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Doctor  作者: 槇 慎一
9/16

9 王子様とのバッドエンドの後で


 日付が変わる。


 勉強もおしまいにしようと、パソコンの画面を切り替えたその時。


『速報が入りました。モスクワで行われたヴァイオリンコンクール13歳以下の部門で、日本人の藤原仁さんが優勝しました。この部門で日本人の入賞は初となります。

 このコンクールはモスクワで誕生し、入賞者は若い音楽家の登竜門とされる世界的なコンクールに挑戦し、数々の国際的な音楽家を輩出しています。藤原さんは現在中学一年生。休学してモスクワで学んでいるそうです。日本を代表する演奏家として活躍してほしいですね』


 そして、短い映像。


 画面も文字も音声も、もちろん演奏も、ニュースでは何もかもがあっという間だった。眉を寄せ、厳しい表情をしていた。13歳の少年とは思えなかった。


 王子様……。



 いい加減、その呼び名もどうかと思うのだけど、私にとって、彼はやっぱり王子様だった。


 未だに携帯電話を持っていない私は、パソコンの画面でそれを見たのは偶然だった。


 そうか、中学一年生なのか。

 私なんて、浪人一年生だ。同じ一年生でもなんと響きの違うことか。王子様は確実に二年生になるだろうが、私も違う意味で二年生になるのは間違いない気がする。


 ここは、医学部受験専門予備校の寮。

 家から出られて嬉しいはずなのに、家を出ても監視されている気配から逃れられない。気のせいだろうか、性分だろうか。


 医学部を目指してはいるものの、現実は少々厳しい。現役時代は、高等部で何位以内だと医学部確実、何位以内だと国立理系が確実などと言われていたが、そのとおりだった。

 私は学内での成績は悪くなかった。ただ医学部にはちょっと届かない、という程度。看護学部では母親が納得しない。薬学部にすればよかったか。いや、今更だ。こんな私ではだめだ。


 とにかく詰め込み管理型の予備校に入れられて、安心したような安心できないような日々だった。母親は、こんな私を毎日見ないで済んで安心しているだろう。


 真剣に勉強するも、医学部合格までの成績は今ひとつ。全然無理、ってわけでもないのが微妙なところ。卒業した高等部系列の大学には入れるのだが、現役で進学した同級生が先輩となっていることから、権利を放棄している。同級生といっても、友達ですらない。

 両親も、浪人した末に系列大学に行くよりも、浪人してでも医学部に進学することに賛成している。




 まだ生きている。主体的に生きているとは言えないが、せめて妄想だけでも真っ当な人生をと思えば許されるだろうか。誰に…………。



 いつも、自分で人生を終わらせようとしていた。いつとか、具体的にどうやってとかではなく、気持ちの遺品整理をするような……いつもそうして生きていた。だから整理整頓は得意だった。まだ、親の世話になっているのだから、自分が甘ちゃんなのはわかっていた。


 でも、誰かに気づいてほしい、引き止めてほしかった。体を欲しがる人には差し出したかった。誰でもよかったわけじゃない。でも、本当に好きなのは仁君だった。仁君の抱えている、人には言わない何かを、何かわからなくても、私はそれごと抱きしめたかった。



 もし彼が会ってくれるなら謝りたいからと、小石川先生に伝言をお願いした。モスクワにいるんだろうし、いつか会えたら、というくらいの伝言だった。


 返事は意外にも早くもらえた。日本にいるし、いつがいいのかと。全寮制の予備校は、外出してもよい日と時間が決まっている。それも伝えると、彼は私の日程に合わせてくれた。


 予備校の近くにある公園で待ち合わせた。許された時間いっぱい、彼に会いたかったから。


 見通しのよい公園の入口にいる彼が、遠くからでも見えた。なのに視界が歪む。崩れ落ちそうだった。私は、見えないのに走った。


 こちらに気づいた彼は、素早く走ってきて私の腕を取った。


「ちゃんと前見て歩いて。ケガするよ。ヴァイオリニストだろ?」


 私にそんなことを言ってくれる人がいるなんて、本気で泣きそうだ。

 公園にいた彼は、公園にたどり着く前の私のところに来たから、ここは道路だ。なんて間抜けな再会だろう。

 けれど、開口一番に謝った。


「あの時はごめんなさい」


「いいよ。元気なの?」


「うん」


「医学部目指してるって?」


「うん、だからヴァイオリンはもう……」

 

「変わってないな。ちゃんと生きてる?」


「うん、ありがとう。昔から知っているのに、なかなか会えなくて、やっと会えたときには、取り返しのつかないことをしてしまって……モスクワからのニュース聞いて……ごめんなさいと、おめでとうを伝えたくて……それから、仁君のこと、応援してるからって、言いたくて……」


「ありがとう。今は……モスクワの話はできないけど」



 公園に移動して、ベンチに座った。

 仁君は私といろいろな話をしてくれた。


 主に思い出話だ。

「両親がピアニストだから、何故ピアノをやらないのかと皆に聞かれるんだ。ピアノは嫌いじゃない。ただヴァイオリンが好きだから。好きなだけじゃなく、ヴァイオリンの方が才能があると言われたかったから、ピアノの練習は最低限しかやらないことにしていた。


 ヴァイオリンはピアノに比べて音階の種類が多い。子供は皆あまりやりたがらないから、これができれば強いと、父に言われた。父は僕にやる気を出させるのが巧かった。うまくノセられて、音階しか練習しないっていうくらいに子供の頃から時間をかけて練習してきた。


 普通の音階、三度、六度、八度、半音階、アルペジオ、リズム変奏……やることはいくらでもあった。わかるよな?」


「わかるわかる。私も死ぬほどやらされた」


「やらされてたなら可哀想だな。でも、莉華の演奏を聴いた時、僕と似ていると思った。同じ先生っていうのもあるけど、音階をよく練習する子はすぐにわかる。上手く言えないけど、音程の正確さと、音の種類が全然違う。確かに、そんな子はほとんどいなかった。


 初めて莉華に会った時、雰囲気が母に似てると思った。でも、莉華は可愛かったけど、莉華のママは怖そうだった。美人なのに、ニコニコしながら母に嫌なことを言っただろ。莉華に近寄るのはやめようと、すぐに思ったくらいだ。本当は友達になりたかったのに」


「仁君、友達になる暇もなく、いなくなっちゃったから」


「僕、子供の頃から衝動的に走り出す癖があって、走ったら退団させるって決められてたんだ。あの、初めて会った時に走ってぶつかったろ?莉華は好きだけど、莉華のママはキライだ」


「私も、私の母親キライ」


 二人で笑った。






 え、私のこと好きって言った?


 『莉華のママ、キライ』他人からはおよそ聞けない言葉を口にした王子様。


 『自分の母親がキライ』いつも思うのに、決して言ってはいけない気持ち。


 私の代わりに誰かに言ってほしいと思ってた。


 寮に入っただけでも、親の有り難みはわかった。ここでの生活、ここでできた友達のおかげで、自分がどれだけ恵まれた環境だったかもわかった。お金がかかることなんて、一度も言われたことがない。育てる義務だけじゃなかったこともわかる。

 でも、でも、この気持ちはどうしても親のせいだと思ってしまう。本当はもっとわかりやすく愛されたかった。愛された実感がほしかった。優しくしてほしかった。笑顔で撫でて、抱きしめてほしかった。


 コーチはそれをしてくれた。多分、私のことをそんなに好きじゃなくても簡単にできることなんだとわかった。なのに、それすらしてくれなかったって、何?そう考えると、余計につらかった。


 だからもう、母親じゃなくていい。いつか好きな人と結ばれたいと願っていた。心が無理なら体でもって、思ってた。そんなのおかしいってことに気づくこともなく、指摘してくれる友達もなく、ヴァイオリンや音楽に逃げていた。

 その音楽さえ今はない。

 寮に入ってからはヴァイオリンを弾いていない。音楽も聴いていなかった。あんなに大好きな藤原かおりさんのピアノのCDさえ、持ってきていない。自分の中に、音楽はない。



 あ、でもさっき…………。


 「仁君、好きな人って……」

 「莉華だよ」





 それは一瞬だった。


 遮られただけのような、それ以上の質問を許さないような、そんな空気だった。

 

 何かをごまかした?


 女の勘。


 私が、何かを疑ったことに、彼は気づいただろうか。


 私はぼうっと、仁君の話を聞いていた。


「…………母は、僕が小さい頃、たくさん可愛がってくれた。全力で見ていてくれた。本を読んでくれ、散歩に連れて行ってくれ、歩けるようになり、走れるようになったら走れる場所を探してくれた。子供の頃に住んでいたところは、近くにそういう場所がなくて、代わりにスイミングをやらせてくれた。実は、幼稚園に入れなかったんだ。だから、小学校に入学するまで午前中はヴァイオリンの練習、午後は毎日スイミング、土日はレッスン。レッスンは土日以外にも行ったな。とにかく、たくさん遊んでくれたんだ。僕が好きなことを好きなだけさせてくれた。僕が好きそうなことを探して、世界を広げてくれた。誕生日には、僕が産まれた時のこと、どんなに嬉しかったか、代わる代わる話して聞かせてくれた。特にプレゼントなんてなかったけれど、満ち足りた気持ちでいっぱいだった」


 あぁ、素敵なお母さん、素敵なご両親なんだ。だから私はあの人の音色と、この人に、こんなにも惹かれるんだ。


「莉華はどう産まれたか、愛されたのか、望まれたのか、聞いたことある?今までどんな風に誕生日を祝ってくれた?」


「うぅん、私は両親に愛されてるなんて思ったこともない。育てるのも、ただの義務だろうなって。命が大切だってことも、家族が仲良いとか、綺麗事だと思ってた。医学部を目指すのに、自分の命を大切にしないなんて、そりゃダメだよね。成績とか偏差値じゃなくて、それ以前の問題だったね。大切なことに気づかせてくれて、ありがとう」


「……ねえ、何で医学部に?頭いいんだろうけど。音楽に行かないの?」


「音楽じゃ稼げないから。親の世話になりたくないの」


「音楽は稼げないって、何故決めつける?稼げるから医者になるのか?」


「え………」


「稼げないって誰が言った?僕は聞いたことないし、音楽家になれなかった奴か、稼げない音楽家が言ってるだけだろ?稼げる音楽家になればいい話だ。稼げる人の成功体験を聞けよ。僕の両親は、それぞれができることで仕事にしてる。母は大学も出ていない。まぁ、僕の家は金持ちじゃないけど、金なんかなくたって音楽がある。心は豊かで幸福だよ。芸術を追究していく辛さはあるし、人としての悩みはあるけど。それでも」


 驚いた。

 仁君は、私の目を見て真剣に話してくれた。

 

「莉華……僕は、人を好きになったら……誰かを好きになっても自分の感情のコントロールができない。……人間出来てないから、まだ無責任なこと言えない。そろそろ時間だろ?行こう」


 王子様の告白は確かに嬉しかったのに、何故か……もやもやしたものが残っていた。


 予備校の寮の前まで送ってくれた。


「莉華、自分の命も価値も、軽視しないで大切にして。僕も莉華も、同じ命だ。自分を信じて。そうすれば他人を信じることができるはず。僕が伝えたいこと、わかる?僕が言うことを、信じることができるか?」


「………うん」


「生きていれば、いいことあるからな」


 そう言ってくれた仁君の誠実な瞳に、私は自分の過去を許してもいいか、私を友達として映っているか、問いたかった。


 次回につながるような約束は何もしなかったけれど、私は自分に対して、生きていく約束をした。


 それは、とても大きな約束だった。


















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