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Doctor  作者: 槇 慎一
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6 王子様の捕獲


 私のお腹に別の人がいるという事実と、人生を終わらせる前の最後の望みを賭けるように、演奏会に出かけた。


 コーチがチケットを取ってくれたので、もちろんコーチと一緒だった。演奏会の会場は都内で、学校からも家からも遠かった。母親には、部活の友達と行くと言っておいた。

 

 待ち合わせしたホールの入口で、コーチが私を待っているのが見えた。私に優しく微笑んでくれたコーチに対して、儀礼的に笑顔を返すと、都合の良い勘違いをしているなとわかってしまった。ずっと大人だと思っていたコーチも、こんな笑顔の真意がわからないなら、やっぱり大人じゃないかもと思った。


 藤原かおりさんと槇慎一さんの演奏会。

 ご両親の演奏会なら仁君も来るのかなとお洒落したかったけれど、平日の夜だから制服のままだ。幼稚園からたいして変わらない、紺のブレザー、白いブラウスに、整形されたリボン、チェックのプリーツスカートは好みの差し色を選べるとはいえ、ありふれた制服。


 コーチは部活の場所ではないからか、私の手を握ったり、時には自分の方に寄せるために肩を抱き寄せたりして大胆だった。私はどうでもよかったから、そのままにしていた。


 手を握られるのは、何とも思っていない相手だと何も感じなかったのもある。すごくキライな人じゃないし。でも、最初のキスはよかった。こちらの心理状態によるのかなと、冷静に分析してみたりもした。



 演奏会は、全てメンデルスゾーンの作品で構成されていた。かおりさんのソロの『無言歌集』からだった。解説を読むと、『無言歌集』はたくさんの曲があるらしい。私は『春の歌』くらいしか知らなかった。今日は全曲ではないみたいだけれど、様々なタイプの曲で構成されていた。どの曲も丁寧で、美しい音色で、かおりさんの良さがよく表れていた。予想通り、予想以上だった。幸せだった。


 それから槇慎一さんのソロで『厳格なる変奏曲』。流石だった。私の好みは藤原かおりさんだけど、私が男だったら絶対槇慎一さんを目指しただろうと思った。男性ピアニストとしてはソフトな感じ。力強くても乱暴ではなく、響きが豊かで、胸が震えた。


 うん、やっぱりコーチのピアノは好みじゃない。コーチは優しそうに見えて、「上手いだろ?どう?」って見せつけるように自分勝手で、挑戦的にガンガンいくタイプ。…………性格が音楽に出てくるって、本当なんだな。


 最後の曲は二台ピアノでのピアノコンチェルト。槇慎一さんがオーケストラパート、かおりさんのソリストで終演となった。


 音楽がこれだけぴったりって、なんて素敵なご夫婦なのか。なんて素敵なご両親なんだろう。私は仁君が羨ましかった。


 二台のグランドピアノをステージに並べることができる、大きな会場。それが満員だった。今年は全日本ヴァイオリンのコンクールの小学生部門の課題曲がメンデルスゾーンだからか、お稽古帰りと思われる、ヴァイオリンを持った親子連れも少なくなかった。


 ものすごい拍手だった。

 私も夢中で拍手をした。

 もう、手がどうなってもいいと思うくらい。

 だって『最後』だから。


 演奏後のかおりさんと槇慎一さんが並んでお辞儀をすると、再び割れるような拍手が起こった。この世界に、まだ居られてよかったと、心からそう思った。


 ソリストとして渾身の演奏をしたかおりさんは、拍手の中をよろめきそうになった。槇慎一さんは、そっと支えるようにかおりさんを抱き寄せて、頬にキスをした。


 歓声が上がった。


 何か囁いたのだろう。「ありがとう」か「愛してる」か、或いは両方だろうか。


 かおりさんは、そのまま槇慎一さんにキスを返してにこっと笑った。まるで二人きりの時にするみたいに自然に。


 二人は笑顔で、もう一度客席に向かってお辞儀をしてくれた。幸せそうで、いや、見ているこちらまで幸せな気持ちにさせてくれた。胸がいっぱいになった。


 後ろで、固く閉じられたドアが擦れて軋む音、客席と外の空気が入れ替わる音が聞こえた。


 たくさんの拍手と歓声の中、客席の一番後ろのドアから、仁君の背中が出ていったのが見えた。


 久しぶりに見た、王子様の後ろ姿だった。


 私は夢中で追いかけた。








 

 

 絶対に見失わないように、仁君が出た一番後ろのドアから追いかけた。走るような足音がする。エスカレーターじゃない。ロビーに向かう螺旋階段を駆け足で降りていた。


「仁君、待って!」


 既に下の方まで降りていた仁君は、私に気がついてくれたのか、速度を緩め、待っていてくれた。奇跡だ。行ってしまうかと思ったのに。気づかないふりをすることだってできただろうに。



「ありがとう」


 私は追いついて、仁君の後ろまで来た。でも、次の瞬間から、仁君は再び自分のペースで歩き出した。私は走るようについていった。仁君は、息を吐きながら額に手をやった。いつもそうしてるよね。まだ何回かしか会ったことはないけど。


「何を困ってるの?困った時の癖でしょ?それ」


 私と一緒だと困る?


「来てたんだ?」


 長い脚、早足の仁君に追いつくために息が上がってるのと、答えにくい質問に、返事はできなかった。

 




「何で来たの?」


 何でって、藤原かおりさんの演奏が聴きたかったから。仁君に会いたかったから。そんなこと、こんなタイミングで言えない。


 仁君は駅から電車に乗った。私も同じ電車に乗った。仁君の家ってどこだろう。小石川先生のお宅の近くなら、大丈夫かな。お金はあるけど、時間が遅くなるとちょっとまずい。でもいい。


 電車は、思ったよりも静かだった。私は思い切って打ち明けた。自分の気持ちを。滅多に外に出さない、隠していたものを見せるように。


「私……仁くんのお母さんのピアノが好きで……」



 仁君は何も言わなかった。

 覚えていてくれてるかな?


「ほら、一度だけ小石川先生のお宅で合わせたでしょ?仁くんが第一ヴァイオリンで」

「覚えてる」


 遮られた。よかった。覚えていてくれたんだ。嬉しかった。私と仁君の、一緒の思い出。一生の思い出。



 仁君は電車を降りた。私もついて行った。坂道を登りながらで、ちょっとつらかった。早足の仁君について行くのは大変だったけど、ちゃんと自分の気持ちを話した。


「あの時は、弾くのに必死だったけど、それでも、あの時のピアノの音が、すごく、素敵で、本当に素敵で。ずっとまた聴きたいって、思っていたの。小石川先生に聞いたら、今は活動していないけれど、ピアニストだって。調べたら、ピアノコンクールかその協会のテストを受けたら、参加賞として、過去のミニリサイタルのCDがもらえるって。三種類あったから、三回テストを受けたの。だから、三種類のCDを持ってるの」


 仁君、泣いてる?

 背中が…………。

 

 また少し歩いた。


 もう、完全にどこだかわからなくなった。




 

「もう、僕の家に着いたんだけど」


「えっ?あ……話したくて、つい……ごめんなさい」  


 このマンションなんだ。うちの近くのマンションとは全然違う。この階に、この世帯だけ…………。


「かおりと一緒かよ……」


「でも、仁くん泣いてるでしょ?慰めてあげようかと……」


「言うね。慰めてもらおうか?意味は判ってるんだろうね?」


 言っといてナンだけど、否定されると思ったよ。

 私は手を引かれて家に入った。力強い手だった。荷物とコートを玄関に置いて、部屋に連れて行かれた。仁君の部屋だ。思ったより狭くて、ベッドしかない。


 車よりマシ。

 違った。

 男の子の部屋でなんて、嬉しかった。


 仁君はベッドに座って、私がどうするのか探っていた。


 大人っぽいけど、小学生なんだよね。でも、仁君は「普通」の小学生じゃない。私も「普通」の女子高生じゃない。「普通の女子高生」は妊娠なんてしない。

 

 気持ちが伴わなくても妊娠する。お互いに好きじゃなくても癒やされたキス。私は、私は仁君のことが好き。仁君が私のことを好きじゃなくても、私で癒やされるなら、してあげたい。

 

 私は少しだけためらいながら、制服のブレザーを脱いで、ゆっくり畳んで床に置いた。襟元のリボンを外してその上に置いた。スカートからブラウスを全部引き出して、下からボタンを外していった。


「本当にしてくれるの?キスとかしないの?」




 私は、ブラウスのボタンを下から四つ程外したところで膝をつき、ベッドに座った仁君の頬を両手で包んだ。


 綺麗な顔。泣いてる顔。私もつらい。

 仁君、大好き…………。


 息を吐いた仁君の唇に、唇をあてた。

 私に委ねてくれている仁君が、とてもとても愛おしかった。




 こんな「初めてのキス」をしたかった。


 こんなふうに、好きな人と経験したかった。














 

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