第一章 神託(一)
「――イサセリヒコ」
神に名を呼ばれた瞬間、岩床にひれ伏していたイサセリの両膝が跳ねた。すぐに太ももに肘を突き立てる。飛び起きたい衝動を抑えたのは、注目を避けたいという臆病な心だったのかもしれないし、祭祀の規則を破るわけにはいかないという王子としてのなけなしの自尊心だったのかもしれない。
今一度、額を岩に擦りつけたイサセリは吐息を震わせた。頭の中では、「なぜ」の荒波が押し寄せている。
山頂近くの吹きさらしの祭祀場は静寂に満ちていた。イサセリの前には祭司服に身を包んだ里長たちがずらりと座っているはずだが、その気配は限りなく薄く、ぬるい朝風が生い茂った葉を揺らす音だけが、じれったく響いていた。
しばらくして、神職の祝の持つ鐘が、
リン――
と鳴った。顔を上げる合図だった。
イサセリはわずかにためらい、それからゆっくりと上体を起こした。
前は見ないつもりだった。
それなのに、ちょうど前方から曙光が射したものだから、その温かい色が恋しくて、自然と顔は正面に固定される。光に慣れぬ視界の奥で、苔むした磐座の輪郭が赤く染まっている。ほっと安堵の息を吐いたイサセリだったが、霞んでいた人影が鮮明になっていくにつれ、顔をこわばらせた。
里長たちの首が捩れていた。ぎょろりとした数多の目はすべてイサセリに向けられていた。なぜ、お前が。そんな声が聞こえてきそうだった。
恐ろしかった。でも、動けなかった。イサセリの視線は、ただ一人前を向いたままの大王の背中を捉えていた。父の逞しい背中に光は差さず、重苦しい影だけが伸びていた。
磐座のそばから、女の苦悶を帯びた声が聞こえてきた。
里長たちは一斉に前方を向いた。磐座の前でうつ伏せに倒れていた姉のモモソヒメが、ゆっくりと上体を起こしていた。地面に膝と手をついたまま、どこに焦点を合わせるでもなく虚空を見つめている。神懸かりの状態から戻った彼女はいつもこうだ。
「神は、なんとおっしゃいましたか」
玉を転がすような澄んだ声でモモソヒメは問いかけた。言葉こそ丁寧だが、その声色には儚さが混じり、まるで母を探す幼子のようだった。
モモソヒメの側に傅いていた祝が、厳かな面持ちで答えた。
「大神は、こうおっしゃいました」
サル・トリ・イヌを探しキビへ 遣わすは 大王フトニが息子イサセリヒコ
祝が神託を繰り返す間も、イサセリはずっと逃げ出したかった。何事もなかったかのように祭祀場を後にして、低地へ駆け下り、里を抜け、海へ出て――海人たちとともに外つ国へでも行ってしまいたい。けれども、痺れた足は言うことをきかなかった。
里長たちの一番前に座っていた大王フトニが、
「聞き間違いではないのだな」
と重々しく口を開いた。
「なぜ、大神は数ある選択肢の中からイサセリを選ばれたのか。大王子のクニクル、カタワケやワカタケ。我が息子には、もっと猛々しき男がいくらでもおるではないか」
大王の嘆きに、イサセリは下唇の内側を噛んだ。舌先に唾液が溜まる。「なぜ」の答えを聞きたいのは、イサセリも同じだった。
イサセリは自らを、兄弟の中でもっとも劣る人間と見なしていた。大王の後継者であるクニクルのように政がわかっているわけでも、クニクルを補佐するカタワケのように賢いわけでも、大王とともに戦場を駆け回っているワカタケのように武芸に秀でているわけでもなかった。
幼いころから病気がちで、何者でもない私が、なぜ選ばれたのか。膝に置いた拳を強く握ると、茜で染めた祭祀用の絹布に皺が入った。
大王の発言をきっかけに、里長たちは次々と口を開いた。
「よりによってキビとは……」
「あそこは我らヤマト族の悲願の地であるぞ」
「熟練の者に任せるべきだ」
「しかし、大神のお言葉に逆らうなど――」
「獣を探せとは、いったいどういう意味だ」
「若王子様でなくてはならん理由がわかりませんな」
イサセリを敬う者は一人もいなかった。みな、イサセリは虚弱で役に立たない王子だと考えていた。
評議は白熱していく。男たちの低い声が山々に響きわたる。怒号が混じりはじめた場を制したのは、モモソヒメだった。
「お静かに」
すっかり正気を取り戻したモモソヒメの声は、柔らかな少女のものから、巫女の威厳を示す落ち着いたものに変わっていた。時に大王以上の力を持つ巫女の言葉に、祭祀場は再び沈黙に包まれた。
「大神のお言葉であれば、きっと正しい方向に導かれましょう。イサセリ」
一呼吸置いてから、はい、とイサセリは返事をした。
「旅支度を進めておくように。ヤマトの未来は託しましたよ」
朱を目元に引いたモモソヒメの笑みは、艶やかで、神秘的で――おそろしかった。




