栽培記録(抜粋)
一日目
匂いは、本人が最初に気づかない。周囲が先に気づく。理由は単純で、嗅覚が内側から慣らされるから。甘いと感じる者はまだ安全。不快だと感じる者は、すでに近い。
俺が異変に気づいたのは、自分の部屋が静かすぎると思った瞬間だった。冷蔵庫の音が聞こえない。外の車の音もない。
耳が悪くなったのかと思ったが、スマホの動画は普通に聞こえる。ただ、自分の体の中の音だけが異様に大きい。
血の流れ。関節の擦れる音。腹の奥で、何かが水を吸う音。
三日目
発芽は「侵入」ではなく「再配置」。もともと体内にあった空間が、用途変更される。
胸の中央が、呼吸のたびに内側から押される。心臓じゃない。肺でもない。
鏡を見ると、胸骨の下がわずかに盛り上がっている。
皮膚が、引っ張られるみたいに薄く白くなっていた。触ると、感覚が一拍遅れてくる。
夜、久しぶりに夢を見た。俺は立っている。でも、足の裏の感覚がない。視界の端に、花弁が重なっている。目を動かすたび、花弁も一緒に揺れる。
夢の中で、俺はそれを「自分の一部」だと自然に理解していた。
五日目
切除は推奨されない。痛覚があるうちは、まだ人間側だから。
我慢できず、カッターを持った。皮膚に刃を当てた瞬間、体が勝手に震えた。怖いからじゃない。切られることを、知っていたから。
浅く切ると、血は出なかった。代わりに、透明な液体が滲んだ。
甘い匂い。傷口の奥で、何かがゆっくり閉じた。
その瞬間から、部屋の見え方が変わった。輪郭が、ほんの少し柔らかい。壁と空気の境目が、
溶けている。
色が、花弁の内側みたいな白に寄っている。
七日目
会話能力が落ち始める。理由は、言葉が不要になるから。
会社で、言葉が出てこなかった。頭の中には
考えがあるのに、口に出す前に溶ける。代わりに、胸の奥が「満ちる」感覚があった。
誰かと目が合うと、その人の周囲に薄く影が伸びる。根みたいに。
夜、ベッドに横になると、背中が地面みたいに冷たい。シーツの感触が、土に近い。息を吐くたび、
胸が少し軽くなる。代わりに、部屋の空気が重くなる。
九日目
この段階で、本人はほぼ完成している。ただし、自覚だけが遅れる。
目が覚めると、体が動かなかった。焦りはなかった。「そういう日」だと理解していた。
視界の端から、白いものがゆっくり広がる。花弁。視界の中央に、穴が開いている。そこから、部屋を見ている。
理解した。目だと思っていたものは、もう必要ない。視点は、花の中心に移っている。
十日目
開花。
誰かが部屋に入ってきた。管理会社の人間。
「……咲いてますね」
その言葉が、評価に聞こえた。花に、顔を近づける。呼吸が、花弁を揺らす。
――その瞬間、花粉が放たれた。
記録は、ここで途切れている。理由は簡単だ。記録する主体が、もう存在しないから。
でも、この文章を読んでいる「お前」がいる。それは、次の記録係だ。最後に、確認してほしい。
今、呼吸を意識したか。
胸の奥に、妙な空間を感じないか。
部屋の匂いが、さっきより少し甘くなっていないか。
もし「まだ大丈夫」と思ったなら。
それは、芽がまだ自分だと思っている一番危険な段階だ。ここで終わる。でも、これは終わりじゃない。花は、続きを必要としない。必要なのは、土だけだ。
そして――
読んだ時点で、条件は満たされている。




