彼の地位についても知らない隣国育ちの七歳の優真という少女はもう薄目で、今にも眠りに落ちそうになっていた。
そんな優真の背中をトントンと叩きながら世話をする魔央。
知らぬ人がみたらよい父子のようだ。
知り合ったときは雑種の茶色の犬と子供という可愛いものだったのだが。
それから数刻、優真が完全に眠りに落ちたのを見計らい魔央は肩までの黒い髪を耳にかけ、美珠へと笑顔を向けた。
「では、私はこれで」
「ありがとうございました」
お互い吐息と変わらぬ音量で言葉を交わして、自分もまた布団に入る。
すでに優真の体温でぬくもった布団は心地よい眠りへと誘ってくれる。
「おやすみ、優真」
*
二人きりになった天幕で聖斗は教皇の背中に羽織りものをかけた。
教皇は自分が知らず知らずのうちのうつらうつらしていたことに気が付くと前髪のほつれを直してお茶を飲み込む。
「今回は少しお疲れではありませんか?」
「貴方の思い過ごしよ」
「しかし、美珠様がいらっしゃるということで教皇様も少し気をはっていらっしゃるように見えるのですが」
「私は娘とこうやって旅ができてたのしいのよ。こういう日がくるのを夢見ていたんだから」
教皇は屈託なく微笑むと立ち上がる。
聖斗は心配そうにそんな姿を黒い瞳で追った。
「でも心配をかけさせるわけには行きませんからね、もう私も休むとしましょうか」
そう言って奥の部屋へと足を運んでゆく教皇を聖斗は見送ってからその天幕の中からでてゆくことにした。
「おや、聖斗、君は外で見張りかい?」
美珠の天幕から出た魔央は本能的に教皇の天幕へと警備の目を向け気さくに近寄ってきた。
「教皇様離れができたということか。やはり時が来ると自然に離れられるものなのかな」
聖斗は三歳のころから教皇の小姓をしていた。
彼こそ教皇の傍にいる最古参の人間だ。
後にも先にも教皇の小姓は彼一人だったのだ。
そして成長してからは教会側の騎士同士ということもあり、十代初めから聖斗と魔央は顔は知っていた。
ただお互い口をきいたことはほとんどない。
姫様が活躍するまでは、だ。
仲間となった今でも、聖斗の寡黙さが突然爆発するわけではなかったが、
「死期が近いか、よく喋る」
遠まわしな嫌味より、黙れ、とぴしゃりと言ってやったほうが良かったか、と聖斗は少しして思った。
魔央も暗守も、ひょっとしたら騎士の何人かは自分と教皇に『何かがある』ということに気がついていたのではないかと聖斗は感じる事がある。
騎士団長ともあろう人間が何年も気がつかずにいたのだろうか。
警備を行う以上、自分がそういう立場だったら絶対に気がついていたはずだ。
教皇と騎士、その一線を越え男女となる時、そういうことをしていたのは自分が警備に当たる日だったが、一人で警備をするわけでもない。
幾人かの騎士と纏まって警備にあたるのだ。
人払いをしておいても、気づいている人間はいるだろう。
が、今まで口に出して何か指摘されたことはない。
― いや、一人だけいる。
大切な女性にとって一番大切な人間によりにもよって見つかった。
その時、彼女の中に自分の存在など無かったかのような消沈ぶりだった。
俺がいる。
だから心を強くもって。
そんな言葉も通じない位。
そして男女としての関係は終わった。
なんの未練も残さず彼女の中では終わってしまったのだ。
まるで何も無かったかのように。
「珍しい、聖斗がそんな口をきくなんて」
そう言って肩をすくめる同僚に聖斗は取り繕うこともなくただ前を向き、警備に徹することにした。
不測の事態が起こったのは次の朝だった。
天候にも恵まれた突き抜けるほどよく晴れた空の下、一行には暗雲が立ち込めていた。
「お母様」
「大丈夫よ。早く馬車の用意を」
「こんなに熱があるのに」
美珠は母を天幕に設けられた簡易の寝所へと必死に押し戻していた。
その傍には可愛く髪を二つにくくった優真がいて、アーモンド型の目を左右に動かして氷枕を携えオロオロと美珠と教皇の様子をうかがっている。
「行程を遅らせるわけにはいきません。待っている民がいるのですから」
「お母様が倒れてしまっては元も子もありません! 私が参ります」
教皇はその言葉に毅然と首を振る。
けれど彼女の血をしっかりと引きついだ娘はもっと頑固だった。
「魔央さん、暗守さん、聖斗さん、母に付き添う騎士の選定をお願いします」
「美珠様、それは!」
魔央が流石に驚いたように声をあげる。
美珠には教皇の代理をするだけの経験がないからだ。
けれど美珠は毅然とした態度をとった。
「ではここで母に無理をさせればよろしいの? それとも母を待てばよろしいの? 各地にはもう日程を伝えてあるのでしょう? 待っている人がいるのでしょう? 約束をたがえるわけには行きません。私が母の名代としてまいります。皆さんがいてくださるのだから大丈夫」
「美珠! まだ貴方には」
経験不足と母として娘を案じる教皇に美珠は振り向き母の手を握った。
「お願いです。お母様、お辛い時は私に代わらせて。私ももうお母様が教皇になられた十六。やってみせますから」
「けれど、」
「本当にあなたにお任せしてもよいのですか?」
何かを言おうとした教皇よりも先に口を開いたのは別の人間。
「教皇様のなさることをあなたに求めてもよいのですか?」
高圧的な聖斗の言葉と視線に美珠はしっかりとうなづく。
「私はこの国の跡取りです。やらなくてはいけないんです」
美珠のそんな言葉に聖斗はその瞳の強さを確認してから背中を向けた。
「では、すぐに出立の準備をいたしましょう」
「聖斗! そのようなこと許しません!」
教皇の絞り出すような声に振り向き、聖斗は跪いた。
主にだけ見せた顔はどこかあどけない表情だった。
「教皇様、私からもお願いもうしあげます。どうか、もうご無理なさらないでください」
「聖斗」
「美珠様には我々がついております。われらの命を懸けお守り申し上げます。ですから、どうかお体を」
その言葉にしばらくの間返答はなかった。
聖斗は言いたいことをいい終えると頭をさげたまま跪くだけで動かないし、教皇も動かずにいたが、やがて教皇が自らを言い聞かせるように胸をおさえて二度ほど首を縦に振った。
「わかりました。少し休んで必ずおいつきます。それまで、美珠、あなたに全権をゆだねます」
「はい。お母様の名代、必ず勤めてみせます。……さてと、優真、お母様のことお願いできる?」
美珠は氷枕を持って立ち尽くしていた優真に手を伸ばし、その頭をなでると優真は教皇のそばにすぐに駆け寄って寝台へと手を引いた。
「教皇様、私がいるから、苦しかったら言ってね」
「ありがとう、優真ちゃん。早く治さなきゃね」
教皇は優真に手を引かれ天幕の奥へと消えて行った。
事態が動き始めると三人の騎士団長もはすぐさまこの先誰がどうするかという二手にわけた人員配置を協議しはじめた。
その間、美珠は地図を眺める。
「美珠様が教皇様に言い勝つなんて。まあ、国王様に勝てることはあったけどさ」
ツンツン頭の相馬は隣で地図の要所を指さし行程を確認しながら軽口をたたいていた。
「だって、事前の調査でも危ない道ではないんでしょ? それだったら尚更、やらなきゃ。教皇になる力をつけるには実践あるのみでしょ? ここで経験をふやさないと」
自分がうまくできたら母は少しでも楽になれる。
仕事を分担することだって可能になる。
今後の為にも絶対に成功させる必要があるのだ。
数分してすぐに騎士達が文字通り二手に動き始めた。
報告に来たのは聖斗。
「暗守と私が貴方に随行します。本隊は美珠様ということになります。魔央と回復能力の高い魔法騎士数人は教皇様の元に残りますが、よろしいですね」
「ええ、お願いします」
顔を引き締めて馬車に乗り込む。
跡継ぎではなく教皇の名代。
結論、そして結果を出すのは自分なのだ。
いやおうなしに肩に力がはいってしまう。
けれど自分は一人ではない。
補佐役の相馬がせわしなく資料を纏めていた。
彼の肩にも重いものがかかってくる。
事務を完璧にこなさないと主である美珠にしわ寄せがくる、姫が出来なければ自分のせいだと言い聞かせていて、鼓舞しているようだった。
「一緒に乗り切りましょう」
「もちろんだよ、安心して、優秀な執事がいるんだから」
それでも今まで母、優真、相馬の四人で乗っていた馬車は広く感じられた。
左右を固めた聖斗と暗守が出発してもいいのかという確認の目を向けていることに気が付いて手をあげる。
静かに馬車が動き出す。
それに従い騎士の乗った身の丈人の三倍ほどある竜たちもゆっくりと歩を進めた。
同じ年の母はこうやって人々と向かいあってきたのだ。
だったら自分もやれるはずだ。
いや、やらなければいけないのだ。
アクセスありがとうございます。大変ご無沙汰いたしまして申し訳ありません。これからまた頑張って更新してゆきますので、おつきあいお願いいただければ幸いです。