11 王子様の住まい
仁君の家。
思い出すのも辛く、また同時に甘い記憶のある家。
私が知っている仁君の家は、山手線の駅を降りて坂を登った先にある、所謂高級マンションだった。ポストを見ればわかるように、一階に一世帯しかなかった。
マンションなのに、軽くホームパーティーができそうな程の広いリビングがあって、コンサートで使うような長いグランドピアノがあった。仁君の部屋は、ベッドしかなかったけれど……。
藤原かおりさんの後について行った先は、音楽大学から歩いてすぐの、割とこじんまりした建物だった。
ロビーや学内は、未だに女の子達がキャーキャーと騒いでいたから、裏門からぐるりと回ったみたいだけれど、それでも近かった。
ヨーロピアンな部屋で、博物館にあるみたいなアンティーク調のグランドピアノが二台並べて置いてあって、まるで外国の部屋にいるみたいだった。
素敵…………。
かおりさんがソファに座るよう勧めてくれて、そこから見えるピアノをぼうっと見つめていた。
紅茶を入れてくれたみたいだ。
いい香りが漂ってきた。
紅茶を持ってきてくれたかおりさんは、私の隣に座った。ゆったりした三人がけくらいのソファだったから、密着するわけでもなく、ほんの少し離れていた。
ずっと憧れだったピアニストがこんなにすぐ近くにいる……。
私は嬉しくて、何から話そうか迷った。
「私、あなたのピアノが好きで、リサイタルで演奏されたっていうCDを三枚持っています。すごくすごく気に入っていて、毎日聴いていました。お会いできて、嬉しいです」
かおりさんは、私の言葉に驚いていた。
「メンデルスゾーンの演奏会にも、行きました。すごくすごく素敵でした……」
その後のことは、とても口に出来なかったけれど。
「そうなの?……ありがとう。私なんて、そんな。あ、『私なんて』って言ったらいけなかった」
かおりさんは、反省するようにそう言った。
「いけないんですか?」
「うん。夫が大学生で、私が高校生だった時に、ピアノのコンクールを聴きに行って……」
『ピアノの演奏は、どう思った?』
『……はい。皆さん上手で、私が何か言うなんて……』
『何でもいいんだ。僕とここで話すだけのこと。自分ができていないことなんて、考えなくていい。この曲が好きだとか、弾いてみたいとかでもいい』
『……はい。ドビュッシーの『プレリュード』と ベートーヴェンの『テレーゼ』、リストの『献呈』が弾きたいです』
『うん、いいね。向いている。バッハの『平均律』とショパンの『エチュード』も引き続きやっていこう。コンチェルトは?何をやってみたい?』
『コンチェルト?そんな、私なんて……』
『既にいくつか弾かせているよ?知らなかった?部分的にだけど』
『……そうなんですか?』
『そうだ。それに……僕が教えているんだ。私なんて、という言葉は、例え謙遜でも慎んでもらいたい。場合によっては、相手の立場がなくなる。わかる?』
よくわからなくて……。でも、先生の目は真剣で、とても大切にしてもらっているんだなってことは伝わったの。
『……先生に失礼を申し上げたこと、ごめんなさい。でも、……よく、わかりません』
『僕のことを、どう思っている?僕の……ピアノのこと』
『先生のピアノの音は、透明感があって素敵です。一番大好きなピアニストです。先生が弾いた曲は、弾いてみたいから……だから、上手になりたいです』
そう言ったら、
『嬉しいよ、ありがとう。……その、かおりが好きだと言ったピアニストは、たった一人の生徒のことを、ピアノのことも、とても大切に想っている。卑下しないで、前に進んでほしい。わかる?』
って言ってくれたの。
「でも、今でも時々言っちゃって、言う度に、注意される。夫は、ずっと憧れの先生だったの」
…………素敵すぎる。
鍵を開ける音がした。同時に、かおりさんが立ち上がってパタパタと走っていった。大人しそうなのに、そこだけは速かった!
「おかえりなさい」
玄関を開けたばかりの槇さんに抱きつくかおりさん。
「ただいま、かおり。仁だったらどうするんだ?」
二人で交互にキスをしながら……ビズって言うんだっけ?慣れた動作でチュッという音とともに頬をくっつけあっていた。
「仁だったらわかるもん。鍵の開け方で……」
「そうなのか?うっかり間違えないでくれよ?……やあ、莉華ちゃん、こんにちは」
槇さんが片手でかおりさんの肩を抱きながら私の方を見た。
「こんにちは……」
私は、小石川先生のお宅で謝った時以来で、私は…………合わせる顔がなくて、頭を上げられなかった。なのに、槇さんは穏やかに言った。
「仁が、気づいたんだ。かおりの隣に莉華ちゃんがいるって。僕から、かおりにメールしてって。話したいからって」
そうだったんだ。
槇さんは続けて言った。
「僕が学生の頃も、こうしてかおりと会った。本当は、大学の近くの、僕のお気に入りのレストランに連れて行って、デートみたいにしたかったのに、女の子がたくさんいて追いかけてきてさ。どこに連れて行ってもまずい気がして、かおりに、ここにいてもらったんだ。ここは以前、僕達の師匠夫婦が住んでいた部屋なんだ。かおり、覚えてる?」
「うん。先生を待っている時に、教授にシャコンヌを教えてもらった」
「教授はかおりのこと気に入ってたから、僕が到着しても、暑いだろ?シャワー浴びてこいとか言って、夏だったし。……あぁ、仁は先生と話してたから、もうすぐ帰ってくると思う」
最後は私に言ってくれたけど、二人がお互いを見る目は、恋人みたいだった。
鍵の開く音がした。
私は思わず言った。
「本当だ!さっきと違う!」
「でしょう?」
かおりさんは、ぱあっと笑ってそう言って、またパタパタと玄関に走って行った。
子供みたいだ。
自然体で……何だか羨ましかった。