第二章 出立(三)
ハリマまであと少し。あと、ほんの少しだったのに!
濃霧に包まれた船上で、イサセリの心臓は激しく鼓動していた。
「落ち着け!」
同じ言葉を繰り返すうちに、喉が枯れてくる。高波が船を襲うたび、海水が口の中に流れ込み、痛めた喉を刺激した。
船床に溜まった海水を手で掻き出しながら、イサセリは辺りを見回す。白い。隣の船どころか自船の先頭さえ見通せないほどの濃霧が、イサセリたちを襲っていた。
それだけではない。
「カチツキ! しっかりしろ!」
ワカタケの悲痛な声が船上に響く。
最年少のカチツキの腹には、深々と矢が刺さっていた。濃霧が発生してまもなく、無数の矢がイサセリたちを襲ったのだ。カチツキの麻の上衣に、赤い染みが広がっていく。まだ意識はあるものの、時間の問題だった。
濃い霧。叫び声。矢の音。突然の異常事態に、船上は殺気立った空気に包まれた。
兵たちはすでに臨戦体制に入っていた。イサセリも靭を背負い、弓を手元に置いた。しかし矢はつがえない。むしろ、弓を構えた兵たちを必死に制していた。この濃霧と高波では、放ったところで味方に当たってしまう可能性が高いからだ。カチツキに刺さった矢さえ、誰が放ったものかわからない。襲撃がぴたりと止んだことも不気味だった。
イサセリは叫んだ。
「落ち着け! 身を伏せて、櫂を盾にするんだ!」
仲間を襲われた兵たちは我を忘れていた。イサセリの声が聞こえていないのか、そもそも聞く気がないのか。血走った目で、見えない敵を探し続けている。
「ワカタケ!」
イサセリが叫ぶと、カチツキを支えるワカタケが顔を上げた。視線が交差する。「お前が言え」と声なく伝えた。伝わったらしい。ワカタケは何かを呑みこむように顔をしかめた後、兵たちに屈むよう指示を出した。それでも従わない者は、力づくで袖を掴んで座らせた。
「海人よ!」
イサセリは船の先頭にいた舵取りに呼びかけた。彼は頭を抱え、しゃがみ込んでいた。
「聞こえているか!」
再度叫ぶと、海人は震えた声で「はい」と返事をした。
「この状況について何か知っているか」
「し、知りませぬ」
海人は激しく首を振った。
「このまま進めばアカシの狭戸に流される。そうだな」
「わ、わかりませぬ」
このままでは埒が明かないと思ったイサセリは、海人を怯えさせぬよう慎重に言葉を選び、努めて穏やかな声音で話しかけた。
「私は怒っているのではない。矢については不測の事態だろうが、濃霧はままあることであろう。自然を相手にしているのだ。お前たち海人を責めたりはしない。ともにこの状況を切り抜けよう。そなたの知恵を貸してくれ」
しかし、海人の答えは変わらない。
「わ、わかりませぬ」
「わからぬとはどういうことだ。何がわからないのだ」
海人は口を閉ざす。
「答えよ」
「……海のことなどわからぬのです」
「なぜだ?」
「あっしは海人ではありませぬ」
イサセリは自分の耳を疑った。
次の瞬間、船が大きく揺れ、水しぶきと衝撃音が濃霧を切り裂いた。
船底からうめき声が漏れた。体勢を整えたイサセリが船首を見やると、兵二人が海人――いや、海人もどきを組み伏せていた。顔面を船底に溜まった海水に沈められた海人もどきは、逃れようと激しくもがいた。
「どういうことだ」ワカタケが低い声で問いかけた。
押さえつけられた海人もどきは、うめき声しか発せなかった。兵二人は海人もどきの肩口を引っ張り、起き上がらせた。海人もどきの鼻からは血が流れ、顔は情けなく歪んでいた。ワカタケと目が合った海人もどきは、ひっ、と喉を引き攣らせた。
イサセリは腑に落ちない思いで尋ねた。
「私からも聞こう。お前が海人でないとはどういうことだ。お前は何者だ」
海人もどきは声を震わせながら弁明した。
「あ、あっしはただ手伝っただけで、こんなことになるなんて! あっし、あっしだって被害者なんです! 助けてくだ……ひっ!」
ワカタケの鉄剣の先が寸分の狂いもなく、海人もどきの首に触れる。
「自己保身をしている間に、人が一人死んだぞ」
まさか。
イサセリは急いで視線をカチツキに移した。息絶えていた。苦痛で歪んでいた幼い顔は力なく、目元には一筋の涙が凍りついていた。
ワカタケは雷雨の前の山のように静かな声で続けた。
「お前が話さぬなら、家族も皆殺しだ」
イサセリに背を向けるワカタケの表情はわからなかったが、海人もどきの顔ははっきりと見えた。恐怖の中にも、かすかな余裕が浮かんでいた。家族の居場所など知るはずもないと、その目は主張していた。
しかし、ワカタケの方が上手であった。
「お前はどこの出だ。ハリマか……アカシか……タンバか……タジマか」
海人もどきの表情が変わった。
「タジマか」
ワカタケの声に勝利の色が混じった。
「では、タジマの里を順に焼いていこう。逃げ惑う男も女も、子どもも年寄りも、みな捕らえて腹に矢を射ろう。苦しむだろうな。苦しみ、そしてお前を恨み――」
「や、やめてくれ!」
海人もどきの声が裏返った。泣いていた。家族の姿を想像したのかもしれない。
「話しますから、どうか家族だけは……」
観念した海人もどきは、訥々と素性を語り始めた。もともとタジマで田畑を耕していたこと。川が氾濫し、その地に住めなくなったこと。出稼ぎとして、海人たちの荷運びを手伝っていたこと。
「か、舵取りは今回が初めてなんです。サヌキまでは荷運びとして同行してたんですが、舵取りを引き受ければ礼を増やすと言われて……。川船なら扱ったことがあったんで、他の船について行くだけなら大丈夫だと思ったんです」
黙り込むワカタケに代わり、イサセリが問いかけた。
「提案してきた者は誰だ?」
「海人たちの統率者です。大王様の船に乗ってた……」
これには海人もどきを押さえる兵の一人が反論した。
「彼はサヌキへ行く際も我々を先導した信用に足る人物です」
「彼の素性は?」
「アズキ島を拠点とする海人だと聞いております。この船も彼が手配したものです。船は海人にとって命に次ぐ大切なもの。それを一介の荷運びに任せるでしょうか」
船作りには最低でも半月は必要だ。今乗っているような大型船ならば、その倍以上の時間がかかるだろう。ネホコから船の大切さを教わっていたイサセリは、兵の言葉の方が信用できる気がした。
海人もどきは「本当です。本当なんです」と泣き出しそうな形相で繰り返している。これ以上脅したところで何も情報は得られないと察したのか、ワカタケは鉄剣を鞘に収めた。
海人もどきは本当のことを言っているのだろうか。彼の正体は確かに怪しい。だが、矢は外から放たれたのだ。やはり、海人たちの統率者が犯人なのか。だとすれば、同船した大王は――?
イサセリは迷った。そのわずかな時間が致命的だった。
獣のような咆哮が上がった。海人もどきからだった。会話に気を取られ、兵たちの拘束が緩んでいたらしい。身を捩った海人もどきは跳ね起き、船尾へと駆け上った。慌てて兵二人が追いすがる。
そこへ高波が襲った。
兵二人が船上から消えた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。頬に海水が飛んできて意識を戻したイサセリは、慌てて横板に縋りついた。周囲を見回したが、濃霧の壁に阻まれ、兵の姿を捉えることはできなかった。イサセリの胸が大きく鳴った。亡き妻の面影が脳裏を過り、思わず首飾りの勾玉を握りしめる。
「おやめください!」
兵の叫び声が響いた。背の低い兵がワカタケの腰に縋りついていた。飛び込もうとするワカタケを死に物狂いで止めているのだ。
残る背の高い兵は、海人もどきへと詰め寄っていた。
「近づくな!」
海人もどきは波にさらわれた兵の銅剣を手に威嚇していた。剣が無秩序に振り回されるため、背の高い兵は一歩も近づけずにいた。
「あんたら、あっしを信じねえんだろ。どうせ生かす気なんかねえんだろ。そんなら道連れにしてやる。家族には手を出させねえ。みんなまとめて黄泉国へ送ってやる!」
追い詰められた海人もどきは、手負いの獣のように目を血走らせていた。
イサセリは弓に矢をつがえて引絞った。矢筋にはワカタケと二人の兵、その向こうに海人もどきの姿が重なっていた。「しゃがめ」と叫んでも、この混乱の中で指示が通るとは思えない。揺れる船上での射撃は不確かだった。そして何より……イサセリはまだ人を射たことがなかった。手が震えた。獣ならば何百も命を奪ってきたのに、なぜ人となると、ためらうのか。
膠着状態が続く。
射らなければ。これ以上、仲間を失う前に私がこの指を動かさなければならないのに。歯噛みするイサセリは、ハッとした。ワカタケの腕がこちらに伸びていた。弓矢を奪われたと気づいた時には矢音が響き、カンカン石の鏃が海人もどきの胸を貫いていた。
矢の衝撃で後ろへ弾かれた海人もどきが霧の中へと消えていく。高く跳ね上がった水飛沫が雨のようにイサセリに降り注いだ。
「ワカタケ……」
イサセリは後ろ手に渡された弓を、震える手で受け取った。弟にさせてしまった。自責の念がイサセリの胸を締め付けた。未熟な自分とは違い、ワカタケはすでに統率者としての資質を持っていた。
「大王の安否を確認する」
ワカタケは残った兵二人に櫂を持つよう命じ、自らも一本を手にした。
いつの間にか、周囲から人々の気配が消えていた。戦闘の音どころか、櫂の音すら聞こえてこない。
イサセリは眉をひそめた。
「他の船はどこへ行ったんだ? 濃霧のせいで見えないだけか、それとも……」
ワカタケも険しい顔で周囲を見回していた。
「まさか、俺たちだけ置いていかれたわけではあるまい」
船団とは別の方向へ流されてしまったのか、あるいは他の者たちは、すでに海神の招きに応じてしまった
のか……。イサセリはぶるりと身を震わしたが、今は怯えている場合ではなかった。唇を強く噛むと、口内に血の味が広がった。
イサセリは、船底に落ちていた櫂を拾い上げた。
「私も漕ぐ」
反対されるかと思ったが、ワカタケは自分の横を指差した。
竹筒を水面に浮かべ潮の流れを確かめた後、四人は漕ぎはじめた。荒れ狂う波の中で人の力がどれほど意味を持つのかわからなかったが、手を動かさずにはいられなかった。干潮の時間になれば、北東へ流れる潮流が反転する。そうなれば船はサヌキへと流され、これまでの数日の航海が水泡に帰す。なんとしても、下げ潮の間にどこかの岸へ辿り着かねばならなかった。
出港時の勇ましい掛け声は、もはや遠い記憶となっていた。四人は無言で櫂を動かし続けた。それでも不思議なほどに息が合った。
生への執着と、不確かな未来に対する猛烈な不安とが、四人を繋いでいた。




