歌池 聡さまのゲシュタセット
『ゲシュタルト崩壊──明智光秀のケース』
明智光秀は困惑していた。主君・織田信長からの密命が、目を疑うようなものだったからだ。
『(羽柴)秀吉の毛利攻めに加勢するふりをして丹波(京の北東)に兵を集めよ。
自分が饗応の名目で徳川家康を京に呼び寄せるので、これを討て』
あれほど永年同盟関係を続け、しかも一度も裏切ることのなかった三河守(徳川家康)殿を討て、だと?
いったい上様は、何を考えておられるのだ?
このところの織田信長は、松永久秀・荒木村重と立て続けに家臣に裏切られ、ひどく疑心暗鬼になっていた。
もともとパワハラ気質でもあった上に、常に疑念の目で家臣を見続け、ささいなことでひどく叱責する。──やられる方の家臣としてはたまったものではない。
先日は光秀も、徳川家を饗応する席の差配を任されていたのだが、魚の鮮度が悪いとのことで信長に散々になじられ、殴る蹴るの暴行を受けた上に、饗応役を外されてしまったのだ。
いや、今になって思うと、今回の密命の実行役として白羽の矢が立ち、そちらに備えさせるためにあえて饗応役から外す芝居だったのかもしれない。それならそれで、前もって言ってくれても良いと思うのだが。
しかし、今回の密命は異常だ。三河守殿には何の落度もない。それを騙し討ちにするというのは信義にもとる卑劣な行いだ。
確かに、今の織田家は巨大に膨れ上がった。このまま秀吉が毛利を下せば、更に大きくなる。その中で東海道の三国を治める徳川家は、同盟国としてはあまりに小さい。かと言って、独立不羈の気風の強い徳川家が、自ら織田に臣下の礼をとることはあるまい。
同盟国のままであるより、いっそ潰してしまった方が扱いやすいというのはわからなくもないのだが。
これまで織田家の家臣の大半は、結果を出せば必ず認められるということを信じて必死に働いてきた。いわば『成長型のマインドセット』で、その最大の根拠が羽柴秀吉の出世ぶりだ。
百姓上りの秀吉でさえも、今では毛利攻めの総大将を任せられるほどになったのだ。これこそが、織田家が実力主義である何よりの証ではないか。
――だが、最近はその前提が崩れようとしている。先年、信長は突然、古くからの重臣たちを追放したのだ。
佐久間信盛は古くからの家老で、織田家中でも最大の軍勢を任されていたのだが、本願寺との戦に10年もかかったことを『怠慢』だとなじられ、息子ともども放逐された。
林秀貞など、20年以上も前に信長の弟に従って叛旗を翻したことを今さら蒸し返されてしまったのだ。
どれほど頑張ったとしても、ささいなことや大昔のことが原因で、全てが台無しになってしまうのではないか。
今の織田家中には、そんな『負のマインドセット』が蔓延しつつあったのだ。
光秀は考える。たとえ今回、密命に従って徳川を討ったとして、それでいいのだろうか。
いつか、『もっとも信頼する同盟相手を勝手に討った』ことを口実に、自分も佐久間や林のように切り捨てられるのではないか?
──いや、そんなはずはない。かつて自分が天王寺砦で窮地に陥った時、上様は我が身の危険も顧みず、小勢で救援に駆けつけてくれたではないか! それほど重用されてきた自負はある。
──だが本当にそうなのか。あの饗応の時の叱責は異常なほどだった。もしあれが、『光秀は家康のために恥をかかされたと家康を恨んでいた』という理由付けのための芝居だったとしたら──。
考えれば考えるほどわからなくなってくる。
これまで織田家のため、信長の唱える『天下布武』のためと身を粉にして働いてきたが、本当にそれでよかったのだろうか。
これまでに行ってきたことのあれこれが脳裏にぐるぐると浮かんでは消え、それがだんだん繋がりのないバラバラの事象に思えてきてならない。
足利家を見限って織田家についたこと。
朝倉との撤退戦。
比叡山の焼き討ち。
本願寺との泥仕合。
織田家のために必死で働いてきた。
織田家のため、上様のため。
織田家。織田家。
オダケノタメオダケオダケ──。
これまで何のために働いてきたのか、それに何の意味があったのか、それがだんだんわからなくなっていく。
そう、光秀はこの時、今でいう『ゲシュタルト崩壊』を起こしていたのだ。
「──殿、大丈夫でございますか? お顔が優れぬようですが……」
並んで馬を進めていた家臣が、心配して声をかけてくる。その声に光秀ははっと気を取り直して──その瞬間に答えを見つけたような気がした。
──何だ、簡単なことじゃないか。
自分や秀吉が、上様とともに作り上げてきた織田家が、今まさに内側から崩れようとしている。
ならば──崩壊させようとしているその元凶を取り除いてしまえばいいのだ。
今の自分になら可能だ。三河守殿を油断させるために、その元凶は小勢で京の本能寺にいる。そして、自分の手元には充分な兵がいるではないか!
せっかく築き上げてきた織田家の崩壊を防ぐために──自分はその元凶を排除せねばならんのだ!
「皆の者、よく聞け!」
光秀は馬の首を回し、後ろに従ってくる兵たちに向かって声を張り上げた。
「我らの目的は徳川殿を討つことにあらず! 敵は──本能寺にあり!」
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光秀さんのしゅんぱつりょーく٩( 'ω' )و




