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Doctor  作者: 槇 慎一
11/16

11 王子様の住まい


 仁君の家。

 思い出すのも辛く、また同時に甘い記憶のある家。

 私が知っている仁君の家は、山手線の駅を降りて坂を登った先にある、所謂高級マンションだった。ポストを見ればわかるように、一階に一世帯しかなかった。

 マンションなのに、軽くホームパーティーができそうな程の広いリビングがあって、コンサートで使うような長いグランドピアノがあった。仁君の部屋は、ベッドしかなかったけれど……。





 藤原かおりさんの後について行った先は、音楽大学から歩いてすぐの、割とこじんまりした建物だった。


 ロビーや学内は、未だに女の子達がキャーキャーと騒いでいたから、裏門からぐるりと回ったみたいだけれど、それでも近かった。


 ヨーロピアンな部屋で、博物館にあるみたいなアンティーク調のグランドピアノが二台並べて置いてあって、まるで外国の部屋にいるみたいだった。


 素敵…………。


 かおりさんがソファに座るよう勧めてくれて、そこから見えるピアノをぼうっと見つめていた。


 紅茶を入れてくれたみたいだ。

 いい香りが漂ってきた。


 紅茶を持ってきてくれたかおりさんは、私の隣に座った。ゆったりした三人がけくらいのソファだったから、密着するわけでもなく、ほんの少し離れていた。


 ずっと憧れだったピアニストがこんなにすぐ近くにいる……。 

 私は嬉しくて、何から話そうか迷った。


「私、あなたのピアノが好きで、リサイタルで演奏されたっていうCDを三枚持っています。すごくすごく気に入っていて、毎日聴いていました。お会いできて、嬉しいです」


 かおりさんは、私の言葉に驚いていた。


「メンデルスゾーンの演奏会にも、行きました。すごくすごく素敵でした……」


 その後のことは、とても口に出来なかったけれど。


「そうなの?……ありがとう。私なんて、そんな。あ、『私なんて』って言ったらいけなかった」

 かおりさんは、反省するようにそう言った。

 

「いけないんですか?」


「うん。夫が大学生で、私が高校生だった時に、ピアノのコンクールを聴きに行って……」





『ピアノの演奏は、どう思った?』

『……はい。皆さん上手で、私が何か言うなんて……』


『何でもいいんだ。僕とここで話すだけのこと。自分ができていないことなんて、考えなくていい。この曲が好きだとか、弾いてみたいとかでもいい』

『……はい。ドビュッシーの『プレリュード』と ベートーヴェンの『テレーゼ』、リストの『献呈』が弾きたいです』


『うん、いいね。向いている。バッハの『平均律』とショパンの『エチュード』も引き続きやっていこう。コンチェルトは?何をやってみたい?』

『コンチェルト?そんな、私なんて……』


『既にいくつか弾かせているよ?知らなかった?部分的にだけど』

『……そうなんですか?』


『そうだ。それに……僕が教えているんだ。私なんて、という言葉は、例え謙遜でも慎んでもらいたい。場合によっては、相手の立場がなくなる。わかる?』


 よくわからなくて……。でも、先生の目は真剣で、とても大切にしてもらっているんだなってことは伝わったの。


『……先生に失礼を申し上げたこと、ごめんなさい。でも、……よく、わかりません』


『僕のことを、どう思っている?僕の……ピアノのこと』

 

『先生のピアノの音は、透明感があって素敵です。一番大好きなピアニストです。先生が弾いた曲は、弾いてみたいから……だから、上手になりたいです』


 そう言ったら、

『嬉しいよ、ありがとう。……その、かおりが好きだと言ったピアニストは、たった一人の生徒のことを、ピアノのことも、とても大切に想っている。卑下しないで、前に進んでほしい。わかる?』

って言ってくれたの。


「でも、今でも時々言っちゃって、言う度に、注意される。夫は、ずっと憧れの先生だったの」


 …………素敵すぎる。


 鍵を開ける音がした。同時に、かおりさんが立ち上がってパタパタと走っていった。大人しそうなのに、そこだけは速かった!


「おかえりなさい」

 玄関を開けたばかりの槇さんに抱きつくかおりさん。


「ただいま、かおり。仁だったらどうするんだ?」

 二人で交互にキスをしながら……ビズって言うんだっけ?慣れた動作でチュッという音とともに頬をくっつけあっていた。


「仁だったらわかるもん。鍵の開け方で……」

「そうなのか?うっかり間違えないでくれよ?……やあ、莉華ちゃん、こんにちは」


 槇さんが片手でかおりさんの肩を抱きながら私の方を見た。


「こんにちは……」


 私は、小石川先生のお宅で謝った時以来で、私は…………合わせる顔がなくて、頭を上げられなかった。なのに、槇さんは穏やかに言った。


「仁が、気づいたんだ。かおりの隣に莉華ちゃんがいるって。僕から、かおりにメールしてって。話したいからって」


 そうだったんだ。

 槇さんは続けて言った。

 

 「僕が学生の頃も、こうしてかおりと会った。本当は、大学の近くの、僕のお気に入りのレストランに連れて行って、デートみたいにしたかったのに、女の子がたくさんいて追いかけてきてさ。どこに連れて行ってもまずい気がして、かおりに、ここにいてもらったんだ。ここは以前、僕達の師匠夫婦が住んでいた部屋なんだ。かおり、覚えてる?」


「うん。先生を待っている時に、教授にシャコンヌを教えてもらった」


「教授はかおりのこと気に入ってたから、僕が到着しても、暑いだろ?シャワー浴びてこいとか言って、夏だったし。……あぁ、仁は先生と話してたから、もうすぐ帰ってくると思う」


 最後は私に言ってくれたけど、二人がお互いを見る目は、恋人みたいだった。


 鍵の開く音がした。

 私は思わず言った。


「本当だ!さっきと違う!」

「でしょう?」


 かおりさんは、ぱあっと笑ってそう言って、またパタパタと玄関に走って行った。


 子供みたいだ。

 自然体で……何だか羨ましかった。


















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