7 王子様のベッドで
王子様の部屋のベッドでキスをした。
ベッドに座った仁君に、ベッドの下から立て膝で見上げた角度。柔らかい唇の感触。仁君、大好き。
目を閉じている仁君を見つめながらブラウスを脱いで、下に落とした。下着も落とした。唇が僅かに揺れる。落とした布の音が聞こえる。コーチの唇とは全然違う。あの時も癒やされたけど、今の方がずっといい。やっぱり好きな人だから。
ゆっくりと唇を離した。
仁君が、スカートだけになった私を見た。
誰にも見せたことのない胸が、寒い。
あたりまえだけど、恥ずかしい。電気はつけていないから暗いのに、何故か見える。月明かりが、私を白く映しているようだった。
でも、かまわなかった。仁君は、私に触りたい?仁君から触る?どこからでもいい……そんなふうに思っていた。
その時。
後ろで玄関が開く音がして、私は咄嗟に服を着ようとブラウスに手を伸ばした。
「動くな!」
私は驚いた。仁君が、男の子じゃなくて知らない男の人みたいで、初めて怖くなった。コーチにさえ、怖いと思ったことはなかった。
仁君はベッドの上で両手を後ろについた。
「仁?帰ってるだろ?誰か来てる?」
お父さんだろうか。
部屋に入ってきたのは、槇慎一さんではなかった。
入ってきたというより、ドアを開けただけだ。
少し遅れて、部屋の照明が明るくなった。
その人は、この光景を見て固まった。
「仁……、何してる」
「僕は何もしてない」
「そんなことは聞いてない」
「僕が無理やり何かさせたとでも?」
その人は黙って自分のジャケットを脱いで私に被せた。私は動けなかったから…………。
「服を着たらリビングに来なさい」
女の人が帰ってきた。
「あなた?お湯沸かしてくれた?」
玄関から大きな声が聞こえた。
「ごめん、まだ。車にアレ忘れた!何だっけ、アレ!ごめん、行けばわかるからちょっと行ってきて!」
「何それ!わからないものを取って来させる気ね?もう~!」
「本当にごめん。今からお湯沸かすから」
「今から?何してたのよ、もう~」
時間を稼いでくれたのだろう。
その女の人がもう一度家に戻ってきた時には、私も仁君もリビングにいた。まるでずっとそこにいたみたいに。
再び現れた女の人は、私を見て驚いた。
「あら?だあれ?仁にお姉さんいたっけ?」
え……そんなギャグをかませる人だったんだ。いや、笑ってる場合じゃない。
「遅いから俺が送っていく。仁も行く?」
「行かない」
仁君は部屋に戻った。
もう、会えないんだろうなと、その後ろ姿を見送った。
もう、二度と会えないんだろうと。
現実はまだ続いていた。送ってくれて助かった。ここがどこだがわからなかった。もっと言えば、どこの駅で降りたのかも覚えていない。山手線としか覚えていない。最悪だ。
男の人は私の家の場所を聞いて、
「40分後くらいに着くからと、おうちの人に連絡しなさい」
と、携帯電話を貸してくれた。
「君、名前は?」
「さやま……りかです」
電話が終わってから、静かに聞かれた。
優しい聞き方だった。
これは、最後の懺悔だ。
隠さず、ありのままを伝えよう。
「何年生?」
「高校一年です」
「仁とはどんな?」
「仁君と、ヴァイオリンの先生が同じで、個人的にはお話したこともあまりありませんでした」
「今日は久しぶりに会ったの?」
「はい。藤原かおりさんのコンサートに行って……」
「一人で来たの?」
「はい。私、藤原かおりさんのピアノがすごく好きで、CDも三枚持ってるんです。仁君にも会えるかなって期待したのもあります」
「仁は莉華ちゃんのこと、どんな感じなの?」
「私にっていうより、誰に対しても冷たい感じです。でも、初めて会った時は私が転びそうになったのを助けてくれて、鞄を拾って埃を落として、それから私の手に握らせてくれたんです。王子様かと思いました。今日は、私が話しかけたら止まって待っててくれたり、ちょっと期待しちゃって……」
私は、静かにちゃんと話すことができた。
この人は敵じゃないなと思ったから。
仁君の、大切な人だから。
「優しくされたと感じた?」
「う……ん。あまりそうは思えないけど、他の人にはもっと冷たいから、私が一番マシなんじゃないかと……」
「そうか、ごめんね。俺はよくわからないけど、莉華ちゃんの名前は何度か聞いたことがあったよ」
「本当ですか!?」
え、そうなんだ。いつのエピソードだろう?
それは、教えてくれないみたいだった。
少しの沈黙の後、聞かれた。
「二人とも未成年だから確認するけど、今日は何もしてないところでストップしたんだよね?」
「はい……キスだけです」
そうだよね、聞くよね。
私は正直に答えた。
「本当に?」
「はい。……私からしました」
「わかった。今までには?」
「……何もありません」
「わかった。仁は何故泣いていた?」
「……多分、私が藤原かおりさんのピアノがすごく好きって話したから、かな……」
「あぁ……嬉しかったんだと思うよ。かおりは俺の娘だ。正確には嫁だけど……俺は彼女が小さい頃からよく知ってる。かおりの演奏を直接知っている人は少ないんだ。コンクールに二回出ただけだし」
「二回だけなんですか?」
「あぁ。二回めが高校三年で、一回めは確か10才……今の仁と同じだな……着いたよ」
「ありがとうございました」
仁君のおじい様?ってこと?それにしては若すぎるような……。
仁君、まだ10才か…………。
何を背負っていたら、あんなに大人びた少年になるのだろう。
「ありがとうございました」
私は車を降りて、家に入った。
「ただいま」そう言って母親に顔を見せれば、やっぱり大丈夫だった。
私から母親を見ても、向こうは視界の中に私がちらっとでも確認できればいいみたいだった。
お母さん。
天国から見ててあげるかもしれないけど、そっちからこっちは見えないと思うよ。
お母さん。
その時には、ちょっとは後悔したりする?
もしかして、しない?
その後のことは、もう想像したくなかった。
私がいなくなって清々している母親の様子が見えるようで。
やっぱり悲しい。
そうだ、こんな私が天国なんかに行けるわけがなかった。
もうすぐ、行かなければならない。