【哲学】「できないことは、できない」──自責と思いやりのあいだで
ずっと誰にも言えなかったことを、ここに残したいと思います。
精神疾患で苦しんでいる人には、少し刺激的な内容かもしれません。
それでも、同じように苦しんできた誰かに届くことを願って書きます。
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■「羨ましい」と思ってしまう苦しみ
人が羨ましかった。
病名がついた人を見ると、その人が苦しんでいるのに、
なぜか自分の中に嫉妬が生まれるのが怖かった。
「どうして自分は違うんだろう」
「なんで私は、何も言えずに我慢してるんだろう」
そう思いながら、私はずっと自分を責めてきた。
他人を羨むことすら“罪”だと感じるくらいに。
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■「全部、自分のせい」と思っていた頃
私が苦しいのは、誰のせいでもなく、自分のせい。
そう信じていた。
誰かを責めたくても責められなかった。
親のせいにもできなかった。
だから、全部自分の中で完結させて、
「生まれた自分が悪かった」という答えに辿り着いた。
それでも、死ねなかった。
だから、病院へ行った。
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■「病名をもらう」という選択
鬱、適応障害、躁鬱、解離性障害。
いくつもの診断を経て、ようやく私は “病気” という名前をもらった。
それは、恥ではなく、救いだった。
薬を飲み、時間をかけて、少しずつ呼吸が戻ってきた。
「病気」という言葉が、自分の責任をすべて背負っていた肩から
少しだけ下りていった。
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■「自責」は優しさの裏返し
私はずっと、“自分を責める”ことで生きてきた。
でも、それは「他人に迷惑をかけてはいけない」という
他人の声を自分の中に取り込んでいたからかもしれない。
つまり、自責思考は他人軸なんだと思う。
できないことは、できない。
それでも「やらなきゃ」と思ってしまうのは、
他人の期待や社会の基準に縛られているから。
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■性善説と性悪説の間にいる私たちへ
最近、私は“性善説”と“性悪説”について考える。
•性善説 → 自分を責める(優しすぎる人)
•性悪説 → 他人を責める(守るための人)
どちらも必要な存在だと思う。
でも、真面目でまっすぐな人ほど性善説に傾き、
自分を責めすぎてしまう。
私はいま、少し性悪説寄りの場所にいる。
他人を責めることを覚えたというより、
「全部自分のせいにしない」ことを覚えた。
それは、悪ではなく “回復” の一歩だと感じている。
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■最後に
自責できる人は、優しい人です。
その優しさはきっと、誰かの痛みを理解する力になる。
でも、どうか、限界まで責めないでください。
責めるより、許す方がずっと強い。
できないことは、できない。
その言葉を、もう少し優しく受け止めていけたら。
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もし今、あなたが「自分を責めてばかり」で苦しいなら、
その責める力はきっと“他人を思いやる力”でもあります。
いつかその優しさを、自分に向けられますように。




