15 王子様のルーツ
私も仁君も、携帯電話を持っていなかった。
何かあれば、小石川先生に伝言を頼んだり、藤原先生に手紙を渡してもらったりした。
お互いに言わなかったけど、合格まで会わないつもりでいたのだろう。
私の母親に宣言してくれた、あの言葉だけで信じることができた。とてもとても、心の支えになっていた。
小石川先生の厳しいレッスンは久しぶりだったし、藤原先生は的確だけれどとっても優しくて、何を質問してもきちんとわかるように答えてくれた。藤原先生のピアノは、片手だったり、部分的に弾いて頂くのを聴くだけでも心に沁みるようで、ヴァイオリンの音色づくりに役立った。
小石川先生と藤原先生のバランスも絶妙だった。
私は、私に「頑張ってるね!」「うん、でもまだ頑張れる」「偉い!」と声をかけあうようにして次のレッスンまでの課題に取り組んだ。受験講習の類も行かなかった。
私は冬の間じゅう、シベリウスのヴァイオリンコンチェルトを、必死にさらった。
ヴァイオリニストを目指したシベリウスが、たくさんのシンフォニーを書き、ヴァイオリンの技巧を凝らしたこの作品は、彼の唯一のコンチェルト。
作曲にあたり、私などには想像もつかない苦労が書かれていた。退路を断って作曲に専念し、厳しい経済状況の中で初演となる演奏会にこぎつけたこと。大成功とはいかなかった初演。ヴァイオリニストの力量不足で、大変不本意な演奏となったこと。当然の如く酷評を下され、そこで終わらず自然の中から得たインスピレーションから、改訂に改訂を重ねて今日に至る。
シベリウスは、当時12歳だった天才ヴァイオリニストにそれを捧げたとある。その少年が、仁君に重なるように感じた。
外国人教授に教わる仁君の姿。おそらく、彼でも教授にとってはまだまだなのだろう。それでも、臆することなく音と音楽を追究する姿勢に、私も追いつきたいと思った。
仁君だけではない。
小石川先生でさえ、「あたくしもまだ勉強している身です」と仰り、私のためにだけではなく御自身に厳しく音を磨くお姿を、生活から垣間見ることができた。
教えることに重きを置いてはいるけれど、演奏家を育てる指導者として、小石川先生はますます有名になっていたようだ。仁君、そして私に期待してくださっている。
私の心の奥底にずっとあった音楽が好きな気持ちを、ずっと大切に見守り、育ててくださった。私は、先生に「もうお帰りなさいな」と言われるまで、先生のご自宅でレッスンを受けた。
朝から晩まで滞在する日もあり、先生は一日中レッスンをするわけではなく、私を数時間放置して練習させ、他の部屋で他の人のレッスンもしていた。きっと仁君だろうと思った。でも私は聞かなかったし、先生も言わなかった。おそらく仁君もそうだろう。その音色は、微かに聴こえたかもしれないが、私は自分の音に集中した。音に、命をこめるように。
小石川先生のお宅の運転手さんに送ってもらい、車の中で眠ってしまい、家から出てきた母親に起こされて到着を知るような日々だった。
藤原先生も、御自身の練習というものにきちんと向き合う姿勢が常に感じられた。華やかなところも浮ついたところもなく、現代の現実を生きているとは思えないその生活ぶりに、違和感があったものの、一回レッスンに通っただけで、一生ここにいたいと思うくらいに居心地が良かった。レッスン中に槇先生がいらっしゃることもあり、藤原先生と槇先生の二人がかりでのレッスンとなったこともある。
なんと藤原先生は、高校生でコンクールに出場する時に、ロシア人教授と、その奥様であるフランス人のピアニストのレッスンを二人がかりで受けていたのだという。藤原先生は、最初こそロシア語はわからなかったが、私学育ちでフランス語ができた為、日本語を使わずにそれらのエッセンスと音色を身につけたのだと、槇先生が教えてくれた。
「仁も、かおりの感性と音色を受け継いでいる。ちょっと、普通じゃない。特別なものに感じるだろう。扱いにくいだろうけど」
と、槇先生は私にすまなそうな顔をした。まるで、仁君のお兄さんみたいだなと思った。あ、『お兄ちゃんの彼女』って…………。
藤原先生も優しく仰った。
「莉華ちゃんの演奏も、仁の音色と合ってる。初めて聴いた時から、思ってた。あの、仁が小さかった時に、小石川先生のお宅で、三人で演奏した時に」
覚えていてくれたんだ…………。
「ありがとうございます。私、あの演奏が、自分の中で宝物で…………」
もう、言葉にならなかった。
槇先生は、バッハ作曲でブゾーニが編曲した『シャコンヌ』を、まるで演奏会のように弾いてくださった。私のために。間違えた。隣にいる、この上なく可愛らしい人と私の二人のために、だ。
藤原先生とも違う、男性ピアニストの端正な演奏。大学で首席だったという槇先生。ただの優等生的な演奏ではない、大人の深みと、人間味のある愛情あふれる演奏に、仁君のルーツを見た。この先生方を、心から尊敬した。
合点がいく。納得する。
この二人に育てられた仁君が言うことなら、何でも聞きたくなったって言ったら、変かな……。