第三章 サルメ(二)
ウメはなかなか愉快な人だった。
野良仕事を手伝っては泥濘にはまり、米を炊けば水っぽい粥しか作れなかった。水を運ぼうものなら転んで壺を割り、機織りをすれば布が捩れる。
最初に会った日の艶やかな笑みが嘘のように、十九の女性とは思えないほど幼く、体の成長を反映してか、十二、三歳の子どものように鈍臭かった。
ひと月もすればワカタケも、ウメのあまりの不器用さに警戒心を解いていった。ある夜、筵の上で横になっていたワカタケが「あれで間者は無理だ」と呟いた。
聞けば、ウメは幼い頃から巫女の修行しかしてこなかったせいで、生活の知恵を身につけられなかったらしい。集落の長の話では、彼女が集落にたどり着いた時の姿は実に痛ましく、並々ならぬ苦労をしてきたのだと思ったという。しかし実際には、狩猟採集のやり方も、身の清め方も、何一つ知らないだけだった。集落までの道中、持参した乾飯と干し肉だけで飢えを凌いでいたようだ。宮女や祝に常に付き添われているモモソヒメですら、これほどではないだろうに。
今日もまた、小石に躓いたのか大きな音を立てて転んでいた。背負っていた籾袋に潰され、蝦蟇のような奇妙な声が上がる。集落の人が慌てて助けに入っているが、無事だろうか。
「よそ見をする余裕があるなんてな!」
イサセリの耳元で声が響く。顔を正面に戻すと、すぐそばにワカタケの姿があった。
左側から影が差す。イサセリは咄嗟に、手にした木の棒を左腹へ移した。ワカタケの木の棒がイサセリの棒を強く打つ。衝撃を流しきれず、イサセリは弾き飛ばされた。受け身を取ることにも失敗し、右肩をしたたか地面にぶつけた。
「死ぬぞ、そんなんじゃ」木の棒を肩に担いだワカタケが、イサセリを見下ろしていた。
腹も肩も、地面で擦った手のひらも痛かったが、イサセリは木の棒を杖代わりにして立ち上がった。
ワカタケは喜色を浮かべた。目が爛々と輝いていた。剣が、戦いが、好きでたまらないらしい。ワカタケほどではないが、剣術が楽しいという気持ちは、最近ようやくイサセリにもわかってきた。
今度はこちらから。
正眼に構えたイサセリは切り込んだ。木の棒同士がかちあう。剥がれた木屑が素足にかかる。力任せに押し込もうとするが、ワカタケはイサセリの棒を巧みに受け流す。力のかけ先を失ったイサセリは、体勢を崩した。突っ込む先に、ワカタケの姿はない。半身になって避けたのだ。勢いのまま二、三歩前へ進んだイサセリは、ワカタケに背中を打ち据えられ、激しく咳き込んだ。
「反応速度は悪くないんだけどな。腐っても俺の兄弟か」
「腐ってなどいない。ナマモノだ」
ワカタケは短く息を吐いて笑った。
修行を終えた兄弟は川へ向かった。
集落へ来て、二ヶ月が経とうとしていた。秋も深まり、森には赤や黄色に染まった木の葉が散り敷かれていた。風が吹くと、湿った土と枯れ葉の混ざったような香りが漂ってくる。その独特の匂いに、イサセリは季節の移ろいを感じた。
イサセリは濡らした布で体を拭きながら、麻の上衣をはぐるワカタケに視線を送った。ワカタケの体には数えきれないほどの傷跡があった。腕に、脚に、胸に――中でも、腹から背に貫通する刺し傷は大きかった。ほぼ致命傷だったのではないだろうか。
剣を交えるごとにワカタケの態度は軟化していき、今日のようにイサセリを兄弟と認める発言も増えた。
モモソヒメの言葉が、イサセリの脳裏に蘇る。
――お互いの理解が足りていないだけだと思うの。
巫女の予想は恐ろしいほどよく当たるものだと、イサセリは口元を緩めた。
「なに見てんだよ」
視線に気づかれる。
「いや、やはりすごいな。腹の、その……」
「ああ、初陣の時のな」
ワカタケの初陣は九つの時だったという。九つの子どもを戦場に送る大王も、手加減なしに剣を突き立てる敵も恐ろしかった。
「あのころはウグイスが生まれたばかりで、早く武功を立てたくて焦っていたからな」
ウグイスとは、イサセリたちの腹違いの弟だ。大王は西に遠征した後、ムキという北の地に新しい宮を作った。そこで生まれたのがウグイスである。大王は新たな妻とその子どものウグイスを溺愛しているらしい。
剣の才に長けたワカタケこそ寵愛されているはずだと思っていたから、ウグイスの存在を知ったイサセリは衝撃を受けた。同時に、再会した時のワカタケが、なぜあんなにもイサセリを嫌悪していたかを理解した。
自分は父の気を引くため命を賭して剣を振るってきたのに、傷一つなく、何も知らないような顔でのんきにふるまっている兄が、神託一つで父の関心を集める。そんな理不尽さが気に食わなかったにちがいない。
「おい、前も言ったが、変に同情なんて――」
「しないしない。ただ……おまえはすごいと思っただけだ」
ワカタケは眉根を寄せ、ふん、と鼻を鳴らした。嘲笑ではなく、照れ隠しである。
汗を拭き終えた二人は河原で火にあたり、体を温めた。崩れた横髪をみずらに結い直しながら、イサセリは話しかける。
「これからのことだが」
「ああ、俺もそろそろ潮時だと思っていた」
この二ヶ月、滞在している集落を拠点として、大王一行の捜索をしてきた。時には、数日かけて遠くの浜辺や集落まで出向いたりした。しかし、未だ何も手掛かりを得られていない。
「ここまで何も噂を聞かないということは、逆に大王たちは無事なんじゃないかと思っている」
イサセリの意見に、ワカタケも賛同した。
そろそろ次の行動を起こさなければならない。
「北か、南か」
考えられる可能性は二つ。北のムキの宮に別の道筋で帰還したか、南のアワジやサヌキに漂着して滞在しているかだ。
沈黙が続いた。赤い熾火を見つめる。冷えた体は十分に温まっていた。じっとしていると、顔に当たる熱が気になりだす。
「……北」
ワカタケが呟いた。
「……そうだな。北だ。ムキへ行こう」
二人は目を合わさなかった。自分と同じ表情をしているであろう互いの顔を、見たくなかったのだ。未だ二人の胸の内には、航海に対する恐れが渦を巻いていた。




