ニンジンの呪い
子育てと仕事の両立や、母親、妻としての役割に、もやもやしている女性に読んでもらえたら嬉しいです。
やっと少し時間が空いたので、リモートワークの合間に、マイはリフレッシュのコーヒーを堪能する。
現代の母親は、なんでもこなせないと母親業が務まらないと富に思う。
今や夫婦世帯の7割は共働きで、子どもがいても何らかの形で働き続ける女性が多い。
なかには、協力的な夫もいるだろうが、まだまだ日本は、女性に家事も子育ても大きな負担がのしかかっている。
マイは、結婚しても子どもができても、自分の専門を生かして、やりがいのある仕事を続ける、経済的に自立することを目指してきた。
自分自身でできる努力は全てしてきたつもりだったが、「何が足りなかったんだろう」とふと感じるときがある。
まだ高校生で実家で暮らしていたころ、母親に「あなたは長女だから、下の妹もいるし絶対国立大ね」と言われ続けた。
そういうものかと思って、受験勉強をしていたが、プレッシャーでだんだん食事がのどに通らなくなり、体重は高3のとき35キロを切った。
それでも、「国立大学に落ちたら私に明るい未来はない」という恐怖に駆られて必死で勉強し、第一希望の国立大に無事に合格することができた。
「将来は人のために役に立つ仕事がしたい」と児童心理学を学んだ。
私が育った田舎では、勉強ができる子は目立ってしまい、なんとなく居心地の悪さを感じた。
大学卒業と同時に実家を離れ、母親の顔色をうかがうことが減ったのはよかったが、母親は、公務員至上主義だったので、ばかのひとつ覚えみたいに「卒業後は、とにかく公務員になれ」と言われて、実家に帰るたびにその話を聞くと正直うんざりしていた。
そもそも、世の中に絶対、安心、安定などありえない。
安定や安心を望めば望むほど、人は不安定になっていく。
マイは、子どもの頃から感受性が鋭くて、周りから「大人びた雰囲気だね」と言われていた。
周りの大人の言動を冷静に観察するような子どもだった。
いや、本来は明るくて、社交的な性格なのだと思っているが、母親が世間体を過剰に気にする人だった影響も大きい。
母は、おしゃべりが好きな人や社交的な人を陰では小馬鹿にしていた。
子どもの私は、とにかく母に嫌われたくなかった。
母に言われるように、「よその人には余計なことは一切話さない」と頑なに守ってきた。
変わる努力はあれこれ試してきたが、大人になった今でも「自分らしさ」とずいぶん長い間、葛藤している。
子どもの頃にのびのび、親や友だちに振舞えなかったことで、大人になっても本当の気持ちを誰かに話していいのか、いつも戸惑ってしまう。
だから、その想いを仕事に生かしてきた。
「自分と似たような思いをしてきた子どもたちを助けたい」とずっと思っていた。
子どもが生まれる前までは、児童精神科がある専門医療機関で子どもや保護者の相談に乗っていた。
過去を思い出し、もやもやすることあったが、「目の前の人を助けたい」という思いで、やりがいも感じていた。
子どもが生まれる前は、キャリアも大事に子育てと両立しようと、将来役立ちそうな資格や免許も幾つも取った。
もともと勉強が得意だったマイには難しいことではなかった。
しかし、母が言うような安定というものはこの世に存在しない。
子どもがいても、ずっと働けるように、自分自身のキャリアや環境は整えてきたが、子どもに喘息の持病があり、苦しむ子どもをみて、「他の人を助ける前に自分の子どもを助けることが優先なのでは?」と疑問を持った。
マイ自身は大人になってから喘息の既往がわかったが、咳が止まらず、苦しい思いをすることがあったので、まだ小さい子どもが苦しむのに耐えられなかったし、体質が遺伝だと考えると自責の念を感じた。
「仕事は子どもが成長すればまた復帰できる」、「私がしてきた努力は簡単には消えない」とその時は思っていた。
子育てに専念しようと心に決めたが、ワンオペ育児は想像を絶するものだった。
息子はかなり活発で、40近くで高齢出産の私には、息子の命を守ることに必死だった。
外遊びから帰り、時には、死んだように倒れこんでしまうことがあり、はっとして、部屋を見渡し、息子の姿を探し回ることも何度かあった。
ニュースでは痛ましい事件も目にしていたので、家の中の危険にも隅々まで配慮し、動きの激しい息子から目を話さないようにした。
夫はマイが仕事を辞めた途端、モラハラ夫に変貌した。
ひとりで経済を担っていくのが不安だったのだろうと今なら思えるが、ぐったりしているマイと癇癪を起こしている息子を見て、「この家は終わりだな」と人ごとのように言い放ったことは一生忘れない。
また、夫は昭和の小姑のように、「部屋が汚い」、「食事が手抜き」など、帰宅してすぐにあちこちあら探しをして、文句ばかり言っていた。
マイは、その背中に「二度と帰って来るな」と憎しみを感じた。
夫に言い返したところで険悪になるので、ネットで見つけた「憎い人への復讐の呪い」をこっそり試してみた。
それは、「ニンジンに憎い人の名前を彫り、それを食べる」ということだったので、手軽にできるし、「憎い人を食らって憎しみを消す」という方法が興味深かった。
早速、ニンジンに夫の名前を彫り、その日は忘れていたら、夫の名前を切り刻んだ場所が痛んできたので、慌ててその日は肉じゃがにした。
「憎い夫をまるごと食ってやった」と思ったら、それだけでもせいせいした。
モラハラに悩んでいる世の中の妻たちに知らせてあげたいと思ったが、親しい友人に話したら、引かれそうなので誰にもまだ話したことがない。
そして、息子が小学校に入れば、やっと仕事に復帰できると、希望を胸に頑張っていたのだが、息子の上の学年が学級崩壊に近かったので、息子の学年は厳戒態勢になった。
ピカピカの1年生の担任なのに、先生方の笑顔が少なく、しっかりしなければという緊張感があり、保護者でさえ威圧感に圧倒された。
マイは、昭和の小学校は先生は厳しくても、その陰に熱意があり、子どもへの愛情も感じられたので、怖くはなかったのに、と違和感を持った。
昭和の厳しさとは違う、「小1のうちに荒れないように、しっかり言うことを聞かせないといけない」という先生方の強迫的なプレッシャーをひしひしと感じて怖かった。
息子や周りのママさんから、「クラスの雰囲気になじめない子が複数いる」と聞いてはいたが、のびのびした幼稚園で過ごした息子は、小1のGW明けには登校しぶりになった。
それでも、そのうちなじむなだろうと、なんとか行かせていたら、本格的な不登校になってしまい、約2年間、午後数時間だけ学校で過ごすスタイルになった。
高学年になり、やっとみんなと同じように登校できるようになったが、今度はコロナが流行り出し、突然の長期休校が増えた。
マイは、息子が不登校を抜けたタイミングで、リモートワークもできる仕事を見付けたが、コロナ休校になると、集中して仕事ができない。
モラハラ夫に対抗するためには、経済的に自立することだとマイはわかっていたので、何が何でも仕事がしたかった。
コロナ休校中のリモート授業も息子に発破をかけながらサポートした。
授業寸前に息子が他のことをしていたりして、慌てて他のクラスとつないでしまい、隣のクラスの先生から笑顔で「ここは、3組ですよ~」と指摘され、「どうも失礼しました!」と恥ずかしい気持ちになったこともある。
まあ、そんなことは年単位の不登校で家で荒れていた息子にかかわってきたマイには、どうってことはなかった。
子どもの不登校を経験した親は、過剰に子どもの言動にナーバスになってしまう。
特に新学期や中学や高校に上がる時は、「また、あの荒れた状態になったら、もう耐えられない」とかなり警戒した。
息子は、中学では厳しい体育教師に目を付けられ、他の子がスルーされることも、口うるさく注意された。
朝起きるのが遅いと、「もし、また不登校になったら?」と心がざわざわした。
でも、息子は友だちには恵まれていたので、中学は感染症で休む以外は皆勤だった。
そして、ラッキーだったのは、受験がある中3の担任は今までにないタイプのおおらかな先生だったことだ。
親子でピリピリする受験期に、几帳面すぎる先生に当たったら、親子で立ち直れなくなると、とても不安だった。
息子は、自分のやりたいことがあり、高校からは離れて暮らしている。
さんざん手をかけさせて、自分はさっさと家を出てしまうなんて、母親は虚しいと思う。
なぜ、家に残ったのが、手はかかったが大切な息子ではなく、家庭のピンチに無関心なモラハラ夫なのか、深く考えると苛立って仕方がない。
「呪術者でなければ、呪いをかけても法には触れない」というネットの記事を以前読んだことがある。
ニンジンに名前を彫ったくらいで法に触れるとは思えないし、私は呪術者ではない、とマイは思い、「また、ニンジンでもたくさん買って、ストレス発散しようかなあ」とぼんやり考えてみる。
いろいろ、苦労も嫌なこともあったが、この経験は全て自分の仕事や生活に生かせている。
子どものころから培った察しの良さが、ママ友づきあいでも役に立っている。
マイには、息子が小さいころから親しくしている信頼できるママ友が数人いる。
その人たちには、子育てで困った時に親切にしてもらえて、本当に感謝している。
ときおり、「ママ友のお子さんは、まだ一緒に暮らせているのに、どうしてうちの息子だけ遠くへ行ったんだろう」と少し涙が出そうになる。
でも、目的があって遠くの高校を最終的に選んだのは息子なので仕方がないと、マイは自分を納得させる。
人生は、いろいろあるけれど、苦しんだ分、得るもののあるのだろうか。
苦しくてもわずかな光を求めて、それを頼りに乗り越えてきたこともたくさんある。
あのまま、あきらめてしまったら、マイも息子も違う人生を過ごしていただろう。
今、いる場所が若いころに自分が思い描いていたものと違っていても、私は今できることを確実に積み重ねてきた。
そして、陽当たりのよい南向きのマンションに住んでいる。
私は、ほどよく光が差し込むこのリビングを仕事場にしている。
この空間が大好きだが、経費を折半したにもかかわらず、名義はモラハラ夫の名前になっている。
ニンジンに呪いをかけても、夫が目の前からいなくなることはないことは、現実主義のマイはよくわかっている。
息子がくれた時間で仕事を頑張り、自分の人生を見直して、私の人生の邪魔になるものは、そろそろ捨ててもいいのでは?とマイは思う。
苦しい時に寄り添ってくれなかった人に限って、自分が苦しい時は大騒ぎをし、自分がかわいそうと被害者ぶるのが本当に不快だ。
私は息子の学費も稼がないといけないし、モラハラ夫にかまってはいられない。
ニンジンに名前を刻むのさえ、ばかばかしく、時間がもったないと思う。
そう思えた時、やっとモラハラ夫の呪縛から逃れられた気がして、すっきりした。
女性の人生は、イベントが多く、その都度、生き方を問われます。
「これで私の人生設計は万全!」ということはありません。
もがきながらも、自分で自分の人生を切り開いていく強さを描きたいと思っています。