その5「QRコード」
■ プロローグ: QRコードと現代社会
QRコード。その白黒の小さなモザイク模様は、現代のどこにでも存在する。当初は単なる情報の格納技術に過ぎなかったが、スマートフォンが普及したことで一気に私たちの日常に溶け込んだ。買い物、飲食店でのモバイルオーダー、バスや電車の時刻表、さらには広告や観光地の案内板に至るまで、QRコードは便利な入口としての地位を確立している。
この技術の利便性は、多くの人々にとって欠かせないものとなっている。例えば、飲食店ではメニューの閲覧や注文、支払いを一括してQRコードで完結させることができる。観光地では、パンフレットを配布する代わりにQRコードを提示するだけで、訪問者は詳細な情報をスマートフォンで閲覧可能だ。交通機関では時刻表や路線図をQRコードで提供し、紙媒体の負担を減らすことにも成功している。
だが、その利便性の裏にはリスクも存在する。
QRコードの仕組みはシンプルだ。模様をカメラでスキャンすると、埋め込まれたURLやテキストが読み取られ、スマートフォン上に表示される。しかし、読み取る側にはその内容が何であるかを事前に確認する術はない。無害な案内ページかと思いきや、悪意あるリンクに誘導されるケースも存在する。知らず知らずのうちに、個人情報が盗まれたり、不正な決済が行われたりする可能性が潜んでいる。
近年、QRコードを悪用した詐欺事件が急増している。特に目立つのはQRコード詐欺と呼ばれる手口だ。公共の場所や店舗に設置されたQRコードの上に、偽のコードを貼り付けることで、利用者を詐欺サイトや不正な決済ページに誘導する。特にモバイル決済が普及する中で、こうした事件は深刻な社会問題となっている。
QRコードは確かに便利だ。しかし、その利用には注意が必要である。コードを読み取る前に、その出所や設置場所をよく確認しよう。また、知らない場所や信頼できない環境での使用は慎重であるべきだ。この小さな白黒模様の中には、利便性と危険性の両方が同居している。
■ 第1章: 不可解な体験
高野修一は地方新聞の記者だ。地元に根ざした話題を追いかけ、時には地味だが住民の生活に密接する記事を書くのが彼の日常である。この日も、地域の観光キャンペーンの取材を終えた帰り道、評判の良いレストランに立ち寄った。
店内は落ち着いた雰囲気で木の香りが漂っており、壁には地元の風景写真が飾られている。夕食には少し早かったが、軽く食事を済ませて帰るにはちょうど良さそうだった。案内されたテーブルの上には、今どきのレストランらしく、モバイルオーダー用のQRコードが貼られていた。
高野はスマートフォンを取り出し、QRコードをスキャンした。普段ならメニューが表示されるはずだ。しかし、スマートフォンの画面に現れたのは、真っ黒な背景に赤い文字で浮かび上がる不気味な言葉だった。
「今、お前は呪われた」
思わずスマートフォンを持つ手が固まる。悪質なジョークか、あるいは何かの間違いだろうか。高野は眉をひそめ、周囲を見渡した。店内では他の客たちが穏やかに食事を楽しんでいる。どうやら、この奇妙なメッセージを目にしているのは自分だけのようだ。
「すみません」
近くにいた店員を呼び、QRコードの件を伝えると、彼女は驚いた様子でコードを確認した。そして少し戸惑いながら、こう言った。
「こちらのコード、本来のものではないようです。何か別のシールが貼られているみたいです」
店員は手早く偽のQRコードを剥がし、くしゃくしゃに丸めて自分のポケットに押し込んだ。「本当に申し訳ありません」と深く頭を下げた後、「うちのおすすめはハンバーグです。ぜひお試しください」と付け加えて、少し申し訳なさそうな表情を浮かべながらテーブルを離れていった。
高野は再度、本来のRQコードに対してスマートフォンをかざすと、ようやく通常のメニューが表示された。だが、先ほどの奇妙なメッセージは脳裏に焼き付いて離れなかった。
食事が運ばれてくる間、高野は周囲の様子を改めて観察した。店内はそれなりに賑わっているが、誰も自分のような体験をしている様子はない。厨房からは軽快な調理音が聞こえ、ウェイトレスたちは忙しく動き回っている。静かなBGMが流れる中で、さっきの出来事だけが異質に感じられた。
少し待つと、店員がおすすめしてくれたハンバーグが運ばれてきた。ジューシーで香ばしい匂いが立ち上り、一口食べるとその美味しさに驚いた。最初は「呪われた」という赤い文字が頭をよぎり、味を感じる余裕がなかったが、次第にその感覚は薄れ、ハンバーグの旨味に集中できるようになった。肉の柔らかさと特製ソースのコク深い味わいが絶妙で、高野は思わずフォークを進める手を止められなかった。気がつけば、皿の上はきれいに片付いていた。
食事を終える頃には、あの奇妙なメッセージのことはすっかり忘れてしまっていた。高野は満足感に包まれながら、店員に礼を言いつつ会計を済ませ、店を後にした。
■ 第2章: 迫りくる不運
月曜日の朝、高野はいつものように新聞社のデスクに向かい、取材内容を記事にまとめていた。だが、保存ボタンを押した瞬間、パソコンがフリーズし、画面が真っ暗になった。
「おい、ちょっと待てよ!」
再起動を試みるも、データはすべて消えていた。締め切りが迫る中、バックアップがないことに気づき、顔面蒼白になる高野。編集長に事情を説明するも、返ってきたのは厳しい一言だった。
「プロなら締め切りを守れ。それだけだ」
一から記事を書き直すしかない状況に、彼の肩にはいつも以上の重圧がのしかかっていた。
翌日の昼、高野は昼食を取るために近所の喫茶店を訪れた。いつも通りの落ち着いた空間に癒されようと訪れたのだが、店の入り口まで来たタイミングで、突然大きな音とともにガラスのドアが外れて倒れてきたのだ。
「危ない!」
反射的に飛び退いた高野は、間一髪でガラスの直撃を免れた。割れたガラス片が足元に散らばり、店員が駆け寄ってくる。
「本当に申し訳ありません! お怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
その場を離れた後、高野は『こんなことあるか?』と疑問に思いながら、先週見た呪いのサイトのことを思い出していた。最近の出来事が偶然の積み重ねとは思えなくなり始めた。
水曜日、高野は取材先に向かう途中、車で赤信号に停車していた。ラジオの音が静かに流れる中、ふとした考え事をしていたその瞬間だった。
後方から突如、激しい衝撃が走る。振り返ると、ブレーキをかけ損ねた車が高野の車に追突していた。
「すみません、大丈夫ですか!?」
車から降りてきた運転手は、平謝りで事情を説明するが、高野の車の後部は大きく損傷していた。幸い彼自身は軽いむち打ちで済んだものの、予定していた取材は大幅に遅れることとなった。
「どうしてこんなことが続くんだ……」
高野の頭には、あのQRコードの出来事が再び浮かび上がってくる。偶然にしては不自然な連続性を感じざるを得なかった。
金曜日の夜、自宅でパソコンに向かっていた高野は、背後から微かな物音に気づいた。振り返ると、何も変わった様子はない。しかし、また音が聞こえる。まるで誰かが家の中を歩き回っているかのようだった。
「……気のせいだろう」
そう自分に言い聞かせながらも、不安が消えない。誰もいないはずの部屋の静けさが、逆に彼の心を揺さぶった。
「やはり、あのQRコードと関係があるのか……?」
高野の脳裏に、真っ黒な画面に赤く浮かび上がった「お前は呪われた」という文字が再び蘇る。不安と疑念が、静かに彼の心を支配し始めていた。
高野の一週間は、これまで経験したことのないほどの不運に彩られていた。そして、それが何か大きな意味を持つのではないかという予感が、確信へと変わりつつあった。
■ 第3章: 匿名掲示板の噂
自宅の静かなリビング。高野修一は、パソコンの画面に目を凝らしていた。ここ数日続く不運の連鎖をどうにか説明する手がかりを見つけようと、ネット検索に没頭している。
「QRコード 呪い」「不運 連続」といったキーワードを入力し、次々と検索結果をクリックしていく。すると、匿名掲示板の投稿が目に留まった。
『呪いのQRコード読み込んだら人生終了したんだがwww』
そのスレッドには、同じような体験をしたという人々の書き込みが並んでいた。
『俺もあのQRコードを読み込んだ後、不運が続いてる。パソコンが壊れたり、事故に遭いそうになったり……』 『やばいよ、俺も似たようなことが起きてる。これってマジで呪いじゃないの?』 『解決策としてQRコードを3人に読み込ませると他人に呪いが移るらしい』
「他人に呪いを移す?」
高野は眉をひそめながらその一文を読み返した。呪いを他人に移すという発想に、背筋がぞっとするものを感じた。それが事実なのか、単なる噂なのかは分からない。しかし、今の自分が追い詰められている状況では、信じたくなる気持ちも湧いてくる。
掲示板の書き込みには、呪いのQRコードの画像がアップロードされていた。それをダウンロードし、自分で印刷して貼ればいいという。
「これが……呪いのQRコード……」
高野は恐る恐るリンクをクリックし、画像ファイルをダウンロードした。そのコードは一見ごく普通のQRコードで、白い背景に黒い模様が整然と並んでいるだけだった。だが、そのシンプルさがかえって不気味さを際立たせているように感じた。プリンターから印刷した紙を手に取ると、高野はしばらくじっとそれを見つめた。
コードを読み取る気にはなれなかった。またあのサイトが表示されたらと思うと、冷静ではいられない。高野はその紙を机の端に置き、深いため息をついた。しかし、その紙が目に入るたびに掲示板で読んだ解決策が頭の中をぐるぐると回る。
『QRコードを読ませれば呪いが他人に移る』
高野は改めて掲示板のスレッドを読み返した。中には実際に貼り付けたという投稿者の体験談もあった。
『俺は街中の自販機とか掲示板に貼り付けた。その後、不運はピタッと止まった』『100カ所貼ったったwww』 『3人読ませればいいらしい。どこに貼るかなんて気にしなくていいみたいだ』『スマホのロック画面に設定した草』『レストランのQRコードの上に貼っておいた』
読み進めるにつれて、噂が本当かもしれないという思いが強まっていく。それでも、他人に呪いを押し付けるという行為には抵抗があった。
「自分が楽になるために他人を犠牲にするのか……?」
机に肘をつき、頭を抱え込む高野。追い詰められた状況ではあるが、自分の行動が他人に影響を及ぼすかもしれないという事実に葛藤を覚えていた。
夜も更け、静まり返った部屋で、彼はQRコードの紙をじっと見つめた。ワンクリックでもっと簡単に印刷して、どこでも貼ることができる。しかし、それを実行する決断がどうしてもつかない。
「本当にこれで終わるのか?」
疑念と恐怖、そして少しの希望が入り混じる中で、高野はひたすら時間を無駄にしているような気がしていた。決断を先延ばしにするたびに、次の不運が訪れるのではないかという不安が膨れ上がっていく。
そして、午前2時を回った頃、彼はようやく椅子から立ち上がり、QRコードの紙を棚の中にしまい込んだ。
「もう少し考えよう……」
不安と葛藤を抱えながらも、彼はその夜、なんとか眠りについた。しかし、彼の中で答えはまだ出ていなかった。
■ 第4章: 実行
土曜日の朝、いつもより遅めに起きた高野修一は、携帯電話の着信音で目を覚ました。画面には「母親」と表示されている。眠気を払いながら応答すると、聞こえてきたのは父親の弱々しい声だった。
「修一、ちょっと大変なことがあって……」
母親が階段を踏み外して足を骨折したという。家の近所の病院に運ばれ、入院することになったらしい。母親も急な怪我で痛みと不安を感じており、父親も不安げだ。高野は急いで着替えて実家へ向かった。
病院のベッドに横たわる母親の姿を見た瞬間、高野は胸が締め付けられるような思いをした。隣に座っている父親も疲れた表情を浮かべており、高野はこれが単なる偶然ではないような気がしてならなかった。
「あのQRコード…」
頭を振ってその考えを振り払おうとしたが、数日前からの不幸の連続と今の状況が重なり、胸に湧き上がる罪悪感を押し殺すことができなかった。
家に戻った高野は、机の上に置かれたQRコードの印刷物をじっと見つめていた。その紙には、白い背景に整然と並んだ黒い模様が描かれている。掲示板の書き込みにあった「3人に読ませれば、呪いが他人に移る」という言葉が頭をぐるぐると回っていた。
「これを貼れば……母さんも俺も、呪いから解放されるのかもしれない。」
だが、それは他人を犠牲にする行為だ。その事実が高野の中で葛藤を引き起こしていた。しかし、自分だけの問題ではなくなった今、彼はついに動き出す決断をする。
高野は手元のQRコードを小さく10個印刷し、一つずつ切り分けた。そして、ノリと一緒にポケットにしまい込んだ。高野は車に乗り込み、人目につかない場所を探して街を巡り始めた。
最初に向かったのは、近所の古びた公園だった。遊具も老朽化しており、平日の昼間ということもあって人影はほとんどない。高野は周囲を見回し、掲示板の角にQRコードをそっと貼り付けた。
「これで一つ……」
次に向かったのは、人気のない路地裏。古いビルの壁にQRコードを貼り付けると、高野は少しだけ安堵の表情を浮かべた。その後も人目につかない場所を選びながら、次々とQRコードを貼り付けていった。
5枚目を貼り付けた頃、高野はふと立ち止まった。
「これで本当にいいのか……?読まれないところにあっても意味がないんじゃ?」
最後にQRコードを貼り付けたのは、駅のポスターだった。ホームの柱に貼られたイベント案内のQRコードが目に入り、高野はそれが人目につく絶好の場所だと判断した。ポスターの上に自分のQRコードをそっと重ねると、心の中で小さく息を吐いた。
「これで終わりだ……」
QRコードを貼り終えた帰り道、高野の胸には不安と罪悪感が入り混じった感情が渦巻いていた。これで本当に呪いが解けるのか、そして自分が取った行動が誰かにどんな影響を及ぼすのか――その答えを知る術はなかった。
その夜、高野は眠りに落ちる前に、ここ数日の出来事を振り返っていた。不安と後悔は完全には消えないものの、心のどこかで一つの重荷が下りたような感覚があった。
■ エピローグ
その後、高野はこれまでのような不吉な予感に襲われることがなかった。母親からも「治療は順調だ」との連絡が入り、少しだけ安堵した表情を浮かべた。
「本当にこれで終わったのかもしれない……」
不運な出来事は止まった。しかし、それがQRコードを貼り付けたからなのか、単なる偶然なのか、高野には知る由もなかった。ただ、自分が取った行動がどこかで誰かに影響を与えているかもしれないという不安は、心の奥底に今も残り続けている。