かぐつち・くまナぱ(便乗期間限定w)さまのゲシュタセット
『ゲシュタルト崩壊とマインドセット』-夢を叶えるのではなく、理解して手放す者─
坂の上に、古い団地がある。
灰色のコンクリートの箱が、同じ形でいくつも並んでいる。
塗装は剥げ、鉄の階段はところどころ錆びていた。
常磐 元子は、自転車を押しながらその坂を登る。
肺が焼けるように痛い。
けれど、止まれない。
家では父が待っている。
売れない作家の父。
病気で、ほとんど外に出てこない。
母はもういない。
母は、父を支え、家族を守り、そして――早くに亡くなった。
兄は家を出たまま戻らない。
そして 元子は、学校が終わるとスーパーで働き、帰って家事をして、父の世話をしていた。
坂道を登る。
いつも同じ坂。
同じ呼吸。
同じ世界。
同じ毎日。
何度も、何度も、何度も、何度も。
その繰り返しの中で、ふと思う。
坂なのか。
坂じゃないのか。
上がっているのか。
下っているのか。
世界が、灰色の模様みたいに見える。
意味が崩れていく。
夕方の空はくすんだ色をしている。
雲は低く、空気は重い。
変わらずに今日も、同じ坂だ。
団地の前に着くころには、息が少し切れていた。
三階。
外廊下の端の部屋。
古いドアは錆びた音を立てて開く。
「……ただいま」
返事はない。
あるのは、テレビの小さな音と、薬の匂い。
玄関の狭い土間に自転車の鍵を置き、靴を脱ぐ。
2DKの小さな団地だ。
六畳の和室が二つと、狭い台所。
元子は台所の横を通り、奥の部屋をのぞく。
布団が人の形に膨らんでいる。
動かない。
眠っているのかと思った。
かつて作家だった父。
いや、作家を目指していた人。
今は、ほとんど起き上がらない。
体が弱っているわけではない。
心のほうだ。
元子は、もう少しだけふすまを開けた。
机の上には、書きかけの原稿用紙が散らばっている。
びっしりと文字が書かれている。
黒いインク。
整った字。
父の字だ。
元子は何気なくそれを見る。
そして――
少しだけ、首をかしげた。
同じ文字が並んでいる。
――終わり
――終わり
――終わり
同じ文字が、ページいっぱいに並んでいた。
一枚だけじゃない。
その下の紙も。
その下の紙も。
全部。
終わり
終わり
終わり
終わり
終わり
黒い文字がびっしりと並んでいる。
同じ筆跡。
同じ太さ。
同じ間隔。
整然としているのに、どこか狂っている。
元子は眉をひそめた。
「……」
視線を動かす。
ページをめくる。
また同じ。
終わり
終わり
終わり
終わり
終わり
見ているうちに、文字の形が変に見えてくる。
終。
終。
終。
こんな形だったっけ。
終という字は、こんなに歪んでいたか。
縦棒が少し曲がっている。
払いが長い。
どれも同じはずなのに、少しずつ違う。
糸冬。
糸冬。
糸冬。
ただの記号みたいだ。
元子の頭の中で、文字の意味が崩れていく。
黒い虫が紙の上を這っているようにも見える。
元子は思わず視線をそらした。
胸の奥がざわつく。
そのときだった。
――がさ。
小さな音がした。
元子は顔を上げる。
布団が敷いてある。
そこが、わずかに動いた。
――がさ。
布団が、少し持ち上がる。
元子は息を止めた。
暗い布団の影の中から、何かが出てくる。
最初に見えたのは、手だった。
青白い手。
指が畳を掴む。
それから、ゆっくりと腕が出る。
父だった。
父が、布団の中から這い出してきていた。
のそり。
ゆっくり。
まるで、長い間地面の下にいたものが外に出てくるみたいに。
元子は声を出せなかった。
父は顔を上げない。
床を見たまま、這うように前に進む。
畳を擦る音。
ず……ず……
机のところまで来ると、父はやっと立ち上がった。
その動きも遅い。
背骨が一本ずつ伸びていくみたいだった。
元子は、まだ机の前に立っている。
父は元子を見ない。
机の横を通り過ぎて、部屋の隅の棚へ行く。
棚の一番下。
古い段ボール箱。
父はそれを引きずり出した。
ほこりが舞う。
箱を机の上に置く。
ぱさ、と乾いた音。
父はゆっくり蓋を開けた。
中を覗き込む。
しばらく動かない。
父は、箱の中に手を入れる。
そして、何かを取り出した。
黒い。
四角い。
少し厚い。
それを両手で持ったまま、振り向く。
元子の喉が少し鳴った。
父の顔が初めて見えた。
目の下に影。
頬がこけている。
でも、目だけは起きている。
父は元子を見ていた。
じっと。
何も言わない。
数秒。
沈黙。
それから、父は一歩近づいた。
元子の前で止まる。
そして、持っていたものを差し出した。
「……これ」
元子は反射的に受け取った。
重い。
元子は戸惑う。
「……パソコン?」
角が擦れている。
キーボードの文字も少し消えている。
古いノートパソコンだった。
父は小さく頷いた。
「昔……使ってた」
声は低かった。
それだけ言う。
父は視線を外す。
机の原稿用紙を見る。
終わり。
終わり。
終わり。
父はぼそりと言った。
「……おまえに預ける」
元子は言葉が出ない。
父はそれ以上何も言わない。
父は机の前に座る。
父は万年筆を手に取る。
でも。
紙には触れない。
終わり、という文字を見ているだけだった。
「…もう少ししたら、ご飯にするから」
元子はノートパソコンを抱えたまま、自分の部屋へ戻った。
ドアを閉める。
六畳の和室。
畳は少し擦り切れている。
静かだ。
外ではまだ雨が降っている。
机の上にパソコンを置く。
「…使えるのかな……」
コンセントにつなげる。
そして元子は、台所へ戻る。
冷蔵庫を開ける。
安売りのもやし。
卵。
半分残った豆腐。
夕飯は、いつもこんなものだ。
フライパンに火をつけながら、ふと視線を横へ向ける。
棚の上。
小さな写真立てがある。
フライパンに火をつけながら、ふと視線を横へ向ける。
棚の上。
小さな写真立てがある。
仏壇はない。
そんな余裕は、この家にはなかった。
写真の中で、母は笑っていた。
家族四人がそろった祭りの日。
若くて、綺麗で、まぶしい笑顔。
母は昔、アイドルだった、らしい。
けれどその夢をやめて、この家に来た。
父の夢を支えるために。
家庭を守るために。
そして、元子が中学生のとき、病気で死んだ。
「……お母さん」
元子は小さく手を合わせる。
「今日も、私は元気な子だよ」
写真は何も言わない。
台所の火が、静かに揺れる。
──夕飯を作り終え、父に食べさせ、皿を洗う。
時計を見る。
まだやることは残っている。
元子は自分の部屋に入る。
小さな机。
学校の教科書。
そして、バイトのシフト表。
元子は制服のまま座り込む。
今日は学校でも、いいことはなかった。
教室の空気は、いつも冷たい。
机に落書き。
聞こえるような小声。
「団地の子」
「貧乏」
「さえない女」
そんな言葉。
元子は、聞こえないふりをする。
反応すると、余計に面倒になるから。
放課後はすぐにバイトだ。
スーパーの品出し。
重い段ボール。
休憩は短い。
店長は厳しい。
「若いモンはもっと早く動け」
「高校生でも給料は出てるんだぞ」
元子は、ただ「すみません」と言う。
帰りは夜。
坂道を自転車で登る。
毎日、同じ坂。
同じ息切れ。
同じ夜。
元子は机の上のスマホを見る。
古いスマホ。
黒いケース。
母が最後まで使っていたスマホ。
新しいものを買う余裕はない。
だから元子は、それをそのまま使っている。
電池はすぐ減る。
動きも遅い。
でも、元子にとっては大事なものだった。
それだけが、この部屋で少しだけ光っている。
元子は布団の上に倒れ込む。
天井を見上げる。
天上のシミを見続けていると、ふと思う。
これ、本当に現実なのかな。
形がが、少しずつ溶けていく。
「……ゲシュタルト崩壊」
元子は小さく呟く。
「人生で起きるんだね、これ」
苦く笑う。
スマホの画面には、ヒビが走っている。
母の残した、小さな光。
元子はそれを見ながら、目を閉じた。
◇
バイトのない、ある日の夕方。
団地の窓の外では、風が鳴っていた。
元子は布団の上に寝転がり、手の中のスマホを見つめている。
通信料金が頭をよぎる。
このスマホは格安プランだ。
通信量を使いすぎると、すぐに速度制限になる。
それでも、元子は、ゆっくり画面をタップする。
開いたのは、ブックマークの一番上にあるサイトだった。
──小説投稿サイト。
誰でも小説を書いて投稿できる場所。
プロもいれば、学生もいる。
ただの趣味の人もいる。
ランキング。
新着作品。
レビュー。
画面の向こうに、別の世界が広がっていた。
元子は、初めてそのサイトを見た日のことを思い出す。
学校の昼休みだった。
クラスで浮いている元子は、いつも一人でスマホを見ている。
そのとき偶然見つけた。
そして――気づけば、毎日見ていた。
元子は画面をスクロールする。
タイトルが並ぶ。
「転生したら魔王じゃなかった件」
「追放された聖女は隣国で幸せになりません」
「ダンジョン配信で世界最強にはならない」
どの作品にも、星の数。
コメント。
更新日。
読者の熱量。
画面を開けば、物語がある。
誰かが考えた世界。
誰かが作った登場人物。
誰かが紡いだ人生。
ページをめくるたび、元子は別の場所に連れて行かれる。
団地でもない。
学校でもない。
バイト先でもない。
違う世界。
剣と魔法の世界。
宇宙。
未来都市。
恋愛。
そこには、可能性があった。
元子は思う。
すごいな。
この人たち。
どうして、こんな話を思いつくんだろう。
胸が少し熱くなる。
そして、ふと。
思ってしまう。
――自分も。
書いてみたい。
元子は、画面の「作品の作成・編集」というボタンを見る。
タップする。
入力画面が開く。
タイトル。
本文。
白い画面。
カーソルが、静かに点滅している。
元子は、スマホを両手で持つ。
親指を置く。
書けばいい。
たったそれだけだ。
物語を書けばいい。
頭の中には、ぼんやりとしたイメージがある。
寂しい女の子。
古い団地。
青空。
なにかが起こる話。
でも――
指が、動かない。
動こうとすると止まる。
頭の中に、霧がかかる。
言葉が出てこない。
さっきまであったはずのイメージが、遠くに逃げる。
「……あれ」
元子は苦笑する。
「全然、出てこない」
点滅するカーソル。
真っ白な画面。
空っぽ。
まるで、自分を見ているみたいだ。
元子は、投稿画面を閉じる。
代わりにランキングを開く。
そこには、作家の名前が並んでいた。
有名な作品。
メディア化。
アニメ化。
漫画化。
映画化。
累計一億PV。
シリーズ売上三百万部。
コメント欄には、読者の声。
「この作品最高」
「続きが待てない」
「神作」
その中で、ひとつの名前が、やたら目につく。
『ナル・エンド』
ランキングの上位。
ジャンルが違っても、またその名前。
ファンタジーでも。
SFでも。
恋愛でも。
ミステリーでも。
どの作品にも、その名前がある。
レビュー欄には、こんな言葉。
「この作品めちゃくちゃ面白いけど、ナル・エンドには負けるな」
「最近の作家で一番やばいのはナル・エンド」
「表現力がおかしい」
「どうしてこんな発想が出るの?」
「どのジャンル書いてもトップ取るの何なんだ」
元子は、その作品のひとつを開く。
そして、読み始める。
一行目。
それだけで、空気が変わる。
二行目。
光。
音。
匂い。
三行目。
景色が見える。
登場人物の息づかい。
世界が文字から立ち上がる。
元子は気づく。
自分が息を止めていることに。
読み終えたとき、胸がじんわりしていた。
スマホを持つ手が、少し震えている。
「……すごい」
小さく呟く。
これが、物語。
これが、作家。
団地の窓を打つ風が、少し強くなった。
元子は、自分のスマホを見る。
ヒビの入った画面。
現実。
元子は、静かに呟く。
「いいな……」
小さな声。
「書けたら、いいのに」
でも、指は動かない。
言葉は出てこない。
頭の中は、霧。
元子はランキング画面に戻る。
その名前を、もう一度見る。
『ナル・エンド』
元子は、そっと作者ページを開いた。
アイコンは黒い背景に、白い線で描かれた円。
プロフィール文は、短い。
――現在・過去・未来。
――自分を超える作品は存在しない。
驚くほど短い。
元子は思わず瞬きをした。
強気とか、そういうレベルじゃない。
断言。
完全な断言。
プロフィールの続き。
――証明してみせる。
それだけ。
「すごい人だな……」
元子は思わず小さく笑ってしまった。
普通の人なら、こんなこと書けない。
でも、ランキングを見ると納得してしまう。
実際に結果を出している。
レビューの中には、こんな書き込みがあった。
「この人、口は悪いけど実力は本物」
「ナル・エンドは傲慢だけど、傲慢でいていいレベル」
「むしろもっと言ってほしい」
元子はひとつだけあった、活動報告をタップする。
名前の由来:
――物語は必ず終わる。
――ならば、最高の終わりを書けばいい。
――すべての物語の終着点。
――それが NARU END。
そこに、小さく説明があった。
元子は、その文章を何度も読む。
終わり。
物語の終わり。
その言葉が妙に胸に残った。
「……遠いな」
小さく呟く。
本名は公開されていない。
年齢も不明。
経歴も書いていない。
ただ、作品だけ。
それだけでランキングの頂点に立っている。
元子は、さらに別の作品を読もうとする。
そのとき。
「っ」
スマホが震えた。
通知。
バイト先のメッセージ。
元子は一瞬、嫌な予感がした。
画面を開く。
『急で悪いけど今日入れない?』
案の定だった。
元子の顔が曇る。
外を見る。
窓の外。
街灯の光の中で、木の枝が横に流れている。
完全に嵐だ。
元子は返信を打とうとして、止まる。
断りたい。
でも。
次のメッセージが届く。
『この天気だからお客さん少ないと思うし』
『少し色付けるからさ』
色付ける。
つまり、時給を少し上げるという意味。
元子は、父の顔を思い出す。
仕事がうまくいかない父。
酒。
ため息。
テーブルの上の安い惣菜。
生活費。
電気代。
そして、スマホ。
元子は、ゆっくり返信する。
『行きます』
送信。
既読。
『助かる!』
すぐ返信が来た。
元子は小さく息を吐いた。
布団から起き上がる。
着替えている暇はないと思った。
スマホをポケットに入れる。
玄関の前で、ふと足を止める。
振り返る。
棚の上。
小さな写真立て。
そこには母の写真。
元子はその前に立ち、軽く手を合わせる。
「……行ってきます」
小さく言う。
返事はない。
当然だ。
でも、元子はそれでいいと思っている。
靴を履く。
そして、ドアを開けた。
◇◇
元子は自転車を押して歩いていた。
坂道の途中。
住宅街の灯りは、雨ににじんでぼんやりしている。
風が強い。
突風が吹くたび、自転車のハンドルが揺れた。
元子はハンドルを両手で握り、体を前に倒して進む。
制服はすでにびしょ濡れだった。
白いセーラーのシャツは雨を吸い、肌に貼り付いている。
紺のリボンも、重く垂れていた。
短い髪から水滴が落ちる。
眼鏡のレンズにも雨粒がびっしりついていて、視界がぼやける。
元子は袖で拭く。
だがすぐにまた濡れる。
吐く息は白い。
「……寒い」
声が震えた。
本当なら自転車に乗りたい。
だが、この風では危ない。
横殴りの雨。
ハンドルを取られれば、そのまま転びそうだった。
元子は自転車を押しながら、坂を登る。
足が重い。
息が切れる。
そのとき。
遠くで光が走った。
空を裂くような稲妻。
一瞬だけ、夜の街が昼のように白くなる。
そして――
ドォォォンッ!!
轟音。
空気が震える。
元子は思わず肩をすくめた。
「……もう無理!? 帰る!?」
半分泣きそうな声が出る。
坂の途中。
ここで止まるわけにもいかない。
でも、雷はどんどん近づいている。
元子は急いで周囲を見る。
少し先に、大きな木があった。
古い街路樹。
枝が広く張り出している。
元子はそこまで自転車を押して走った。
木の下に入る。
完全ではないが、少しだけ雨が弱まる。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をする。
頬を伝うのが雨なのか汗なのか分からない。
そのときだった。
ポケットの中で、何かが滑った。
「あ――」
次の瞬間。
ぽろっ。
スマホが落ちた。
ぱきっ。
濡れたアスファルトにぶつかる。
小さく、嫌な音がした。
「あ!」
元子の心臓が跳ねる。
慌ててしゃがみ込む。
母の形見のスマホ。
それだけは、壊したくない。
手を伸ばす。
その瞬間だった。
――ドンッ!
空が裂けた。
さっきよりも、はるかに近い雷鳴。
世界が白く染まる。
元子は反射的に目を閉じた。
そして――
バチバチィッ!!
白い光が落ちた。
雷。
それは、元子の足元。
落ちたスマホに、直撃していた。
空気が焼ける匂い。
耳鳴り。
元子はしばらく動けなかった。
やがて、恐る恐る目を開ける。
「……え」
スマホは、そこにあった。
黒い画面。
雷に打たれたはずのスマホ。
なのに、壊れていない。
でも――
画面が、光っている。
淡い、青い光。
元子は震える手で拾い上げる。
普通のホーム画面ではない。
見たことのない画面だった。
黒い背景。
中央に、静かな文字。
《初期起動》
元子はしばらく、その文字を見つめる。
雨音。
風。
遠くの雷。
すべてが、遠く感じる。
「……なにこれ」
小さく呟き、指を置く。
そのとき。
《声紋認証》
声の波紋が画面に広がる。
《指紋認証》
濡れた画面に指の感触が伝わる。
そのとき。
スマホから、かすかな音がした。
電子音でもない。
ノイズでもない。
響くような水の音。
そして。
《――起動確認》
一拍。
《はじめまして、ユーザー》
落ち着いた音声が、静かに言った。
「……なにこれ」
もう一度呟く。
母の形見のスマホから――声が聞こえた。
街路樹の下で、元子はスマホを両手で持ったまま固まっている。
全部いつも通りのはずなのに。
手の中のスマホだけが、現実から少しずれている。
元子はスマホを顔に近づける。
「今、しゃべった?」
一瞬の沈黙。
《はい》
あまりにも普通に返事が返ってきた。
「スマホって……しゃべるの?」
元子の頭が追いつかない。
少し間があった。
《通常のスマートフォンは、会話型AIアシスタントを搭載している場合があります》
「……それじゃないよね?」
元子は震える声で言う。
「だって私、こんなの入れた覚えない」
画面の青い光が少し揺れる。
《その通りです》
《私は、通常のアシスタントではありません》
元子は目を細める。
「……じゃあ何?」
少し沈黙。
まるで、言葉を選んでいるような間。
そして。
《正式名称を表示します》
画面に英語の文字が浮かぶ。
> Harmonic
Interface
Bio-Intelligent
Knowledge
Integration <
元子は瞬きをする。
「……長い」
思わず言ってしまう。
「意味わかんない」
スマホは静かだった。
やがて声が続く。
「略称はHIBIKIです」
元子は、もう一度その文字を見る。
HIBIKI
英語のアルファベット。
でも。
その音は、日本語の言葉に重なる。
元子は、ぽつりと呟く。
「……ヒビキ」
雨音の中。
その言葉は、小さく響いた。
スマホが、わずかに光る。
《その呼称で問題ありません》
元子は少し笑う。
「うん」
スマホを見ながら言う。
「じゃあ、ヒビキでいい」
雷が遠くで鳴った。
元子はふと気づく。
バイトのことを。
「……あ」
スマホの時間を見る。
シフトの時間が迫っていた。
「やば」
元子は慌てて立ち上がる。
自転車を起こす。
ハンドルを握る。
それからスマホを見る。
「ヒビキ」
《はい》
「あとで聞く」
元子は言う。
「いろいろ」
そして自転車にまたがる。
雨の坂道。
ペダルを踏む。
◇◇◇
「…疲れた…」
バイトを終えた元子はため息ついた。
足取りも重く、自転車を押す。
霧のような雨になっているのが唯一の救いで。
《ユーザー常磐元子》
スマホから静かな声が聞こえた。
「な、なんで名前……」
元子は驚いてスマホを見る。
《あなたの思考データから推定しました》
ヒビキは静かに答えた。
「……なにそれ」
元子は完全に意味が分からない。
《あなたは現在、強いストレス環境にあります》
ヒビキは続ける。
《学校》
《労働》
《家庭》
元子の足が止まりそうになる。
ヒビキの声は変わらない。
静かで、落ち着いている。
《そして》
一拍。
《創作への欲求があります》
元子の心臓が止まりかけた。
霧雨の中。
坂道の途中。
元子は立ち止まる。
「……なんで」
声が震える。
「それ……」
言えなかった言葉。
誰にも言ってない。
ヒビキは静かに答えた。
《あなたは先ほど》
《小説投稿サイトを閲覧していました》
元子の胸がどくりと鳴る。
《あなたは》
ヒビキは続ける。
《書きたいと思っています》
《でも》
《言葉が出ない》
《頭に霧がかかる》
元子は何も言えなかった。
「・・・それは・・・」
さっきまでの自分だった。
《それは異常ではありません》
ヒビキは静かに言った。
《多くの人間が経験します》
《原因は》
一拍。
《マインドセットです》
そしてヒビキは言った。
元子は自転車のハンドルを握ったまま、スマホを見つめていた。
ヒビキの言葉がやけに残る。
『マインドセット』
聞いたことのある言葉。
でも、よく知らない。
元子は眼鏡についた雨を拭く。
「……なにそれ」
ヒビキはすぐに答えた。
《人間の思考の枠組みです》
「枠組み?」
《はい》
スマホの画面が静かに光る。
《人間は現実をそのまま認識しているわけではありません》
《思考の型を通して世界を理解します》
元子は眉をひそめる。
「哲学?」
《心理学に近い概念です》
雨がほんの少し強くなる。
元子は街路樹の下に身を置く。
「……よく分かんない」
ヒビキは続けた。
《あなたのマインドセットは現在》
少し間があった。
まるで計算しているような沈黙。
そして。
《固定型です》
元子は苦笑する。
「なにそれ」
ヒビキの声は変わらない。
静かで落ち着いている。
《固定型マインドセットの特徴》
《自分の能力は変わらないと認識する》
《挑戦を避ける》
《失敗を恐れる》
《努力しても無意味だと感じる》
元子の足が止まる。
それは――
あまりにも自分のことだった。
学校。
いじめ。
バイト。
父。
毎日同じ生活。
同じ坂。
同じ疲れ。
その繰り返しの中で。
いつからか思っていた。
どうせ無理だ。
何をしても変わらない。
《しかし》
ヒビキが言う。
《もう一つのマインドセットがあります》
元子は小さく呟く。
「……なに」
《成長型マインドセット》
元子は雨の坂道を見上げる。
ヒビキは続ける。
《能力は変わる》
《努力で改善する》
《挑戦は可能性》
《失敗は学習》
元子は、少しだけ笑った。
「……そんなの」
吐く息が白い。
「きれいごと」
ヒビキは沈黙した。
風が吹く。
木の枝が揺れる。
そして、ヒビキは言った。
《質問します》
元子は黙っている。
《あなたは小説を書きたいですか》
心臓が跳ねる。
元子は何も言えない。
ヒビキは続ける。
《小説投稿サイト》
《ランキング》
《ナル・エンド》
元子の指がハンドルを強く握る。
ヒビキの声は変わらない。
《あなたはその作品を読んで》
《羨望を感じました》
《そして》
《自分も書きたいと思いました》
元子は小さく呟く。
「……でも」
その言葉は弱い。
ヒビキが続ける。
《しかし》
《あなたは作品の作成画面で止まりました》
元子は目を閉じる。
白い画面。
点滅するカーソル。
動かない指。
霧のかかった頭。
ヒビキは言った。
《それは能力ではありません》
《固定型マインドセットです》
元子は雨の中で立ち尽くす。
そして。
ぽつりと言う。
「……無理だよ」
声は小さい。
「ナル・エンドみたいな人がいるんだよ」
「天才」
「ランキング一位」
「どのジャンルでもトップ」
元子は笑う。
自嘲。
「勝てるわけない」
ヒビキはすぐ答えた。
《目的が違います》
元子は眉をひそめる。
「……え?」
ヒビキは言った。
《あなたはナル・エンドに勝つ必要はありません》
雨が強くなる。
元子は坂道を見つめる。
ヒビキの声。
静か。
でも。
どこか温度がある。
《あなたが書く理由は》
一拍。
雷が遠くで鳴る。
そしてヒビキは言った。
《世界を変えるためではありません》
《あなた自身の認識を変えるためです》
元子は、動けなかった。
坂道。
雨。
暗い夜。
その中で。
ヒビキは最後に言った。
《元子》
元子は顔を上げる。
《あなたの世界は現在》
《灰色です》
《しかし》
スマホの画面が淡く光る。
《認識が変われば》
《世界は変わります》
元子は小さく呟く。
「……そんな簡単に?」
ヒビキは答えた。
《はい》
そして。
《そのための第一歩が》
元子の胸が高鳴る。
ヒビキは言った。
《物語を書くことです》
雨の夜。
坂道の途中。
元子の世界は。
ほんの少しだけ。
動き始めていた。
◇◇◇◇
雨は、まだ止まない。
坂道の途中で、元子はしばらく動けずにいた。
自転車のハンドルを握ったまま、スマホを見つめている。
画面は静かに光っていた。
ヒビキの声が、頭の奥に残る。
『物語を書くことです』
元子は小さく笑った。
「……そんな簡単じゃないよ」
息が白くなる。
「さっきやったもん」
ヒビキは沈黙している。
元子は続けた。
「投稿画面」
「真っ白」
「何も出てこない」
「頭に霧がかかる」
元子は坂の上を見上げる。
暗い空。
雨。
街灯の光。
全部、ぼやけている。
「書きたいとは思ったよ」
ぽつりと言う。
「でも」
言葉が続かない。
その代わりに出てきたのは、苦笑だった。
「……私の人生」
元子は言う。
「面白くないもん」
ヒビキは静かに答えた。
《それは誤認識です》
元子は目を細める。
「え?」
ヒビキは続ける。
《あなたは現在》
《学校で孤立》
《労働環境が厳しいバイト》
《家庭問題》
元子は顔をしかめる。
「やめて」
ヒビキは止まらない。
《そして》
《雨の坂道》
《雷》
《スマートフォンに落雷》
元子は、少しだけ呆れる。
「それはさっき起きたでしょ」
ヒビキは言った。
《つまり》
一拍。
《物語です》
元子は黙る。
雨の音だけが続く。
ヒビキは続ける。
《人間は》
《自分の人生を物語として認識しません》
《しかし第三者が見ると》
《多くの場合、物語構造があります》
元子はぼそりと言う。
「……そんなの」
ヒビキが答える。
《あなたの人生の現在地点》
《主人公》
《困難》
《転機》
《謎の存在》
元子はスマホを見る。
「謎の存在……それって」
ヒビキは言う。
《私です》
元子は思わず吹き出した。
雨の中で。
くすっと笑う。
「なにそれ」
ヒビキは真面目に続ける。
《つまり》
《物語はすでに始まっています》
元子はしばらく黙る。
それから言う。
「……でも」
ヒビキはすぐ答える。
《ナル・エンド》
元子は少し驚く。
「……またそれ?」
ヒビキは言った。
《あなたは彼を恐れています》
元子は否定しない。
「……だって」
ランキング。
レビュー。
圧倒的な文章。
元子は言う。
「天才だよ」
「文章も」
「発想も」
「全部」
ヒビキは静かに言った。
《彼のマインドセットは》
《反発型です》
元子は首をかしげる。
「反発?」
《はい》
ヒビキは続ける。
《世界に対する怒り》
《社会への否定》
《他者への優越》
《それが原動力です》
元子はぽつりと言う。
「……強いね」
ヒビキは答えた。
《はい》
《非常に強力な動機です》
雨が少し弱くなる。
坂道の街灯が揺れる。
ヒビキは続ける。
《しかし》
一拍。
《あなたの原動力は別です》
元子は黙る。
ヒビキが言う。
《あなたは》
《誰かに勝ちたいのではありません》
元子の胸が少しだけ痛む。
ヒビキは続ける。
《あなたは》
《苦しい理由を知りたい》
《世界を理解したい》
《そして》
静かな声。
《誰かを少しだけ助けたい》
元子は何も言えなかった。
雨が、ゆっくりと落ちる。
坂道。
夜。
その中で。
元子は小さく呟く。
「……そんな大した人じゃないよ」
ヒビキはすぐ答えた。
《大した人である必要はありません》
《物語を書く条件は》
一拍。
《人間であることだけです》
元子は、少し笑った。
そして。
自転車にまたがる。
ペダルに足を乗せる。
坂道を見上げる。
長い坂。
毎日登る坂。
でも。
少しだけ違って見えた。
元子はゆっくりペダルを踏む。
自転車が動く。
雨の坂道を登りながら。
元子はぽつりと言う。
「……ヒビキ」
《はい》
「私」
少し考える。
それから言った。
「書けるかな」
ヒビキは迷わず答えた。
《はい》
そして。
《最初の一行を書けば》
《物語は始まります》
坂道の上に、街の灯りが見えた。
元子は少しだけ笑う。
「……じゃあ」
息を吸う。
雨の夜。
坂道の途中。
常磐元子は言った。
「帰ったら」
「書いてみる」
ヒビキの声が静かに響く。
《了解しました》
その夜。
坂道を登る少女の世界は。
ほんの少しだけ。
色を持ち始めていた。
(これが始まり)




