第一章 神託(四)
深夜、囁くような女の声でイサセリは目を覚ました。
上体を起こして入口に視線を送る。竹簾が上げられ、誰かがこちらを覗いていた。逆光で顔が見えなかった。「誰だ」と問うと、聞き覚えのある宮女の名が返ってきた。イサセリが邸に住んでいたころからモモソヒメに仕えている顔馴染みだった。
「巫女様がお呼びです」
宮女の後に続き、邸へと足を向けた。里はすっかり寝静まっていた。梟の鳴き声が山から聞こえてくるばかりである。空を見上げると、丸い月はすでに西へ傾きかけていた。
邸内に入る前に草鞋を脱ぎ、宮女に渡された湿った布で手足を拭く。床板に足を踏み出した瞬間、軋む音が響き、イサセリは思わず息を呑んだ。
邸内には深い静寂が満ちていた。里長やその部下たちも、酒宴のあと早々に眠りについたらしい。昨夜は徹夜で祭祀を行っていたのだから無理もない。イサセリは込み上げてきたあくびを噛みころした。
二階に上がると、部屋の中央に八角形の壁造りの建物が佇んでいた。モモソヒメしか入ることを許されていない祭壇だ。八角形の一辺のみ、壁の代わりに茜染の絹がかけられている。内側は見えなかったものの、人の気配が漂っていた。
「巫女様。お連れいたしました」
宮女が告げると、茜染の絹が揺れた。長い指が二本、続いてモモソヒメの顔が薄闇に浮かんだ。
モモソヒメは宮女を一階へ下がらせると、静かに間戸へと歩み寄り、竹簾を持ち上げた。青白い月明かりが邸内を幻想的に照らし出す。
間戸の前に座ったモモソヒメに手招きをされ、イサセリは彼女の横に腰を降ろした。熱を残した晩夏の風が頬を撫でる。
「夜更けにごめんね。朝から疲れたでしょう」
「いえ、姉上もお疲れでは」
「あら、居明かすことができぬ巫女はいないのよ」
モモソヒメの唇に無邪気な笑みが浮かんだ。だが、その表情はすぐに引き締まった。
「これからのことが決まったわ。朝になったら大王から話があるだろうけれど、私の口から伝えたくてね」
モモソヒメの視線につられて、イサセリは間戸の外に顔を向けた。二階からは遠くの浜まで一望できた。港の篝火が、黒い木々の影とともに揺れている。月明かりが反射した海面は、白く輝いていた。
私はこれから、あの海へ出るのだろうか。
「出発は半月後、月無しの夜が明けてからになるわ。里長たちは明日には旅立つそうだけれど、大王一行はイサセリと同じ日に出るそうよ。アワジを経由してハリマへ。ハリマで大王とは別れるけれど、兵を九人分け与えてくださるって」
「行かないという選択肢はありますか」
「ないわ」
躊躇いのない即答だった。
「わかっているでしょう」
もちろんわかっていた。巫女であるモモソヒメが、大神の意に反することを許すはずがない。
「……朝、ワカタケに言われました。おまえは何ができるのだと。足を引っ張るだけだから辞退しろと」
「あらまあ。ワカタケったらすっかり口が達者になったのね。二人、仲が良かったのにね」
「え?」
「覚えていないの? ヤマトにいた頃は二人で遊んでいたじゃない。もっとも、あなたはよく熱を出して寝込んでいたけれど。そんな日はワカタケが野花を摘んできて枕元に置いたりして。母は違えど、双子のように見えていたわよ」
イサセリは眉を寄せ、遠い記憶を探った。
まったく記憶になかった。イサセリが覚えているのは、大王とともに一足早くヤマトを旅立ったワカタケの姿だった。大人の腰ほどの身丈しかないのに、彼らに混じって真っ直ぐ立っていた姿が印象的だった。帯には青銅製の小刀が差してあって、物心つく前から剣が好きだったワカタケらしい。……そういえば、ワカタケが剣ばかり触りたがったことを覚えている。ワカタケと遊んだ記憶が蘇ったわけではないけれど、好みを知るくらいには仲が良かったのかもしれない。
しかし、それは昔のことだ。
「今ではすっかり嫌われているようですよ」
「それはまだわからないでしょう」
あれほどの蔑みを向けられて、好意など残っているはずがない。
「ずっと離れていたのだもの。お互いの理解が足りていないだけだと思うの。というわけで、これはイサセリから渡してちょうだい」
モモソヒメは帯に挟んでいた麻の巾着を取り出し、イサセリの膝の上に置いた。
「これは?」
持ち上げてみると軽い。丸みを帯びたものがいくつか入っているようだ。
「開けてみて」
巾着の口を、露草で染めた青い組紐がきつく締めていた。紐を解き、中に指を入れてみると、硬い感触が伝わった。
「桃核、ですか」
桃の種である。袋の中には五つの桃核が入っていた。すべて乾燥しており、その模様は一つ一つ違う。水仕事をした後の皺立った指先のようにも、複雑に絡み合う木の根のようにも見えた。
「祭祀で用いたものよ。旅の安全を祈っておいたから持っていって」
桃は邪気を払うため、夏の収穫時期になると真っ先に祭壇に供えられる。余ったものは里人にも振る舞われ、体内から病魔を追い払うとされている。
「ありがたいですが、ワカタケには姉上から渡してくださった方が――」
姉にじっと睨まれたイサセリは口を閉じた。仲直りの道具に使いなさいというわけである。成人してまで姉に面倒を見てもらうことが情けなかった。
「残り三つありますが」
「サル・トリ・イヌの分よ」
大神の言葉にあった獣たちである。
「一人の人間を指すという解釈になったのですか」
「わからないわ」
「わからない?」
一日かけて、大王と里長たちで話し合っていたはずではなかったか。
「一人の人にしろ、集団にしろ、獣にしろ、一つ渡せば十分よ。何百個と持っていくわけにはいかないでしょう」
「それはそうですが、では神託の獣たちは、旅に出てから探せということですか」
大神のお言葉は、サル・トリ・イヌを探し、キビへ行けというものだ。その謎めいた存在たちが見つからなければ、旅は終わりを迎えない。イサセリは不安げに目を揺らした。
「大丈夫よ。きっと大神が導いてくださるわ」
「キビへ行って、何をすればいいのですか」
キビとは、狭戸の内海に面した地域、またその地で暮らす一族の名である。
モモソヒメは目を細めた。朱を落とした目元は清楚で、幼少時の面影がある。しかし、彼女の声にあどけなさは残っていなかった。
「ヤマトがキビを欲しがっている理由、わかる?」
「潮待ち・風待ちの港として栄えているからでしょうか?」
「それもあるけれど、もっと大きな理由があるの」
モモソヒメは静かに言った。
「ヤマトは外海に面していないでしょう。だから、韓半島や大国の漢といった外つ国と交易するためには、キビ、もしくは、さらに北の北海を牛耳るイズモに通行料を支払う必要がある」
「でも、通行料が掛かるだけで今でも交易はできていますよね」
「あなたくらい欲のない人ばかりならいいのだけれど」モモソヒメは笑みをこぼす。「大王フトニはヤマト優位な交易を実現しようと、まだ大王子だった時代から西へ遠征し、この二勢力を手に入れようと戦を繰り返しているのよ」
イサセリは思わず唸りを漏らした。
「戦にかかる費用を考えれば、通行料の方が安いのでは?」
「その通りよ。鉄資源が豊富な彼らを制圧することは難しくて、予想をはるかに上回る年月をかけてしまった。だからこそ大王は、ここサヌキへやってきたのよ」
モモソヒメは諸国に名の轟く巫女だ。彼女の言葉は大神の言葉と同義で、自分たちの行く末を占うため、あらゆる権力者がサヌキを訪れる。
「なぜ大神は私の名を挙げられたのでしょう。やはり私には荷が重いです」
イサセリが弱音を吐くと、モモソヒメは表情を緩めた。
「イサセリならやり遂げられると信じているわ」
「大神がおっしゃったからですか」
「それもあるけれど……信じているの。私も」
モモソヒメは言い切った。
「何者でもない私に、できることなんて……」
膝に置いたイサセリの手に、モモソヒメの温もりが重なった。
「今、何者でもないことを恐れる必要はないわ。与えられた使命はきっかけにすぎないの。これからあなたはたくさんの選択をするでしょう。その選択一つ一つがあなたを作り、何者かに変えていく」
モモソヒメは夜空を見上げた。月明かりを受けた目の表面が、淡い青みを帯びて輝いた。
「巫女の使命は大神のお言葉を人々に伝えること。でもね、それ以外にこの地でしてきたことは、すべて私の選択よ。ただお言葉を右から左に流すだけの、名もなき仲介者じゃない。モモソという巫女がここにいる。今まで選択してきたことが私を作り上げているの」
モモソヒメは干ばつに苦しむ人々のために、さまざまな農業改革を行なった。一番の功績は溜池を作ったことだ。普段から里や田畑の近くに水を溜めておくことで、日照りが続いても水を入手しやすくなった。モモソヒメが来てからのサヌキは、寿命が十年延びたという人もいる。
さすがに、モモソヒメのような存在にはなれないだろう。それでも選択を続けていれば、いつか何者かにはなれるのだろうか。イサセリという人間がここにいると、胸を張って言えるようになるのだろうか。
イサセリは決して届かぬ月に向かって、そっと手を伸ばした。




