第二章 出立(一)
澄んだ秋空の下、モモソヒメと祝たちによる出航清祓の神事が終わりを告げた。
清められた船に次々と荷が運び込まれていく。船は一本の丸太をくり抜いて作られた丸木舟だ。側面に板を立てることで囲いを設けており、波よけの工夫が見て取れる。効率よく波を切るためか、船首と船尾は斜めに反り立っていた。大小十数艘の船が海に浮かぶ様は壮観だった。
「イサセリ様」
呼ばれて振り向くと、スマが立っていた。彼の後ろには里人たちの姿もあった。
「見送りはいいと言ったのに」
潮の都合で出発は昼前となっていた。ただでさえ田畑の仕事に忙しい時期である。昨夜の宴で別れを済ませたはずなのに、一人も欠けることなく浜に集まっていた。
「そうはいきません。今生の別れかもしれませんからな」
スマは大きく笑った。冗談めかしに言っているが、本当にそうなるかもしれない。目的はあれど、手がかりは何一つない旅なのだ。数ヶ月で終わるかもしれないし、何年もかかるかもしれない。可能性は後者の方が高かった。
「そうだ。最後に、娘の腹を撫でてやってくれませんか」
スマは後ろに控えていた娘をイサセリの前に差し出した。ここしばらく床に伏せていた身重の女だった。
「出てきて大丈夫なのか」
「ええ」
娘は膨らんだ自分の腹をやさしく撫でた。
「今日は体調もよく。きっとこの子もイサセリ様をお見送りしたかったのです」
「いいのか」
「ぜひ」
イサセリは娘の腹にそっと手を当てた。あたたかい。子は貴重だ。成人を迎えられる子はもっと――。
「元気に生まれ、元気に育て。家族を大切にするのだぞ」
「ありがとうございます」
娘の目に涙が浮かび、スマも片手で顔を覆った。
イサセリも目頭が熱くなったが、ぐっと堪えた。ここから過酷な旅がはじまるのだ。泣いている場合ではない。
「今までのこと、心より礼を言う。行ってくる」
里人たち一人一人と目を合わせてから、イサセリは波打ち際に近づいた。足が重い。一歩踏み出すごとに、これまで過ごした安らかな日々から遠ざかっていく気がした。潮の香りが強まり、頭上では海鳥がかすれた声で鳴いていた。その鳴き声が、なぜか別れの歌のように聞こえる。
後ろを向けば、里人たちの顔が見えた。スマの優しい笑顔、身重の娘の涙、子どもたちの手を振る姿。身分ばかり高く、ろくに労働力になれなかった自分を、快く受け入れてくれた人たちである。この人たちのためになるならば。そう自分に言い聞かせて、イサセリは前に進んだ。
兵に促されて船に近づくと、そばにワカタケが立っていた。イサセリが近づくと、太い眉をひそめ、あからさまに顔を背けてみせる。
わかりやすいやつだ。イサセリは苦く思いながらも、平静を装った。ハリマまでの短い付き合いなのだから、少しの間我慢すればいい。
出発までの半月の間、同じ里にいたにもかかわらず、イサセリとワカタケはあれ以来、一度も会話を交わすことはなかった。お互い旅の支度で忙しかったし、ワカタケがイサセリを避けていたことも原因だった。兄弟の不仲は、今や里中の人々の知るところとなっていた。だから、「お二人はこちらの船にお乗りください」と兵が告げた時、イサセリは耳を疑った。
「他の船ではならないのか」
イサセリが問うと、兵は申し訳なさそうに頭を振った。
「王子様が乗船可能な船はこちらのみにございます。他の船は小さく、乗る者全員が漕ぎ手とならねばなりません」
「漕いでもかまわない」
「そういうわけにはいきません」
強く否定され、イサセリはため息をついた。自分を嫌っている相手と何時間も身を寄せねばならぬとは……。苦行だと思ったが、わがままを言って兵を困らすわけにもいかない。イサセリは覚悟を決めた。
蓑笠を脱ぎ、背負っていた靭を下ろすと、竹矢同士がぶつかって音を立てた。弓とともに兵に預ける。肩の麻袋も預けるよう言われたが、これだけは足元に置かせてほしいと伝えた。里人が作ってくれた握り飯などを、好きな時に食べられるようにするためだと伝えたら納得してくれた。
いよいよ船に乗り込む。イサセリは潮風を深く吸い込んだ。塩味が口内に広がり、先の見えない旅への不安と、虚弱な体のせいで諦めていたはずの冒険に対する憧憬とが、腹に落ちていった。
息込んだイサセリは桟橋から片足を出した。しかし、波に揺れる船が不安定で次の一歩が踏み出せない。結局、兵二人に支えられながらなんとか船上に立ち、すぐに筵の上に座り込んだ。
その様子を見ていたワカタケが鼻で笑った。お前はどうなのだとイサセリは睨んだが、なんのその。ワカタケは誰の手も借りずひょいと軽やかに船に乗り込み、イサセリの前に座った。その動作の滑らかさに、イサセリは自分との差を痛感せずにいられなかった。わずかに振り返ったワカタケの目には相変わらず軽蔑の色が浮かんでいた。
船には二人の他に、舵取りの海人一人と、兵五人が乗り込んだ。漕ぎ手六人でワカタケとイサセリを囲むような配置だ。狭い船内。イサセリは膝を抱えるようにして座らざるを得なかった。窮屈な体勢と予想以上の揺れに、早くも心が折れかけた。
それでも、行かねばならないのだ。
浜を振り返ると、里人たちと目が合った。一人が「お元気で!」と声をあげると、それが幾重にも重なり、老若男女による大合唱となった。里人たちの中にはモモソヒメの姿もあった。モモソヒメは何も言わず、ただ一回だけ頷いた。イサセリも頷き返した。すでに別れの言葉は交わしていた。あとは、使命を果たすのみだった。
海人の統率者が長く伸びやかな声を上げると、各船の舵取りが漕ぎ手に指示を出した。一斉に櫂が水中に入り、水飛沫がイサセリの頬に跳ねる。統率者の短く太い声を合図に、漕ぎ手は雄叫びを上げ、櫂で波を打ちはじめた。船は一艘、また一艘と港を離れていった。
ついに、イサセリは旅立った。




