第5話 道にまよったおじさん、せいすいってなあに? でも、――は、なしだよ。
今日は8月26日。今日こそ大人の人にせいすいが何か聞くぞお。3じのおやつも食べ終わったし、そろそろ行~こうっと。かばんよ~し、えんぴつよ~し、がようしよ~し。くつをはいてアンケートだあ。
るんるん。るんるん。うーん、出たのはいいけど、だれに聞こっかなあ。おにいちゃんが言ってたからなあ。あんまり近くの家の人には聞くなよって。なんでって聞いたら、すんごいそこ大人の人たちが困っちゃうからだって。
じゃあ遠かったらいいのかなあ? おにいちゃんが言うには、なんかこの辺で見たことない人に聞いたらもしかすると本当のこと教えてくれるかもしれないらしいけど、そんな人いるわけないよ。あ、おにいちゃんやっぱり何かウソついてたんだぁ、僕、気づいちゃったぞぉ!
るんるん。るんるんる~ん。だ~れかだ~れか、いませんか~。ご近所さんじゃない人いませんか~。
「おーい、そこの坊や~! ちょっといいかい? 道に迷ってしまってね。」
見知らぬ男が少年に声を掛けてきた。その男は少年の数十m先に立っていた。手元の紙切れを額に皺を寄せて凝視し、首を傾げていた。夏にも関わらず、黒いスーツを着た、ちょっとやつれている。そんな中年のおじさんだった。口ひげを蓄え、顔に皺がありつつも凛としている黒髪のダンディーなおじさんだった。隠すもののない露出したおでこがぴかっと光っているが。
「え、おじさんだあれです? 迷子なのです?」
少年はぎこちなさすぎる付け焼き敬語で応対する。今回の調査にあたって兄から教わっていたのだ。とりあえず、最後に"です"付けとけ。それで何とかなるからと。おじさんはその受け答えから少年が自身が思っていたよりも幼いと推測した。見かけでは小学校三~四年生。しかし、小学校一年生くらいなのかなと認識を改めた。
「坊や、おじさんは、この近所の月日っていう人の家を探してるんだ。でも、地図の通りに進んでるんだけど見つからなくてね。知ってるかい?」
「うん、知ってるよです。おにいちゃんのかのじょさんのおうちですです。そのかのじょさんはりかっていう名前ですです。」
「はは……、間違いなく私が探している家だよ。おじさんの妹の娘の名前だからね、それ。……それにしてもいきなりとんでもないこと聞いちゃったなあ、はは……。」
使う言葉からしてどうやら小学一年生ではないらしいと男は感じた。たぶん最初の認識の通り小学校三~四年生なのだろう。ただ、ちょっと残念なだけで。男はそんな悲しい結論を出した。
「いやいや、それほどでもです。じゃあ、つれってってあげるねです。」
男は少々不安を感じたがその少年についていくことにした。が、しかし、その不安は的中した。少年、今自分がどこにいるか分からず、迷子になっていたのだ。少年と男はもう数十分同じ場所をぐるぐると回っている。男の右手の腕時計は5時30分を指していた。
「あれ、さっきもここ通らなかったかい?」
「あれ、です。えっと、です。うわあああああああああんんん!」
少年は泣き出した。泣きたいのはどちらかといえば男の方であるが。
「ね、ね、大丈夫、大丈夫だから。ぶらぶらしてたらそのうち着くから、ね。」
男は少年の頭を撫でながら必死に宥める。このままだと、そこにあるのは、見知らぬ幼い少年を泣かせた大の大人の図である。先ほどから、通行人がこちらを見て何かこそこそ言っている。一向に少年は泣きやまず、通行人たちが集まってきて、微妙に人垣ができそうになる。幅3mくらいの狭い道なので、人垣なんかすぐにできてしまう。男は余裕がなくなってきて、折角の通行人兼野次馬たちに道を聞くこともせずひたすら少年を宥める。
そんな時、聞き慣れた声が男の耳に入った。
「あれ、おじさん……。何してるの……。」
それは、男の姪であり、ここで泣いている少年の兄の彼女でもあるらしい、リカの声だった。
その声を聞いていた少年は、男から離れ、リカの胸に飛び込んだ。
「よしよし、どうした? 僕が聞いてあげるから話してみてよ。」
少年は泣きながら、家を出てから今に至るまでの経緯を順番に話した。リカは呆れつつもそんなことで泣く少年がかわいく思えたため、とりあえず頭をなでなですることにした。ほぼ泣き止んだ少年。それを見て男は少年に謝る。
「坊や、ごめんね。私が道を聞いたばっかりに。おわびに私ができることは何かあるかな?」
「僕、今自由研究してるんだです。それを手伝ってほしいんだけどいいです?」
「いいよ。なんでも大丈夫だよ。」
男は大見得を切ってしまった。そう、この軽率な発言は大失言だったのだ。
「えっとね、道にまよったおじさん、"せいすい"ってなあに? あ、でもね、聖なる水と書いて聖水。もんのすん~~~んごいきれいな水だっていうのはなしねです。」
「え、どういう意味なのかな?」
男はリカの顔を見る。異常な量の汗が顔から噴き出していた。その顔に書いてある。僕に振らないで。勘弁してと。それを見て男は嫌な予感がした。少年が求めている答えは、もしかして、辞書的な意味ではなく、隠語的な意味ではないのかと。
その質問が男に飛んできた今、まだ野次馬たちは結構残っていた。その半数程度が少年の質問を聞いて、動揺したり、顔を赤らめたり、不快感を示したりしていた。どうやらこの人たちは隠語的な意味を頭に浮かべたのだろうと男は予想した。
となると、自分はどう答えればいいのか。男は悩んだ。辞書的な意味を言うという逃げ道はもう残されていない。明からさまなウソを言うか迷うがそれは辞める。少年が答えを知っていてわざと言わせようとしている可能性が拭えないからだ。
男もいつの間にかリカと同じように大量の汗を顔から流していた。
「君が言うせいすいって、どんなものなんだい?」
「聖なる水って意味じゃない聖水のことだよです。」
『お、なるほど。それなら逃げ道はまだある。はは。この少年もまだまだ詰めが甘い。』
男は先ほどまでの葛藤が嘘のように顔から吹き飛び、清々しい笑顔で、光るおでこでこう答えた。
「井戸の水って書いて、井水って読むんだよ。言葉の通り、井戸水のことさ。いいよね、井戸水。君は触ったことがあるかい? 夏でも冷えててとても気持ちいいんだよ。この近くの神社にあるはずだから、触れたことがないんだったら触ってみたらどうだい?」
たまたま男は、少年に会う前に、目印となる神社を経由していた。そこで見た井戸のことを思い出して、無理やり絡めたのだ。同音異義語。読み間違い。その手で男は危機を乗り越えたのだった。その時男の腕時計が指していた時刻は7時30分。約二時間続いた男の危機は去った。
姪とともに少年を家まで送り届け、その家族に謝罪した。そして男は無事姪の家にたどり着くことができた。
しかし、次の日。帰りしな。姪から、今回の事件の発端が自分であると自白され、たいそう慌てることになった。そして、少し、姪の将来が心配になった男であった。