菱屋千里さまのゲシュタセット
毎朝同じ道を歩いている。駅まで十一分。信号が二つ。パン屋があり、コンビニがあり、角を曲がると銀杏の並木がある。この道を五年間歩いてきた。千二百回以上。もう景色など見ていない。目は開いている。けれど何も見ていない。昨日と同じだから。変わっていないものは、見る必要がないから。
区役所で窓口をやっている。住民票を出し、転入届を受け取り、戸籍の写しを発行する。来る人が違うだけで、やることは同じだった。三十四年生きてきて、いま自分が何を感じているかと問われたら、たぶん何も答えられない。退屈、という言葉が一番近いのかもしれないが、その退屈にすらもう退屈していた。
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水曜日の午後、窓口に女性が来た。転入届の用紙を持っていたが、書き方がわからないという。記入の仕方を説明する。女性はうなずいて書き始めた。氏名、転入前の住所、転入先の住所。新しい住所の欄で、ペンが止まった。
女性はスマートフォンを取り出して画面を確認し、それから一文字ずつ番地を書き込んだ。まだ自分の住所を覚えていない。当たり前のことだ。転入届を出しに来る人は全員、引っ越したばかりの人だ。五年間、何百人もそうだったはずだ。その指先はぎこちなかった。
「お預かりします」
いつもと同じ声だった。女性は用紙を置いて席を立った。次の番号を呼ぶ。午後はまだ長い。
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翌朝、いつもの道を歩いていた。パン屋の前。一つ目の信号の手前で止まる。
パン屋の隣の壁に、青い鳥が描かれていた。スプレーの絵。翼を広げた単純な線。昨日はなかった。たぶん。いや、本当になかっただろうか。毎日この壁の前を通っているはずなのに、昨日の壁がどんなだったか思い出せない。あったのに気づかなかったのか、なかったから気づかなかったのか。
しばらく青い鳥を見つめてから、また歩き始めた。
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金曜日の朝、いつもの道。青い鳥がまだ頭に残っていて、なんとなく壁や看板に目がいく。
パン屋の看板は緑色だと思っていた。五年間ずっとそう思っていた。よく見ると深緑と黄緑のツートンカラーだった。コンビニの向かいに小さな花壇がある。知らなかった。「いつもの景色」に埋もれて、見えていなかったのだろう。
銀杏の並木にたどり着いたとき、足が止まった。
並木道の途中に、一本だけ印象が違う銀杏が混じっていた。少しだけ背が高く、わずかに葉が大きい。
黄色い葉の向こうに別の銀杏が見える。その瞬間、並木が、並木に見えなくなった。一本一本が別の木だった。当たり前のことだ。けれどそれまでは「銀杏の並木」というひとかたまりの風景であって、一本一本を見たことがなかった。五年間、一度も。
ゲシュタルト崩壊、という言葉が浮かんだ。漢字をじっと見つめていると、まとまりが崩れて線の集まりに見えてくる現象。今崩れているのは漢字ではない。自分のものの見方だ。
そういえば、最初の一年は毎日が新しかった。利用者の一人一人が気になった。二年目にはパターンが見えるようになり、三年目に全体が見えるようになった。「利用者」という塊が完成したとき、一人一人の顔が消えた。仕事だけじゃない。この道も、この街も、毎日も、こういうものだと思い込んで、そのつもりで過ごしてきた。自分のマインドセット。それは眼鏡のようなもので、自分では見えない。
でも、その眼鏡に気づいてしまった。転入届は「ただの書類」ではなくなり、壁は「ただの壁」ではなくなった。
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月曜日の朝。
パン屋のツートンカラーの看板が見える。壁の青い鳥。花壇の花は先週より少し枯れ始めていた。信号の手前で、見知らぬ人が犬を散歩させている。ビーグルだった。右の前足を少しかばって歩いている。
駅が見えてきた。壁のタイルの色が微妙に三種類あることに気づいて、小さく笑ってしまった。
世界はたぶん、最初からこうだった。
私も『尋』という漢字が『ヨエロスン』に見える時がありますm(_ _)m
自分が書いた『岐阜』という文字が読めなかったこともあります(/_;)




