幕末「疾」風録《松平容保の章》
松平容保。彼は生涯、孝明天皇と徳川将軍に『忠義』を貫く。だが、
激しい時代の流れの中に、その『忠義』は、報われることはなかった。
容保は晩年、こう独白している。
「かつて私は会津藩主でした。私の一言で、藩士は命を捨てる覚悟をしたものです。ですが、今の私は、昔の家臣からの仕送りで暮らしています」
1852年。容保は18歳の春に会津藩主の地位に就いた。養父の死によって、その名跡を相続したのだ。
容保は美濃高須の城主の六男に生まれたが、12歳で会津藩主松平家の養子に迎え入れられる。
その頃の彼は、家中の誰もが噂するほどの美少年であったらしい。その後、
1862年。幕府は容保を京都守護職に任命した。容保28歳。
だが、家臣たち揃っては辞退するよう進言する。今は乱世。幕府の屋台骨はぐらついている。このような時世に、そのような、お役目に就くことは、
『薪を背負って、火の中に飛び込むようなもの』
と、特に城代家老・西郷頼母は猛反対した。
だが、会津藩には藩祖である保科正之の遺訓があり、
『将軍家に忠誠を尽くし、盛衰存亡を共にする』
ことを家訓としてきた。
容保と家臣たちの一致した結論は、
『今は義の重きをとり、将来の行方を論ずべきではない。ただ我々は、京都を死に場所としよう』
覚悟は決まり、君臣は相抱いて、涙を流したという。
「京都守護職の私は、武威を誇っていました。藩兵の活躍はめざましく、不逞の浪士たちは、恐怖に震えたようです。京の町の人たちは、会津中将様のお陰です。と、私を褒め称えました」
容保が京の町を視察するさいは、白馬に乗り、真紅の陣羽織を羽織っていた。
配下に加えた新選組を従え、馬の口取りは局長の近藤勇が勤める。
美男子の容保を一目見ようと、通りには町娘があふれた。
京都守護職の容保は、孝明天皇や将軍・徳川家茂からの信任も厚かったようだ。
禁門の変では長州藩の軍勢を駆逐する活躍を見せた。この頃の容保は、京都の政治の中心にいた。
だが時代の流れは、容保を選らばなかた。
「ですが、私の勢いがあった時期は、わすかな間にでした。次々に壁が立ちはだかり、私の持つ権力など、蟷螂の斧に過ぎないと気付いたのです」
1866年。7月。21歳の若さで将軍家茂が急死。12月には孝明天皇も崩御してしまい、容保は後ろ楯を失くす。
1867年。大政奉還。最後の徳川将軍になる慶喜は、政権を返上した。
1868年。戊辰戦争勃発。新政府軍と旧幕府軍が、鳥羽伏見で激突。
「祇園精舎の鐘の音を聞いているようでした。敵の大砲と銃声が響きます。私は藩主として、武士の鑑のごとく振る舞いました。藩士は刀や槍で戦い、私の盾となって死んでいきます」
この鳥羽伏見の戦いで、容保たち旧幕府軍は総崩れになる。
「菩提寺の和尚様、どうか勇敢に死んでいった彼らのために、お経を唱えて下さい」
敗戦必至の状況なか、容保は家臣を戦線に残し、徳川慶喜と共に軍艦で江戸に逃れた。
「なぜだか、よくわかりませんが、私は、この艦内で、亡き妻のことを思い出しました。元々病弱であった妻は、18歳の若さで死にました。それ以来、私は私でなくなったような気がします。それはまだ、私が藩士の地位にいた頃の話でした」
この戊辰戦争の最中に、新政府軍は天皇より御旗を授かり、官軍となる。
徳川慶喜は新政府に恭順の姿勢を示して、江戸城は戦わずして降伏開城した。容保も、慶喜の恭順姿勢に従い、会津に帰郷、謹慎している。
しかし、会津藩内では徹底抗戦の論調が支配的であった。
すでに藩主の容保にも、戦いを止めることはできない。
「邪悪で荒々し嵐が、会津に吹き荒れました。砲撃で城壁が吹き飛び、銃弾が兵を殺します」
この戦争で、多くの人々が犠牲になった。
「領民たちは、なぜ、こうなってしまったのか、信じられないようでした」
結局、戦闘に敗れた会津藩は、降伏して開城する。容保は東京に送られ謹慎となった。
「新政府の連中は、私の切腹を待っていました。私は敗軍の将となってしまったのです。こんな人間に、誰がなりたいと思うのでしょうか」
だが、切腹したのは元家老の萱野長修であった。彼は戦争の首謀者として、一藩の全責任を背負って一命を捨てた。
「神も仏も、私を救わないことは知っています。決して正直なだけの生き方ではありません。それでも私は、忠義を忘れませんでした。これは私が武士であった頃の話です」
だが、容保の『忠義』は報われることはなかった。
それでも容保自身は、家臣の忠誠心によって、生き延びることができたのである。
「祇園精舎の鐘の音が、耳に残っています。官軍の鼓笛隊の音も、耳に残っています。家臣は皆、勇敢に刀を抜き、私を守って死んでいきました。彼らは、美しき生命を生きました。神様仏様、その美しい魂を救って下さい」
1893年。容保は東京の自宅にて、肺炎により他界する。享年57歳。