娼館に行ったら婚約破棄した令嬢とばったり会ってしまったお話
フェーベルト・タークオヴェルトはかつてないほど気まずい思いをしていた。
まだ23歳になったばかりの若き伯爵だ。ブロンドの髪に緑の瞳。その整った顔立ちは、高貴な伯爵家に生まれたことを誰もが認めることだろう。
広々とした部屋の中。部屋の調度品はどれも貴族にふさわしい高級なものだ。その中で特に目を引くのは、ひときわ豪華なつくりの大きなベッドだ。この部屋がこのベッドを中心に整えられているのは明らかだ。彼は寝室に招かれているのだ。
「紅茶を淹れました。どうぞおくつろぎください」
そう言ってテーブルに2つ紅茶を出し、向かいに座ったのは20歳を過ぎたと思われる女だ。シルクのように滑らかな腰まで届く銀の髪。整った顔立ちに涼やかな薄紅の瞳。貴族でもめったにいないほどの美しい女性だった。
その身にまとうのは青を基調としたドレス。各所を精緻な刺繍で飾られている。質の高い生地が使われており、仕立ても実に見事なものだ。
だが、貴族の集う席でこんなドレスを着てくる貴婦人はいないだろう。
薄手の生地は身体のラインをまるで隠していない。大きく開いた胸元に加え、後ろも首筋から腰まで素肌を見せている。貴族が公の場で纏うには、あまりに色気を強調しすぎたドレスだった。
だがそれは、この場においてふさわしい装いだ。なぜならここは貴族向けの高級娼館『瀟洒なる止まり木』。彼女はそこで務める娼婦なのだ。
フェーベルトは友人の紹介でここに来た。金で女を抱くのは初めてのことだ。だが彼の抱く気まずさは、こうした店で気後れしているというだけではない。
彼は耐えきれず問いかけた。
「君は……ネアティリアなのか?」
娼婦は小さなため息をひとつ吐くと答えた。
「……その名はもう捨てました。ここでは『ジーラディア』とお呼びください」
目の前の娼婦、ジーラディアはそう答えた。やはり他人の空似ではなかった。ネアティリアとは、フェーベルトの婚約者だった子爵令嬢の名だ。かつて彼は、ネアティリアに婚約破棄を突き付けて、その関係を断った。
娼館に来て、出てきた娼婦は自分が捨てた婚約者だった。これ以上に気まずいことなどあるだろうか。
「まさか君がこんなところで働いているだなんて思わなかった……」
「あら、こんなところなんて言わないでください。世間では下に見られがちですが、これは男性にしあわせを与えるやりがいのある立派な仕事です」
あまりに落ち着いたジーラディアの態度に、フェーベルトは鼻白んだ。
「なぜ君はそんなに普通にしていられる? 私は君のことを……捨てたんだぞ?」
「ここで働くようになってもう5年近くとなります。いろいろなお客様の相手をしてきました。いまさらそんなことなど気になりません。正規の料金を払ってこの場に来たのなら、あなたはお客様です。お客様を誠心誠意もてなすのがわたしの仕事です」
「だが……!」
「あなた様の方こそ、私と閨をともにするのがおいやなら、『小鳥』を変えることもできます。追加料金をいただくことになりますが……」
この娼館に来た時に娼婦のことを『小鳥』と呼ぶと教わった。店の雰囲気づくりの一環らしい。
そして『小鳥』が気に入らなければ、追加料金を払って変更することができる。事前に知っていたからフェーベルトはちゃんと十分な金を用意してきた。
「いや、それは……少し考えさせてくれ」
フェーベルトは判断をためらった。常識的に考えて、娼館で見知った女性が出てきたのなら避けるべきだ。それが婚約破棄した相手ならなおさらだ。
しかし、ジーラディアは美しい。滑らかな銀の髪に整った顔立ち。ほっそりとした身体。抜けるように白い肌。気まずくて目を合わせられない。それでも気づけばその美しい身体に目が吸い寄せられる。評判のいい娼館だが、他の『小鳥』がこれほど魅力的とは思えない。そんな思いが彼を迷わせていた。
「そうですか。まだ時間は十分にあります。ごゆるりとお考え下さい」
ジーラディアは紅茶を口にした。その所作は、かつて婚約者だったころと変わらない美しいものだった。
学園に共に通っていた頃。彼女の爵位は子爵であり、学園内では低いほうだった。だが令嬢としての評価は高かった。
美しい銀髪に整った顔立ち。成績は優秀で礼儀作法も完璧。特にその所作の美しさは学園でも評判となるほとだった。
そんな彼女が今は娼婦となっている。自分をその境遇に陥れた相手が客としてやってきても動揺を見せない。その徹底したプロ意識は、手練れの娼婦といった感じだった。
あのころとは何もかも変わってしまった。婚約破棄は取り返しがつかない。フェーベルトはそのことを、今更のように痛感した。
「わたしのことより、あなた様がこのような場所に来たことが意外です」
「わ、私だって気晴らしをしたい気分になることはある」
「ですが、あなたはあのカルクレティア様とご結婚されたのでしょう?」
そう言われてフェーベルトは苦い顔をした。
彼は最近、悩んでいた。だから友人に紹介されこの娼館にやってきた。その悩みの種こそが、妻となったカルクレティアなのだ。
まだ学園の生徒だったころ。フェーベルトは婚約者に対して不満を抱いていた。
まず、婚約自体がくだらない政略によるものだった。相手方の子爵家は事業の失敗で経済的に困窮しており、それを補うために伯爵家にすりよってきたという形だ。そのことが気に入らなかった。
それに婚約相手のネアティリアのことも好きになれなかった。
美しい容姿。優秀な成績。完璧な礼儀作法に洗練された美しい所作。伯爵家に嫁ぐに申し分ない令嬢だ。
しかし婚約相手としては完璧でも、女性としての魅力には欠けていた。茶会の席では当たり障りのない話題しか話さない。常に完璧な令嬢の姿を保ち、淑女として適切な距離から踏み出さないネアティリア。そこに甘い雰囲気など生まれるはずもなく、共に時間を過ごしてもただ退屈なだけだった。
そんな時に出会ったのが男爵令嬢カルクレティアだ。ピンクブロンドの髪に青い瞳のかわいらしい令嬢だった。
彼女は他の令嬢と異なり、礼儀作法にこだわりすぎなかった。気さくな態度、近い距離感で接していた。貴族令嬢ならば普通はやらないボディタッチもたびたびした。なにより彼女の胸は豊かだった。そんな彼女が親しく接してくるのだから、色香に惑わされる男子生徒も少なくなかった。だがカルクレティアは色気だけの令嬢ではなかった。
学業で優秀な成績を示していた。気配りもでき、予想外の出来事に対しても機転を利かせて対応できた。
多くの男子生徒と近い距離感で接しながら、そのわりには令嬢たちからの評判は悪くない。自分の立ち位置を把握し、有力な男子生徒と関係を築き、女子生徒からは悪評が立たないよう立ち回る。それは貴族としてもっとも重要な才能と言えた。
そんな優秀な令嬢なら、礼儀作法にうるさいだけのネアティリアより伯爵家の利益になる。そう確信したフェーベルトは、婚約者を見限った。
後から思えば、ネアティリアは子爵家再興のために必死に完璧な令嬢を演じていたのだろう。だが当時のフェーベルトはそこまで考えが及ばなかった。
フェーベルトは子爵家の困窮を調べ上げた。そしてそれをもとに、ネアティリアは伯爵家に迎えるにはふさわしくない相手として、婚約破棄を突き付けたのだ。
フェーベルトの見立てでは、子爵家の困窮はそこまで深刻ではなかった。伯爵家との関係を失っても持ちこたえることはできるはずだった。
しかし現実にはそううまくいかなかった。
子爵家は没落し、ネアティリアは高級娼館に売られた。そしてジーラディアという名前となり、フェーベルトの目の前にいる。
フェーベルトは貴族令嬢らしからぬ色香を有したカルクレティアを妻とした。ジーラディアからすれば、そんな彼が娼館に足を運ぶのは奇妙に思えることだろう。疑問に思うのも無理はない。
だがフェーベルトは彼女の何気ない疑問を前に、平静を保てなかった。
「カルクレティアはそんな生易しい女じゃない! やつはある種の魔物だ!」
そう吐き捨てると、フェーベルトは妻に対する不満をぶちまけた。
フェーベルトの見立てた通り、カルクレティアは優秀だった。数字に強く判断も的確で人当たりもいい。領地経営でも社交界の人脈作りでも役に立った。伯爵家の繁栄に寄与してくれる完璧な妻だった。
しかし、カルクレティアは優秀すぎた。
気が付けば伯爵家の手掛けるいくつもの事業について、カルクレティアがその運営の中核を握っていた。他家との付き合いも彼女の存在によるものが大きい。使用人たちは誰もがカルクレティアを一番の主人と見ている。もはや伯爵家は彼女なしには成り立たないほどになっていた。当主であるフェーベルトは実権のないお飾りになりつつあった。
カルクレティアは最初から伯爵家を自分の物とするつもりで近づいてきたのだ。そのことに気付いたときには何もかもが手遅れとなっていた。フェーベルトも決して無能だったわけではない。むしろ優秀な能力を持っている。しかしそんな彼でも対抗できないほどに、彼女の才覚は圧倒的だった。
夜の営みすらも彼女に管理されている。身ごもっては領地経営に支障が出ると子作りはしばらく控えることにされた。閨を共にすることはあっても避妊の魔道具の使用を強制される。豊かな胸を持つ彼女の身体は魅力的だったが、そんなありさまで男の欲望を満たせるわけがない。
自分の立場がなくなっていく喪失感。男としての欲望が満たされない欲求不満。そうした悩みをごまかすために酒に逃げた。そんなフェーベルトを見かけた友人が、気晴らしにと紹介してくれたのが高級娼館『瀟洒なる止まり木』だった。
「……すまない、話し過ぎた」
気付けばフェーベルトは、妻に対する不満をジーラディアに洗いざらいぶちまけていた。
そうして話し終えたあと、今更のように後悔した。
まず、部外者に伯爵家の内情について話してしまった。これでは当主失格だ。
加えて、話した相手が問題だ。ジーラディアは、婚約破棄されて娼婦となった女性だ。そんな彼女に今の伯爵家の不満を言うなんてどうかしている。
フェーベルトは自らの行いを恥じ、顔を伏せた。
「いいのですよ、フェーベルト様」
「ジーラディア……?」
顔を上げると、優しくほほ笑むジーラディアがいた。
「嫌なこと全て吐き出して、すべてを忘れて楽しみにふける。ここはそういう場所です。お客様の悩みを聞くこともわたしの仕事です。心配なさらずとも、他言いたしません」
ジーラディアの言葉は温かかった。フェーベルトの冷えて固まり、ぼろぼろと崩れそうになっていた心が、優しく癒されるようだった。
「なぜ君はそんなに優しくしてくれるんだ。わたしのことが憎くはないのか。君のことを捨て、当主の座を失いつつあるみじめな私を、救ってくれるというのか……?」
「フェーベルト様は勘違いされています。あなたが捨てたのは、子爵令嬢ネアティリアです。あの礼儀作法だけが取り柄の真面目な令嬢は死にました。ここにいるのは娼館の『小鳥』、ジーラディアです」
いたずらっぽくほほ笑むと、ジーラディアは席を立ち、フェーベルトの隣に座った。何のつもりかと見つめていると、急に顔を近づけてきた。そして、その唇が触れた。
深く濃厚で、情熱的なキスだった。フェーベルトはとろけてしまいそうな快楽を感じた。
ジーラディアが唇を離しても動くことができなかった。余韻に身体がしびれてしまっていた。
かつての婚約者は自分から口づけしてくることなどなかった。目の前の女性があの頃とはまるで別の存在だと、身体で理解させられた。
「今夜は、かわいがってくださいませ」
かわいらしい声で囁きながら、彼女がしなだれかかってきた。彼女の肌のやわらかさと熱。それらによってフェーベルトは自分が溶けてしまうと思った。
婚約者だった時。彼女はまるで美術館に飾られた絵画のようだった。見ることは許されても触れることは禁じられた、美しい銀髪の令嬢。
あの時以上の美しさで、蠱惑的な色香をまとった女性が、自分の手の中にある。この髪も。この唇も。この胸も。なにもかも、自分の自由にできる。
この時、フェーベルトは自分の心の底に湧き上がる欲望を自覚した。自分の手によって貴族令嬢から娼婦に身を落とした女を抱くという、背徳的な欲望。だから他の『小鳥』に変更するよう提案されても受け入れなかった。最初からこのジーラディアを抱くと、心の底では決めていたのだ。
フェーベルトはもう止まることなどできなかった。
熱く激しい夜だった。
ジーラディアは柔らかくてしなやかだった。美しく、時にかわいらしかった。
妻には要求できないようなことも応じてくれた。多少乱暴に扱っても、余裕をもって受け止めれくれた。
そしてジーラディアは巧みだった。手で、唇で、舌で。これまで味わったことのないような快楽へと導いてくれた。それでいて主導権は常にフェーベルトにあった。彼は思うままにふるまい、存分に快楽を味わった。
妻と過ごした閨など比べ物にならない。男女の交わりがこんなにも熱く激しく、気持ちがいいものだとは知らなかった。
素晴らしい時間だった。最高の夜だった。フェーベルトは心の底から満足した。
フェーベルトはその夜以来、寝ても覚めてもジーラディアのことを考えるようになった。たった一度だけで終わりとすることなどできなかった。
だが『瀟洒なる止まり木』に通い詰めるようなことはしなかった。
ジーラディアは娼婦だ。貴族であり、十分な金さえ用意すればだれでも彼女を抱けてしまう。そのことを考えるだけで身体の内側から焼かれるような苦しみを感じた。
だから彼女を身請けすることにした。娼館に通って無駄遣いする余裕などなかった。
優秀すぎる妻の目を盗み大金を工面するのは容易なことではない。だがフェーベルトも、妻ほどではないにしても有能な男だった。決死の覚悟をもって全力で挑み、その難事を成し遂げた。
わずか一か月で身請けに十分な資金とジーラディアを住まわせる屋敷まで用意立てた。そして意気揚々と『瀟洒なる止まり木』に赴いた。
だが娼館の女主人は、フェーベルトに対して予想外の答えを返した。
「伯爵様。残念ですがジーラディアという『小鳥』は、一年以上前に流行り病で亡くなっています」
「そんなバカな! 彼女とは一か月前に閨を共にした!」
問い詰めても女主人の回答は変わらない。しまいには墓の場所まで教えられた。
ならば一か月前に閨を共にしたのは誰かと問い詰めれば、連れてこられたのは銀髪の娘だった。それなりに美しいし、背格好はジーラディアに近しい。だが顔はまるで似ておらず、ジーラディアの魅力には遠く及ばなかった。
何度確かめてもジーラディアはもういないという事実しか出てこない。フェーベルトは予想もしなかった事態に顔を青くするばかりだった。
見かねた女主人から、他の『小鳥』と遊ばないかと誘われた。何人かと顔合わせをさせてもらった。さすが評判の高級娼館だけあって、みな美しい『小鳥』だった。だが誰もジーラディアには及ばない。あの魅力には届かない。フェーベルトは失意のままに『瀟洒なる止まり木』を後にした。
あの夜は何だったのか。何かの幻覚魔法にでもかけられたか。あるいは淫魔の見せた夢だったのか。
そうした疑問よりもフェーベルトの頭を占めるのは、とてつもない喪失感だった。
ジーラディアはもういない。あの身を焦がす素晴らしい夜は二度と味わえない。その空虚さに比べれば、あの夜のジーラディアが何者だったのかなど、どうでもいいことだった。
全て終わった。希望はない。ここにとどまっても、ジーラディアがもういないということを知らされるばかりだ。とにかく屋敷に戻ろうと、伯爵家の馬車に乗り込んだ。
そこで思いがけないものを見た。
「ジ、ジーラディア!?」
その銀髪と薄紅の瞳は見間違えようもない。あの夜と同じ装いで。馬車の席に、ジーラディアが座っていた。
「君は死んだはずでは……!?」
とにかく馬車の中に入り、向かいの席に座る。まじまじと彼女を見つめる。すると気づくことがあった。
「いや、君は……『死んでいた』のか」
ジーラディアの身体をよく見れば、その向こうが透けて見える。彼女はこの世の存在ではない。幽霊だった。
「……いったいどういうことなのか、説明してくれるか?」
「一年ほど前に、流行り病に罹って命を落としてしまいました。しかし天に召されることはなく、『瀟洒なる止まり木』に幽霊としてとどまりました。そこにフェーベルト様がやってきました。昔なじみの顔を見て、お話したいと思ったのです。そして『小鳥』に憑りついて、幻影の魔法で生前の姿を見せ、一夜を共に過ごしたのです」
『瀟洒なる止まり木』の女主人の言葉に嘘はなかった。ジーラディアは死んでいた。一か月前に閨を共にしたという『小鳥』は、ジーラディアに憑りつかれていたのだろう。
「だが、なぜこの馬車の中にいるんだ」
「フェーベルト様にお礼がしたいからです」
「お礼だと……?」
フェーベルトは首をひねった。婚約破棄で捨てた相手だ。それなのに、あの夜はあんなにも自分のことを楽しませてくれた。一方的に与えられてばかりだ。それでお礼など、意味が解らなかった。
「幽霊となったわたしは『瀟洒なる止まり木』の外には出ることができませんでした。ですが、あなたが身請けの意思を示してくださったおかげで、その縛りから逃れることができたのです。そのお礼がしたいのです」
「そういうことか。だが……」
フェーベルトは迷った。この一か月、ジーラディアをもう一度抱きたいと願ってきた。だが死んで幽霊になったとなれば話は別だ。あの夜は素晴らしかったが、死人を抱くとなると抵抗がある。
彼女のことを思うなら、天に召されるよう、教会に連れていくのが正しいことだ。だが彼女とはそれきりになってしまう。それが惜しいという気持ちもある。
頭を悩ませるフェーベルトの耳元に、ジーラディアはそっとささやいた。
「奥様に復讐したいとは思いませんか?」
「な、なんだと……?」
「わたしは憑りついた者を操ることができます。奥様に憑りつき、今度は幻影の魔法を使わずあなたに身をゆだねましょう。そうすればあなたは奥様の身体を自由に楽しむことができます」
「そ、そんなことが許されるわけが……」
「夫が妻を抱くことになんの問題がありましょう。わたしはそのお手伝いをするだけです。夫婦の閨なら、『瀟洒なる止まり木』では禁じられていたこともできます。あの夜以上の快楽を提供することをお約束します」
それは目が眩むほど魅惑的な提案だった。
伯爵家を簒奪しようとする妻、カルクレティア。伯爵家において確かな地位を築き、その優秀さゆえにろくに抗うこともできない。彼女は美しく、その身体も魅力的だ。だが閨の時は彼女が文句を言わないように気を遣わされ、できることも限られていた。
そんな女を思うままに犯すことができる。しかもジーラディアが操るとなれば、どれほどの快楽をもたらすことになるか想像もつかない。
あの高慢なカルクレティアが快楽に乱れる姿を思うだけで、フェーベルトの下半身は昂った。
「ああ、素晴らしい! ジーラディア、君は最高だ!」
「ですがお話を聞いた限り、奥様は相当したたかなお方のようです。入念な下準備が必要でしょう」
「ああ、ああ! 準備などいくらでもする! 何でも言ってくれ!」
そうして馬車は、ジーラディアを乗せたまま、伯爵家のタウンハウスへと向かった。
教会に行かねばならないという考えなど、フェーベルトの頭の中にはもはやかけらも残っていなかった。
フェーベルトがジーラディアを『身請け』してから一か月ほど過ぎたある日の朝。
伯爵夫人カルクレティアはふと目を覚ました。どうにも頭がぼんやりする。いつも目が覚めるとすぐ思考が冴える彼女にしては珍しいことだった。
自分の状態も妙だった。いつも着ているネグリジェを着てない。それどころか下着すら身に着けていない。その上、ベッドのふちに腰掛けている。こんな状態で眠っていたのか。
ふと下を見れば太ももの上に夫のフェーベルトの髪が見えた。どうやら夫を膝枕して眠っていたようだ。
そんなことはこれまで一度もしたことはない。目を閉じ、昨晩なにがあったかを思い出そうとする。頭に浮かぶのは夕食を摂った後、自室に戻ったところまでだ。それから先は霞がかかったように思い出せない。
ふと、妙な匂いがすることに気づいた。鉄さびのような濃厚で嫌な臭い。血の匂いだ。
目を開いて改めて周りを見ようとする。部屋の中はまだ薄暗い。わずかに開いたカーテンから漏れる朝日の光だけが光源だった。
それでも状況はわかった。
すぐ隣にはフェーベルトの身体が横たわっている。首元から流れた血がベッドを染めている。首から先は、ない。
膝の上に乗せていたのは、フェーベルトの生首だった。
「ひっ!?」
立ち上がり、ベッドから離れた。その動きで生首が床に落ち、ごろごろと転がった。
いったい何があったのか。なんで自分はこんな場所で衣服も身に着けず眠っていたのか。とても現実の出来事とは思えない。悪い夢でも見ているのではないか。思考は千々に乱れ、まるで考えがまとまらない。
そんなとき、何かが聞こえた。
――くすくす、くす。
お茶会の席で無作法を働いた下位貴族をなじるような、上品で意地悪な笑い声が聞こえた。この場にあまりに不似合いで、だからこそ不気味な声だった。
「誰!? 誰かいるのですか!?」
カルクレティアの呼びかけに応える者がいた。部屋の一角の暗がりから、すうっと染み出るように現れた。暗いはずなのにその姿はやけにはっきり見える。腰まで届く滑らかな銀の髪に、薄紅の瞳。身にまとうのは胸元が大胆に開いた青い薄手のドレス。
その顔に見覚えがあった。忘れるはずのない相手だった。
「あなたはネアティリア! どうしてこの伯爵家にいるのですか!?」
ネアティリアは答えない。ただあの底意地の悪いくすくすという笑い声を続けるばかりだった。
カルクレティアは注意深く相手を観察した。
「……そう。あなたはもう、死んでいたのね」
ネアティリアの身体は、透けて向こうが見える。暗がりなのにはっきりその姿が見える。魔力探知して確認もした。目の前にいるこの女は間違いなく幽霊だ。
カルクレティアは彼女を鋭い目で睨んだ。
「あなたが彼を殺したのね!」
「ええそうです。あなたの身体に憑りついて、風の魔法で首を切断しました」
「そんなことは不可能だわ! 確かにあなたは並の幽霊よりは強力なようだけど、わたしに憑りつくなんてできるわけがありません!」
貴族は高い魔力を持つ。高い魔力を持つ者は常に無意識で魔力をまとって身を守っている。並の魔力を持つ貴族であれば、下級な幽霊がその防御を突破して憑りつくことなどできない。
ネアティリアは元貴族の幽霊だけあって、普通のものより強力なようだ。それでもカルクレティアも魔力に優れた才媛だ。そう簡単に憑りつくことなどできないはずだ。そもそも貴族の屋敷には防御結界を張られている。屋敷に侵入することすら不可能なはずだ。
「普通なら無理だったでしょう。だからフェーベルト様にご協力願ったのです。簡単に憑りつけるよう、あなたに一服盛っていただいたのですよ」
「そんなこと、できるはずが……」
フェーベルトのことはよく知っている。伯爵家を簒奪するために彼の能力とその動向は常に把握していた。
既に伯爵家の実権をほとんど握った。フェーベルトに反抗するだけの気概も才覚もない。娼館に行ったとかいう報告はあったが、その程度の息抜きは必要と思って見逃した。カルクレティアの知る限り、フェーベルトが悟られることなく一服盛るなどできないはずだ。
しかし今、目の前にネアティリアの幽霊がいる。そして昨晩、夕食を摂って以降の記憶がない。フェーベルトが手引きしたというのなら、それらの異常に説明がついてしまう。
「ふふ。あなたにはお話ししましょう。わたしの復讐の物語を……」
戸惑うカルクレティアを前に、ネアティリアは余裕の態度を保ったまま語り始めた。
婚約破棄されたことでネアティリアの子爵家は没落した。その過程で悪徳な金貸しに騙され、『瀟洒なる止まり木』に売られてしまった。
それでもネアティリアは屈しなかった。復讐すると心に決めた。『瀟洒なる止まり木』の貴族専用の高級娼館だ。客から貴族社会の情報を聞き出すことができるし、こちらから情報を流すこともできる。それらをうまく利用すれば、復讐できるかもしれない。
娼婦となったネアティリアでは、伯爵となったフェーベルトに近づくことすら容易ではない。しかし彼の方からこの店に来てくれれば、殺害は可能だ。そんなことをすればネアティリアの身もただでは済まない。それでも、今の彼女ができる復讐はそれだけだった。
それは簡単にできることではなかった。害意を悟られることなく情報操作するのは難しいことだ。
それに娼婦としての仕事自体も大変なものだった。貴族専用の高級娼館だから、普通の娼館に比べれば客質はいい。それでもひどい客が来ることもある。言葉巧みに娼婦となったこと身の不幸を自覚させ、苦しむ彼女の姿を楽しむ客がいた。大金を積み、下品な行為を強制する客もいた。屈辱に枕を濡らす日もあった。それでもネアティリアはあきらめることなく、復讐のために行動し続けた。
しかし運命は理不尽だった。ネアティリアは流行り病に罹り、治療の甲斐なくあっけなく命を落とした。このままでは死んでも死にきれない。その一念で願った結果、彼女は幽霊としてこの世にとどまることとなった。しかし同時に『瀟洒なる止まり木』に囚われ、どこにも行けなくなった。
皮肉にも幽霊となったことで彼女の計画は進んだ。他の『小鳥』の部屋に忍び込み、以前よりも幅広く情報収集することができた。時には『小鳥』に憑りつき、こちらから情報操作することもできた。そうした努力の結果、フェーベルトを『瀟洒なる止まり木』に誘い込むことができた。彼は友人の紹介で偶然この娼館に来たつもりだが、ネアティリアの策略だったのだ。
フェーベルトが伯爵家で立場を失いつつあることは情報収集で知っていた。優しく接すれば誑かせると思った。復讐心を心の奥に沈め、娼館で身に着けた接客術で心を解した。そして持てる技術の限りを尽くし、フェーベルトを快楽の虜にした。
何度か通わせて身請けを促すつもりだったが、彼はたった一夜で落ちていた。身請けの資金どころか彼女を住まわせる屋敷まで用意していた。
そうして『瀟洒なる止まり木』の束縛を抜け出し、伯爵家に入りむことに成功した。
用心深く優秀なカルクレティアに憑りつくのは容易なことではなかった。だが、性欲に身を焼かれたフェーベルトは必死になって、しかし慎重に時間をかけて準備を整えた。食材の仕入れ先を抱き込み、料理人のうち数名を買収し、配膳係に細かな指示を出した。複雑な手順を挟み、それぞれが薬物を仕込んだという認識を抱かないよう行動させた。カルクレティアの皿だけに薬物が入るよう仕組んだ。それも、皿と食材に別々に薬物を仕込んだ。それらは単体では無害だが、料理として皿に盛りつけられた時点で効果を発揮するという特別なものだ。
こうしてカルクレティアに悟られないまま、夕食に一服盛ることに成功した。彼女は魔力的な防御を無くすほど深い眠りに落ちた。そしてネアティリアは、カルクレティアの身体に憑りつくことができたのだ。
「あなたが本当に復讐したかったのは、わたしだったんですね……」
「当然じゃありませんか。愚かなフェーベルトも許せなかった。でもすべての運命を狂わせた泥棒猫。あなたのことが一番憎いに決まっているじゃないですか」
事情を理解したカルクレティアに対し、ネアティリアは恨みをはっきりと言葉にした。
フェーベルトに復讐するだけなら、わざわざ伯爵家に入る必要はない。娼館に彼を招き入れさえすれば、殺害することも可能だっただろう。
しかし、それではカルクレティアが破滅するには至らない。彼女は既に伯爵家の実権を握っている。フェーベルトを失ったとしても立て直すことは可能だ。むしろ彼女一人が伯爵家のすべてを手に入れることになる。
だが、カルクレティアの身体に憑りついてフェーベルトを殺害すればどうなるか。幽霊が憑りついたという痕跡は容易には見つからない。カルクレティアに夫殺しの罪が着せられることになる。
フェーベルトは命を落とし、カルクレティアは罪人として裁かれる。憎い二人を同時に破滅させる復讐だ。
カルクレティアは歯噛みした。
実権を奪われ戦う意思すら失いつつあったフェーベルト。そんな男が性欲を満たすためだけにここまでの能力を発揮するとは想定外だ。
婚約者を奪い取られたみじめな令嬢ごときに、こうも見事にやり返されるとは思わなかった。
カルクレティアは敗北を悟った。だが、ネアティリアの復讐はまだ終わりではなかった。
「そうそう、あなたにはもうひとつプレゼントがあるんです」
「なんですって……?」
「昨晩の記憶を差し上げます」
ネアティリアがぱちんと指を鳴らすと、突如カルクレティアの頭の中に、昨晩自分の身体に起きた全ての記憶が、肉体的実感を伴ってよみがえった。
それは狂乱の宴だった。日頃の鬱憤と、ため込んだ性欲を叩きつけるフェーベルト。その全てを受け止め、それ以上の淫乱な行為で応えるカルクレティアの身体。
性欲に溺れた貴族が安値で買い上げた奴隷に強いるような、淫靡で下劣な行為の数々。そんなことを、自分の全身で行った。
なによりおぞましいのは、それらのことに快感があったことだ。自分の身体があんなことをして悦んでいた――そのことが、なによりもカルクレティアのプライドを傷つけた。
「よくも……よくもこのわたしの身体であんな真似をっ……!」
羞恥と怒りのあまり、カルクレティアの顔が赤くなる。その顔は醜く歪み、悔しさのあまり涙すらこぼしている。
「そう! その顔! あなたの悔しがるその顔が見たかった! 貴族としての尊厳を徹底的に貶め絶望させる! それが一番やりたかったことなんです!」
「この淫乱な売春婦め!」
「色気で男を奪ったあなたに、そんなことを言われるなんて心外です。でも、そうですね……誉め言葉として受け取っておきましょうか。うふっ! うふふふっ!」
にらみつけるカルクレティア。上品に、しかし残酷に笑うネアティリア。
カルクレティアの怒りに火が点いた。魔力を練り、攻撃魔法を放とうとする。少々力はあってもたかが幽霊1体だ。カルクレティアの魔力なら一撃で倒すことができる。
そのとき、ドアを叩く音と共に声が響いた。
「伯爵様! 奥様! ご無事ですか!」
伯爵家の執事長の声だ。
カルクレティアの顔がさっと青ざめた。執事長がすぐに入ってくると確信したからだ。
昨晩の記憶の中、男女の交わり以外にもおぞましいことをしていた。切断したフェーベルトの生首を持って、一度部屋を出たのだ。部屋の外に血痕を残すためだ。異常を察した執事長は、ドアを押し破ってでも入ってくるだろう。
時間があれば現場を整えて他殺に見せかける工作もできたかもしれない。だがそれはもう不可能だ。これまでの会話も時間稼ぎ。全てネアティリアの策略だったのだ。
「……これでわたしの復讐は完了しました。先に地獄でお待ちしています。急ぎませんから、あわてずゆっくりお越しください。それではごきげんよう」
「ま、待ちなさい!」
ネアティリアは優雅なカーテシーを披露すると、すうっと消えてしまった。魔力探知してもどこにも存在が感じられない。本当にあの世に行ってしまったようだ。
そして、扉は開かれた。ベッドの上にある首なしの死体。床にころがるフェーベルトの生首。そして一糸まとわず、血に汚れ立ちすくむカルクレティア。
部屋の惨状を目にした執事長とメイドたちは、驚きに目を見開き声を失った。
伯爵自らが幽霊を呼び込み夫人に憑りつかせた。そして憑りつかれた夫人が、伯爵を殺害した――そんな荒唐無稽な話を、何の証拠もなしに信じる者がどこにいるというのだろう。
強権を盾に使用人たちを口止めすることはできるかもしれない。だがこれほどの惨状を目の前にして黙っていられるわけがない。何人かは目を盗んで騎士団に駆け込むだろう。いずれ罪に問われることになる。
「ちくしょう……!」
カルクレティアは伯爵家をほぼ手中に収めた。それほど優秀な彼女にも、もはや打つ手はない。悔し気に、ただ悪罵を吐き捨てることしかできなかった。
終わり
2025/11/25 20:30頃、12/3
読み返して気になった細かなところをあちこち修正しました。




