第三章 サルメ(一)
鹿の解体を終えたイサセリたちは、再び川上へと足を進めた。秋とはいえ、日差しはまだ強く、四人の額に汗が滲み出す。人の気配を感じ取った時、西の空はすでに茜色に染まりはじめていた。
川辺から少し森に分け入ったところに、三、四棟の小さな集落が佇んでいた。赤みを帯びた稲穂が風に揺らめいている。イサセリは野良仕事に勤しんでいるであろうスマたちのことを思い出した。夕暮れ時とあって、煮炊きの香りが漂ってきた。
最初、集落の人々は武器を携えた旅装束の四人を怪しんだ。だが、イサセリたちが鹿肉を差し出すと、途端に打ち解けた様子で迎え入れてくれた。
集落は当初上陸する予定だったハリマよりも東に位置することがわかった。狭戸の潮が舞い込むことから、この地はマイコと呼ばれているそうだ。
イサセリは集落の長に尋ねた。
「父を探しています。船団が漂着したといった知らせはありませんか」
大王や王子の立場はわざと明かさなかった。
「おぬしの名は?」
「イサセリと申します」
名を告げると、集落の長の太い眉が跳ね上がった。
「誰か、誰かウメを呼んできてくれ!」
興奮気味に指示を出した集落の長は、イサセリたちを自らの家に案内した。
サヌキの里人の住まいと同じく、地面を円く掘り下げて造った家だった。屋根には川辺に生い茂っていた葦が葺かれている。入り口に向かって左手の屋根だけに苔が這っていた。日当たりが悪いのかもしれない。
タキツとマシキは外で見張りをしてくれるらしい。イサセリとワカタケは蓑笠を外し、家の中へ入った。屋内に身を潜めると、二人して安堵の息を漏らした。
少しして、入り口から差し込む光が弱まった。誰かが外に佇んでいた。かがんで顔を見せたのは、一人の少女だった。少女は小柄で、イサセリやワカタケが腰を深く曲げなければ潜れなかった入り口を、わずかに膝を曲げ、頭を下げるだけで通った。
少女は朱色の裳と白い絹の上衣を身に纏い、裳と同じ色のハチマキを頭に巻いていた。豊かな黒髪は首元で一つに結われている。少女が一歩踏み出すたびに、長く垂れたハチマキと黒髪が左右に揺れ動き、イサセリの視線を惹きつけた。
しかし、その装いよりもイサセリを驚かせたのは、少女の纏う雰囲気だった。姉のモモソヒメに似ている。立ち振る舞いからは不思議な威厳が漂い、成人前の少女にしか見えないのに、思わず傅きたくなるような独特の風格があった。
少女の後ろから集落の長が姿を見せた。
「ウメ、どうじゃ」
ウメと呼ばれた少女が頷いた。
「はい、間違いありません。私が探していたフトニ王の王子イサセリヒコ様です」
意表を突かれたイサセリたちは瞬時に腰を上げた。ワカタケは柄を握り、いつでも剣を抜けるよう身構えている。
イサセリたちの反応に、集落の長は慌てふためいた。
「まさか、知り合いではなかったのか? それに王子とは、ウメ、どういうことじゃ」
「私が一方的に存じ上げていたのです。探していたことは嘘ではありません」
少女は泰然自若としていた。
イサセリが問いかけた。
「娘。そなたは何者だ」
訝しげな眼差しを向けられても、少女の目は揺らぐことがなかった。
「ご挨拶のまえに一つ。恐れながら、私、イサセリヒコ様に『娘』と呼んでいただける年ではございません」
「なに?」
「今年で十九になります」
イサセリは愕然とした。目の前の少女はどう見ても十二ほどの年齢にしか見えなかったからだ。ワカタケを見ると、表情を固めていた。よほど驚いたのか、剣の柄から右手が離れている。
「失礼した」
イサセリが謝ると、少女はふわりと笑ってみせた。艶美な笑みだった。なるほど、確かに成人前の娘には出せぬ艶めかしさがあった。イサセリは我が目を疑いながらも、彼女の言葉に信を置かざるを得なかった。
「では改めまして」
朱色のハチマキと黒髪が宙で跳ねた。少女は指先をぴんと伸ばし、三つ指をついた。
「私、サルメ族のウメと申します。我が導きの神のお力により、イサセリヒコ様の御前に参上つかまつりました」
イサセリは一瞬、言葉を失った。
「サルメ、と申したか」
「はい」
「《サル》メ……」
イサセリの背筋に冷たいものが走り、全身の毛が逆立った。まさか、神託にあった獣が現れたというのか?
「なぜ俺たちがここに来るとわかった?」
鋭く問い質したのはワカタケだった。
「弟君のワカタケヒコ様ですね」
にこりと微笑むウメに対し、ワカタケは顔を曇らせた。
「我が神に導かれたのです」
「俺たちがここに来たのは偶然だ。あの濃霧がなければ、ここには来なかった」
「まあ、濃霧に巻き込まれたのですか」
「あんた……討ち手か? 誰の差し金だ」
「まさか! その濃霧に遭ったのはいつごろでしょうか。私は、およそ半月前からこちらへ身を寄せ、イサセリヒコ様をお待ちしておりました」
イサセリが視線を向けると、集落の長は全力で首を縦に振り、哀願するような目で見つめてきた。
イサセリは胸の前で腕を組み、唸った。
「ふむ。海難に遭ったのは昨日のことだし、川下の浜に流れついたのはワカタケが言うように偶然だ。潮の流れを人が操れるはずもない」
「しかし、半月前といえば、すでに神託は下っていたぞ」ワカタケはまだ疑っている。
「私も不思議なことだとは思うが、ずっと姉上を見てきたからな。あながち嘘とも思えないのだ」
巫女であるモモソヒメと共に育ったイサセリにとって、神に導かれたというウメの主張は信じるに足るものだった。
「ウメ、そなたはもしや、巫女か?」
「はい」
「我が神とは大神のことか?」
「我が神は、導きの神であらせられるサルタヒコ大神にございます」
耳にしたことのない神だった。
「サルタヒコ神はなんと申された?」
「フトニ王の王子イサセリヒコ様が旅立つため、お供をするようおっしゃいました。こちらでお待ちしていれば、いずれお会いできると」
イサセリは戸惑いを隠せなかった。この小柄な女性が神託の《サル》なのか。そんなうまい話があっていいのか。しかし、どこかモモソヒメを彷彿とさせる凛とした佇まいに、不思議と信頼を寄せたくなっていた。この女性は味方であると、イサセリの直感が告げていた。
「わかった。共に行こう」
「おい!」ワカタケに睨まれる。
「大王が見つかるまでこの辺りに滞在するだろう。その間に、信用に足る人物か見極めればいい」
ワカタケは不服そうに舌打ちをすると、ウメに鋭い視線を向けた。そんな弟を横目に、イサセリは集落の長に声をかけた。
「長よ」
集落の長は背筋を伸ばした。
「最初に正体を明かさずすまない。父が見つかるまでこちらに滞在したいのだが、いいだろうか」
「は、はい。こちらのあばら屋でよろしければ、お使いください。わし、いや、わたしは娘夫婦の家におりますので」
「空き地を使わせてもらえれば十分だ」
「そ、そういうわけにはいきませぬ!」
集落の長は地面に額を擦り付けた。集落に辿り着いた時とは、すっかり態度が一変していた。大王の威光がヤマトから遠く離れたこの地まで届いていることにイサセリは驚いた。
深々と頭を下げる集落の長の提案を、ウメが支持した。
「イサセリヒコ様。私でさえ屋根のある家に滞在させていただいております。長の言葉に甘えられてはいかがでしょうか」
「わかった。ではこちらを使わせてもらう。ワカタケもいいな?」
最後までウメに対して納得いかない様子のワカタケだったが、滞在については首肯した。
話し合いを終えたイサセリたちは、家の外へ出た。宵の空の下で集落の長と言葉を交わすウメの背を見つめながら、イサセリは神託の言葉を反芻していた。
残りの《トリ》と《イヌ》も、ウメのような個人を指しているのだろうか。残る二つの獣はどのような形で現れるのか。旅が順調に進む兆しが見えてきたことが、なんとなく恐ろしかった。




