願いをかけて4
駅に着くと彼は瞳を泳がせるように駅内を見渡した。
「迎えに来てくれるの?」
電車から降りる人の波でなかなか立ち止まっている人の姿が見えないが、目を細めながら彼は探していた。
「そのつもりでいたんだけど・・・あっ! あそこにいる!」
少し興奮気味な声に驚きながら今にも駆け出しそうになった彼の裾を、引っ張った。振り向いた彼は、何か言いたげな顔をして少し眉をひそめた。
「本当に、後戻りできないんだからね。一応、念押しとくから・・・」
それだけ言うと裾から手をはなした。彼の迷いのない目は、少し危険な感じがした。本当に大切なことを忘れてしまうような、そんな輝いた瞳を見せたからだ。小さな針が、胸に突き刺さったような気持ちになった。
引き止める必要はなかったかもしれない。頷いたときの彼の表情は、まだ何かを納得できていない子供みたいな顔だった。これで良かったのか、会えて嬉しいと思っている反面で、これからのことを考え悩んでいるようにも見て取れる。
「わかってる・・・」
それだけ言うと、彼の足は母親のいる所へと歩みを進めた。
おばさんは何年か前に見たきりだったのに、その顔を鮮明に覚えていた。少しだけ痩せてしまった気がしたが、美しさは昔とかわっていない。
彼を見つけるとしばらく体を動かさずに、じっと彼を凝視していた。あたしや彼もおばさんの顔を見つめていたが、彼が少し体を動かすと時間が戻った。一気に想いが駆け巡り、おばさんは目の前で泣き出した。
彼はそのおばさんの肩を抱きしめた。その光景が切なくて、胸の奥がきゅっと締め付けられた。数分すると、二人は顔を見合わせてようやく笑いあった。おばさんは彼の後ろにたたずんでいたあたしを見つけて、優しく微笑むとあたしの傍まできてぎゅっと手を握った。少し冷えた手のひらは、ここであたし達を待っていたことを表していた。どんな顔で会おうかと、迷って悩んでいたのは彼だけではなかったようだ。
「そこに車を止めてあるの。すぐに家にいきましょう。亜紀も待ちくたびれてるわ」
妹の亜紀ちゃん。亜紀ちゃんは今年で中学生になっていたはず。もっと小さかった頃のことしか覚えていないものだから、思い浮かべるのも小学校のランドセルを背負っている姿だった。きっと隣にいる彼も、そんなことを想像しているのだろう。ふと横を見れば、少しだけ嬉しそうに目が輝いている彼が見えた。おばさんの背中をまっすぐ見ながら、進む足は目的地へと続いている。
おばさんの車は真っ赤な軽自動車。中に入ると少しだけ車が揺れて、あたしは彼の方に密着してしまった。あわてて体をどかしたけど、頬が熱くなってしばらく窓の方に顔を向けて熱がおさまるのを待った。
「学校、楽しい?」
うきうきとした声でおばさんがミラー越しに彼に問いかけた。
「普通に楽しいよ」
「普通かぁ・・・。受験生だもんね、今は忙しいだけよねぇ」
「そうでもないよ。高校生活最後だからこそ、今が一番盛り上がってて楽しいし。母さんは、どうしてたの?」
隣にいたあたしも、おばさんも一瞬肩を振るわせた。彼が、一番聞きたくて、一番知りたいことを口にしたからだ。おばさんは戸惑う様子もなく、にっこり微笑むと口を開いた。
「どうもこうも、苦労してただけよ。ホント、亜紀には迷惑かけちゃったわ」
「・・・そうなの」
彼の声がか細くなった。本当はこんな答えを聞きたいわけじゃない。そう全身で訴えてるけど、今は納得するしかないとあきらめ半分に顔をうつむかせた。
駅から十五分ほどでおばさんが住むマンションまできた。マンションの四階の一番東側にある部屋。玄関のネームプレートは木の板に様々な装飾品が飾られていて、手作りのものだった。そこで気になったのは、おばさんと亜紀ちゃんの名前野横に、妙にでかいスペースがあることだった。もしかすると彼がここに来ることを想定しているのではないのかと、あたしは考えを巡らせていた。
玄関のドアを開けておばさんが先に中に入ると、すぐに亜紀ちゃんの声が聞こえた。
「お兄ちゃん・・・!」
玄関から伸びる狭い廊下に亜紀ちゃんがいた。驚いた顔をして、彼を見つめている。あたしの記憶からは大分成長して見えるから、彼は亜紀ちゃんが女の子らしくなっているのに、あたし以上に驚いているだろう。
「亜紀、久しぶり」
彼が口を開くと亜紀ちゃんは笑った。それからあたしの方を見ると、同じように笑ってくれた。忘れてしまわれてるのかと思ったけど、亜紀ちゃんもあたしを覚えていてくれていた。それが嬉しくて、顔を赤くしながらあたしも笑った。
「春菜ちゃん、こっちに荷物おいてちょうだい。狭いとこなんだけど、くつろいでね」
お世辞にも広いともいえず、狭いという言葉に曖昧にうなずきながら案内された小さな和室に荷物をおいた。それからリビングに行くと思ったより可愛らしいあんティークが並べられたすてきな部屋だった。キッチンの前には四人がけのテーブルがあり、赤い色の暖かな感じのする絨毯の上に白の猫足の机がある。その周りにはソファがあり、テレビが並ぶ。我が家では考えられない可愛らしい家具たちに、あたしは思わず歓喜の声をあげていた。
「私の趣味なのよ」
とおばさんが猫足の机に温かい紅茶を運びながら言った。
「お母さんと買い物に行ったら絶対にインテリアのお店に入ろうとするんだよ。それでいっつも時間とられてさー」
亜紀ちゃんがおばさんに続いて洋菓子をおきながらブツブツの文句を言った。あたしも彼も苦笑いをしながら亜紀ちゃんの話を聞いていた。
しばらくはおばさんと亜紀ちゃんがどうやって生活していたかとか、亜紀ちゃんは彼に学校でのことを話した。おばさんも負けじと職場での話をしていたが、どの話を聞いても彼は微笑むだけだった。
複雑な思いを抱えているのが伝わってくる。本体はこの場所に座っているが、心はどこか別の場所に置かれている。悩んでいることを口に出せずに、母親や妹に会えたことを喜ぶ反面では喜べない心を持っている。それは今までの空白の時間と、父親のことを考えるからだろう。
その彼の横顔を見つめながら、あたしは今まで以上に複雑な思いを胸に秘めていた。
夕食はおばさんと亜紀ちゃんが作ってくれたススパゲッティーと、カボチャのスープにフルーツサラダだった。二人が夕食の手伝いをしている間に、あたしと彼はしばらくマンションを出て、ブラブラと歩き回りながら話をした。ここに来てから急に口数の減った彼は、あたしと二人きりになると自分から口を開いてしゃべりはじめた。
いい場所だとか、不便してなくて良かったとか、いい暮らしをしているなぁ、とか。それから、二人は思っていたよりずっと仲良く暮らしているんだなぁ、と彼はしんみりと口にした。
「俺とは大違いだ。俺は父親とろくに話もせずに暮らしてた。でもここではそれがないんだよ。なんか、今までの自分が情けなくなってくる・・・」
暗くなる空がまるで自分の心を映しているかのように、真っ暗だ。月も星も姿を現さないように、希望や、願うこと一つ持っていない。彼の両手にあるのは、自分ではどうすることはできないと嘆いている心だった。そう、彼は言っていた。
マンションに戻り、豪華な食事を済ませると適当に時間を過ごしながら、少しずつ彼はおばさんに自分のことについて話をしようとしているのが見えた。
十一時を過ぎると亜紀ちゃんがあたしの寝室になる和室の部屋に布団をひいてくれた。それからしばらく話をした。
「お兄ちゃんが一人でくると思ったけど、春菜ちゃんと一緒にくるなんて予想外だったな」
「そう? あたしもここにくるなんて思ってもいなかったけど」
目を見合わせて少し笑った。
「お兄ちゃんにとって春菜ちゃんは特別ね。きっとそうよ、だっていつも一緒にいるのをみてたし、あたし春菜ちゃんによく嫉妬してたもん」
恥ずかしそうに頬に両手を添えながら「今だからいえることだよ」っと人さし指を口元に当てた。それから亜紀ちゃんは自分の部屋に戻り、そのまま寝てしまった。
あたしはまだ少しおばさんと話がしたかったのでリビングに行くと、彼とおばさんがソファーに座りながら、話をしていた。あたしがリビングのドアの傍で立ち尽くしているのに気付いた彼が手招きしてあたしを呼んだ。同じようにソファーに座るとおばさんはあたしの顔を見ながら、口を開いた。
「ここにあなたを呼んだ理由は、あなたと暮らそうと思ってのことじゃないのよ。もちろん、あなたが一緒に暮らそうと思ってくれたなら喜んで歓迎するけど、もっと別な大切な話があるの」
「大切な話って?」
彼はきょとんとした顔をしながら、覚悟を決めているようだ。何か嫌な予感がするのはあたしも同じで、玄関にかかっていたネームプレートの違和感を感じて空間を思い出した。
「お母さん、再婚しようと思ってる人がいるの」
リビングには息をのむ音だけが聞こえた。