序
「ユニヴェール様、お手紙です。……そんなに本を散らかして、何かお探しですか?」
「エメラルド・タブレット」
「錬金術の本を? また何故です?」
「庭の薔薇の葉に黒い斑点が!」
「まず斑点が出た葉を取り除く方が先です」
「…………」
「それよりも、暗黒都市の女王陛下からお手紙が参りました。足の踏み場がないので投げてよろしいですか?」
「許す」
「では」
「パルティータ! 縦に投げる奴があるか!」
「横投げは正確に飛ばすのが案外難しいのです。それで、陛下は何と?」
「…………。城へご招待くださるそうだ」
「あぁ、呼び出しですね」
「何か祝い事でもあるのか……」
「また何か怒られるようなことをしたんですね」
「お前は自分の主を何だと思ってるんだ。これからすぐに城へ行くから馬車を呼べ。それからこの部屋を──」
「ご自分の部屋はご自分で片付けてください」
「お前、自分の職業を知っているか? メイドだ、メイド。小間使い」
「自分が撒いた種は自分で刈る。まっとうな人間としての生き方を母君に教わりませんでしたか?」
「私はもう人間じゃない」
「それは屁理屈といいます」
「ではお前の仕事は一体何なんだ! 何だったらやるのだ?」
「お出かけになる前に紅茶を淹れて差し上げます」
「…………」
──世界は神の箱庭か、その吸血鬼の劇場か。
冷笑主義・出張編
「ブラン・ド・ノワール」
先の見えない濃密な闇が南フランスの森を覆い尽くしていた。
新月の夜、流れる雲の影はなく、ヨタカも鳴くことを忘れ、獣が落ち葉を踏む足音さえない。
木々の隙間から滲み出した黒い夜気は山間の小さな村々を飲み込み、ふもとの街々を包み込み、もはや世界は人の手にはなかった。
滑空する蝙蝠、実体のない蹄の音、風を渡る気配。
大地の湿気と蓄積された熱がゆっくり混じり合い、そろりそろりと夏へ近付いてゆく。
昼間の喧騒が霧散した生命の静寂。
墓場の下の蠢き。
人ならぬ者たちの息吹は森を抜け、田畑を横切り、城砦を越え──。
「誰か! 誰か!」
かろうじて意味を成す悲鳴が夜を裂いた。
周囲を山と葡萄畑に囲まれたなだらかな街に、恐怖を報せる下女の声が反響する。
彼女が見たものは、寝台を紅に染め横たわる女主人の姿だった。
叫んでから、ランタンを握り締めた下女は部屋の入り口で硬直した。
女主人の部屋にいた見知らぬ男が──どこにでもいる中肉中背、着古した身なりの男が、こちらを振り返りもせずに窓から飛び降り逃げて行ったのだ。
ここは二階だというのに!
「…………」
女主人の目を見開いた血の気ない顔見れば、もはや息がないのは明らかだ。
しかし主人の様子を伺うまでもなく、彼女は何が起こっているのか分かっていた。
とうとうこの街に順番がまわってきたのだ。
彼女は足をひきずり、震える手を叱咤しながら窓に寄った。突然高熱に冒されたように身体の節々が軋み、どうにか己の動きを止めようとしている。地上にわだかまっていた熱がすべて消えてしまったように、寒い。今自分を支配してしようとしているものが本能なのか恐怖なのか、彼女には分からなかった。
しかしそのどちらでもない何かが彼女を窓へと駆り立てたのだ。
「主よ、どうか慈悲をお与えください。主よ、どうか、どうか我らに慈悲を」
彼女が見下ろした街の通りには、いくつもの黒い人影があった。
目を凝らせば人のようではあるが、あちこちの窓から飛び降りてきたその者たちは、いとも簡単に着地をすると痛がりもうずくまりもせずに悠然と歩き始めるのだ。
時折失敗した者は、曲がった足首を自分で元に戻して何事もなく流れの中に混じってゆく。
人の形をした、人ではないもの。
蜘蛛の子が集まるように、その数は次第に増えてゆく。
あまりのおぞましさに彼女が口元に手を当てたと同時、街のあちこちで悲鳴が上がり、塗り潰された闇にぽつぽつと火が灯され始めた。
すると、
「引き上げるぞ!」
通りに群れていた異形たちを割って、鋲を打った白い外套を羽織った男が現れた。
硬質の光を放つ金髪に、紅の三白眼。
厳格な騎士とも無法な傭兵ともとれる蒼白い顔つきは、照燈の赤い灯が燃やされ始めた夜によく映える。
「……ブラン・ド・ノワール」
それがその化け物に付けられた呼び名だった。
黒の白。白をまとった魔物。だがどれだけ装おうが魔物は魔物。黒は黒。
彼が街を見まわす視線は、敵意と怒りが入り混じりひどく鋭利で重い。
黒の群集の目が自身に向いていることを確認した男は無言で外套を翻すと、通りを下り、街を出て行く。異形の者たちはその後を追う。
擦り切れた衣服をまとい、穴の開いた靴を鳴らし、列をなし潮騒の如くざわめく、それはまるで黒死病が流行った時に謳われた死の舞踏ではないかと思えた。
街の通りを揺れながら連なる黒い死。
圧倒的な世界の裏側が音を立てて目の前を過ぎてゆく。
「主よ、どうか慈悲をお与えください。主よ、どうか、どうか我らに慈悲を」
神を裏切り神に見捨てられた者達の行進は、しかし聖騎士達がやってくる間もないほど速やかに街を出て行った。
呆然とした沈黙が街を包み、少しの間を置いて本物の純白を盾にした聖騎士が隊を成して通りに現れる。
そして、我に返って彼らを呼ぶ声、大人が悲嘆にくれる声、遅い到着に憤慨する声、子どもの泣き叫ぶ声、犬が無闇に吠える声、様々な音の渦が街に響き渡り始めた。
下女はもう一度寝台を振り返った。
やはりそこには目を開いたままの女主人が無残に転がっている。
「奥様……」
下女は知らず冷たい板張りの床に崩れ落ちた。
主人はこんな風に自分の人生が終わるなどとは思ってもいなかっただろう。しかし彼女が死んだ今、自分は雇い主を失ったことになる。
これからどうしたらいいのか……胸に溢れた不安に嫌悪を感じ彼女は自分の顔を覆った。
自分の先行きを憂うよりも先に主の死を哀しまなければならない、彼女はそう繰り返し繰り返しつぶやき続ける。
ランタンひとつの小さな炎に照らされた部屋の中で。
近隣の町や村が魔物に襲撃されているという噂はあったのだ。
ブラン・ド・ノワールに率いられた吸血鬼の群れに町ごと襲われるのだと。
彼らは静かに街に忍び込み、悟られぬよう住人を次々襲い、誰か一人にでも気付かれた時点で群れごと風のように撤退する。
いつかこの街にもやってくる──言葉にはされなかったが、皆が思っていたことだ。
「私のせいだわ」
暗闇を遠ざけようと赤い火が煌々《こうこう》と灯された街、その中を走りまわる聖騎士や住民を見下ろし、若い娘が涙を浮かべていた。
編んだ褐色の髪はほつれ、握り締めた手にも開きかけの唇にも血の気が無い。
「私が止められなかったから。私たちがあんなことをしたから……」
街の大半を眺望できる城。のどかな山の街にはやや似つかわしくない、見張り塔をいくつも有した堅牢な石積みの城。
その広間には彼女や彼女の母、そしてメイドたちや下男たちが集められており、数人の傭兵が立哨していた。
「これはたくさんの人を殺してしまった報いよ」
彼女の首元で、小さな金の十字架が光る。
「私たちは、死をもって死の償いをしなければならないのよ……」
「エリン、何を馬鹿なことを言っているんだ」
天井の高い広間に男の大声が響いた。それはいっそ清々しいほど。
「お父様」
きびきびとした動きで広間に入ってきた彼女の父親は、ラングドック王室領であるこの辺り一帯を王に代わりに治めている小領主だった。
痩せてはいるが骨格は良く、眼光鋭い。
「これは我々が正しかったことの証明ではないか」
彼もすでに自室で休んでいただろうに、着込まれた衣服にも灰色の髪にも乱れは無く、自慢のエメラルドのスカーフ留めまでしっかり付けている。背筋を伸ばし毅然とした様は、彼の性格を如実に表していた。
「神はご存知だったのだ。奴らが異端だと。己を欺く者だと。だから奴らはあんな化け物になったのだろう? 神の御許へ行くことを許されずに」
すべての燭台のすべての蝋燭で揺らめく火が、神に跪く者の朗々たる言葉をより一層赤々と照らす。
「ベズィエの異端狩りで教皇特使はなんと言った? “──すべて殺せ。主こそが彼らをよく知り給う”。そうだ、神は知っていた。奴らは救うに値しない者たちだと」
襲われた側だということを忘れたかのように、広間に満ちていた緊張と恐怖が高揚へと変わってゆく。敵の喉笛に聖剣を突きつける仄暗い気炎、勝利目前の前線に蔓延する飢えた熱。
エリンの父、グラー卿は誰の方も見ずに高らかに命令した。
「ヴァチカンへ遣いをやれ! 吸血鬼始末人を寄越せとな。今度こそ奴らを根絶やしにしてやる。ブラン・ド・ノワールを──吸血鬼レオナール・ミュラを滅ぼすのだ!」
時は十五世紀後半、中世暗黒時代。
それは物語の時代から科学の時代へと移り行く狭間の時代だった。
志高き若者が過去と未来を学び道を切り拓き、パトロンたちの財力で絢爛な芸術が花開く一方で、民は貧困にあえぎ、神の御名を掲げた魔女狩りの粛清はなお白さを極め、呼応するように夜の闇は深く、その世界を魔物が闊歩していた時代。
光はまばゆいほどに輝き、それゆえに影も底なしに昏く濃い。
誰かが蹴飛ばした髑髏は、明日は我が身。
差し出される手は神のものか、それとも──。