8 王子様に永遠のさよならを
まだ生きてる。
目覚めた時に、よくそんなことを思う。
私は何回か、カッターで自分を傷つけたことがある。
ほんの少しだと、そんなに痛くないし、このくらいだと、あのくらい痛くて、このくらい血が出るかも、どのくらい時間が経てば血が止まるかも知ってる。
メンデルスゾーンの演奏会、よかったな。
私は、せめて最後にバッハを弾きたい。
何の最後かって…………。
ついにバレた。
母親は、生理用品の減りをチェックしていた。
もちろん、最初は普通に聞かれただけだった。
普通に聞かれたのだから、普通に返せばよかったのだ。
けれど、こちらは普通に返すことができなかった。
母親が、私に何か聞いたみたいだけど、過去最高に激昂していて、もう何だか覚えていない。
せめて最後に仁君に会いたい……とそれだけ呟いたのが悪かった。
母親は「仁君」が誰だかわかったし、「相手」が仁君だと思ったみたいだった。違うのに、私は訂正出来なかった。違うのに、違うと言わなければいけないのに!ちゃんと言わなきゃと思うのに、声が出なかった。泣きたいのに、涙も出なかった。何故!何故!
母親は、自殺の心配をしたのだろう。私は部屋で一人になることも出来なくなった。
幸か不幸か、直ぐに病院に連れて行かれて、一日だけ学校を休んだ。もともと健康だから、特に何もなかった。あの麻酔のまま、そのまま還れない場所に行けたらよかったのに。
もみ消しも隠蔽も得意であろう母親に、助けられたのだろうか…………。
小石川先生のレッスンに、久しぶりに母親が付いてきた。
私のレッスンが終わる頃、次の生徒さんが来た。
仁君と槇慎一さん、あの時に車で送ってくれた男の人だった。やっぱり似ている。親子なんだ。
小石川先生が彼等に申し訳なさそうに言った。
「佐山さんが、仁の保護者様にお話があるとかで……」
「はい、何でしょうか」
おじい様が堂々と答えた。私は下を向いて小さくなっている他なかった。母親は、気味の悪い笑みを浮かべていることだろう。
「実は、……大変申し上げにくいのですが、仁君とのお付き合いで、莉華が……その、お相手に責任を取って頂かなければならない事態になりまして、そのお話をと思いましたの」
「仁、本当なの?」
小石川先生に畳み掛けるように言われ、仁君は表情を曇らせ、困っていた。仁君は額に手をあてるでもなく、何も言わなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい、仁君じゃありません。
私は必死でそう言いたかったのに、口を開けても声が出なかった。
おじい様が立ち上がった。
「すみません。現在は事情があってわが家で預かっているので私から、よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ。何を仰るおつもりなのかしら?」
母親が高圧的に言ったが、おじい様は真っ直ぐに私に聞いた。
「莉華ちゃん、僕は君が嘘を言う子だと思っていない。車で送った時に僕に話してくれたことは、嘘だったの?」
ごめんなさい、ごめんなさい……。
ごめんなさい、ごめんなさい…………。
「何のことですの?……莉華?どういうこと?」
「莉華ちゃんが話してくれたこと、僕は嘘だとは思っていない。仁にどうなってほしいの?コンクール前に動揺させようとでも思ったの?こんなことがあった後、仁は莉華ちゃんのことをどう思うか、考えたのかな?」
私はハッとした。コンクール前?
あ!全日本学生ヴァイオリンコンクールの本選の時期だ。本選前?あっ……だからご両親はメンデルスゾーンの演奏会を!
「……ごめんなさい!付き合っていたのは、仁君じゃありません」
やっとそれだけ言えた。
もう会えないと思っていた仁君に会いたかったのは、こんなのじゃない。仁君、ごめんなさい、ごめんなさい。許してなんて、言えない。しかも、コンクール前に…………。
私を許さなくていいから。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
仁君は外へ飛び出して行った。
お父さんとおじい様に、せめてもの謝罪をしなければ。
「……ごめんなさい。仁君にはずっと相手にしてもらえなかったから、別の人に構ってもらってたの。それでも、仁君のことが好きで、別の人に慰めてもらっているうちに、だんだん断れなくなって、できちゃって……あの日、本当は仁君と結ばれたかったんです」
最低だ。
ごめんなさい、ごめんなさい……。
ごめんなさい、ごめんなさい…………。
私はもう、生きている資格もありません。
冬。
ヴァイオリンコンクール本選で、小石川門下の小学四年生が一位というニュースが伝わった。
あの時の、ほっとした気持ちは、まだ覚えている。
人を傷つけた痛みも。
宝院学園オーケストラ部の定期演奏会でメンデルスゾーンのコンチェルトを弾いた私は、持てる全てを出して懺悔の演奏となった。
事情を知るわけもない皆に絶賛されても、笑顔で礼を言うわけにはいかなかった。
聴きにきてくれた小石川先生だけは、
「何かあったら、あたくしのところにいらっしゃいね」
と仰った。
返事をすることは出来なかった。
時が過ぎ、それももう、何年も前の話となった。
私は無駄に生きていた。