第二章 出立(五)
朝靄の中、イサセリたち四人は河岸を上流に向かって歩いていた。それぞれが麻袋を背負い、巻いた筵を脇に抱えている。加えて、イサセリは弓矢を、ワカタケは鉄剣を、兵二人は銅剣を携えていた。
照りつける真昼の日差しの中、河原の鹿の群れを見つけたのはタキツだった。頭一つ分背の高いタキツは視力も良く、イサセリの目にはまだ豆粒ほどにしか見えない距離から、鹿の頭数を言い当てた。
一同は茂みを縫うように獲物に忍び寄った。イサセリは息を潜め、樟の幹に身を寄せた。弓を構え、群れの一番手前で草を食む、壮健な牡鹿を狙う。葉擦れが聞こえたのか、牡鹿は小さな耳を動かし周囲を警戒していた。
イサセリは全神経を牡鹿の首筋へと注ぎ込んだ。まるで自分が木の一部であるかのように、静かに佇む。心臓の鼓動さえ落として、その瞬間を待った。風が止み、葉の囁きが消えていく。静寂。牡鹿の首が、水面に向かって下がっていく。
今。
イサセリは指を離した。矢が風を切り、牡鹿の首に突き刺さった。悲鳴が上がり、他の鹿たちが散っていく。牡鹿も逃げようと懸命に足を動かしていたが、動きは既に鈍っていた。イサセリは迷わず二本目の矢を放った。今度は前脚を射抜いた。血が飛び散る。牡鹿は対岸まで逃げたが、そこで力尽きた。巨体が崩れ落ちる時、河原の石がカラカラと転がった。
「よし」
肩の力を抜いたイサセリは木陰から出た。ワカタケや兵二人も後に続く。四人は、川に点々と浮かぶ石を飛び移り、牡鹿のそばに寄った。
「こりゃ大物だな」
ワカタケが感嘆の声を漏らした。
牡鹿は成人した男とそう変わらない大きさだった。ここまでの大物を仕留めたのは、イサセリも久しぶりだった。赤みを帯びた袋角は、二束ほどの長さに成長していた。近くを探せば、春先に抜け落ちた角も拾えるかもしれない。
イサセリはタキツとマシキに鹿の前後の脚を押さえてもらうと、カンカン石製の小刀を取り出し、牡鹿の首元に突き立てた。ひゅーい、という悲鳴とともに鮮血が噴き出した。
鹿が呼吸をするたび、傷口から血があふれだす。残酷なことだが、生きているうちに血を抜かなければ肉の味が落ちてしまう。これも命を余すことなく頂くための避けられない作業だった。
血の匂いが強まっていく。ワカタケは訝しげに声を上げた。
「あんた、命を奪えるんだな」
「鹿は……無駄にならないからな」
鹿の体はすべて再利用できる。肉や内臓は食料に、骨は汁物の出汁に、皮はなめして衣や靴、防具や袋に、角は小刀の持ち手や鏃、釣り針や装飾品に。
「人の命を奪っても、腹は満たされないし、寒さは凌げない」
「相手の持ちものを奪えばいい」
「そんな賊みたいなやり方」
批判されたと感じたのか、ワカタケは顔をしかめた。
「鹿も同じだろ。俺たちに食われるため、素材にされるためにこんなにでっかく成長したわけじゃない。勝手に殺して、勝手にこいつが持っていたものを奪うんだ。人の命を奪うのと何が違う」
イサセリは何も言い返せなかった。
「あんた、覚悟が足りてねえよ。結局、やり返されるのが怖いってことなんだろ」
イサセリは黙って鹿の顔を見下ろした。鹿は虚ろな目で口をぱくぱくと動かしていた。黒々とした目の光がだんだんと弱くなっている。
私が奪った命が消えていこうとしている。
ワカタケの言うとおりだった。イサセリが恐ろしいのは、人間の憎悪だった。その憎悪が自分に向くことだった。
「ほしいから奪う。必要だから奪う。単純な話だ。あんたは臆病だし、真面目すぎる」
「わかっている。……でも、もう犠牲者を出さないって誓ったんだ。奪うためじゃなく、守るための力がほしい。だから……」
イサセリは弟の顔を正面から見据えた。
「私に、剣を教えてくれないか」
口にしたそばから、自分の発した言葉の重さにイサセリは唾を飲み込んだ。これまで扱ってきた弓は生活のための道具だった。狩りをし、里人の役に立つため。しかし剣は、人を傷つけるための道具だ。その道具の扱い方を学ぼうとしている。人の傷つけ方を学ぼうとしている。震えてくる手を体の後ろに隠し、イサセリは再びワカタケを見つめた。
ワカタケは眉をひそめ、イサセリを値踏みするように見つめ返した。
「あんたに?」
イサセリは頷く。
「剣を教えても実践で使えなきゃ意味がない。あんたに、人が斬れるのか?」
「……わからない」
ワカタケは大きく息を吐き出した。
「まず、慣れた弓矢で射られるようになるのが先だろ」
「私に足りないのは覚悟だ。覚悟さえ決まれば、的は外さない」
ワカタケは不服そうに唇を尖らせながら、鹿を見下ろした。イサセリの弓の腕前は買っているらしい。その上で、イサセリに言い返せる言葉がないか探っているようだった。
イサセリは続けた。
「弓は中距離以上でしか使えないだろう。少しでも可能性を広げるために、近距離で戦う術もほしいんだ」
兄弟で言い争っている間に、牡鹿は力尽きていた。イサセリは兵士たちの不安げな眼差しに気づいていたが、わざと反応しなかった。今はワカタケの返事を待ちたかった。
ワカタケは腰に差した鉄剣の柄を握った。
「……俺は剣が好きだ。戦うことも、恐怖よりも興奮が勝つ人間だ。だが、あんたはそうじゃないだろ」
ワカタケの鋭い眼差しがイサセリを射抜いた。
イサセリは黙して、弟の眼差しを受け止めた。
一陣の風が吹き、黄ばんだ木の葉が二人の間に舞い落ちた。葉は、牡鹿の骸の上で止まった。
「……いいだろう。道中に教えてやる。ただし、大王たちと合流するまでだ」
「十分だ」
「すぐに音を上げないといいがな」
皮肉めいたワカタケの言葉に、イサセリは小さく笑った。
必ず成長して見せよう。それが、犠牲となった彼らへの弔いだから。




