ある雪の晩の出来事
夕方に降った雪が積もり、街を白く覆い隠している。
真っ白な装いをした建物を電飾が色飾り、冬の白い満月が明々と照らす。
夜も更けてきたが、駅前の方ではまだ大勢の人が出歩いているらしく、賑やかなざわめきが風に乗って微かに聞こえてくる。
しかし、私はその中に交じることが出来ない。
それどころか、目の前の雪に足跡を着けることすらかなわない。
家の前の雪は、夕方小さな兄弟達が走り回って遊んでいたため、踏み荒らされて足跡だらけになっている。
その光景を、私は三階の自分の部屋の窓から眺めることしかできずにいた。
家の前の光景も、街の景色も、私はこの一メートル四方程度の枠の中でしか知らない。
「お嬢様、そろそろお休みになられてはいかがでしょうか。夜更かしは体によろしくありませんよ」
小間使いが入ってきて、そう告げる。
「……」
「さあ窓を閉めて。風邪をひいてしまいますよ」
小間使いは、こちらに近づいてきて窓を閉めようとする。
「勝手なことしないで」
その手を、私は叩き落とした。
「風邪をひいたらどうするのです?旦那様や奥様がご心配なさりますよ。何しろお嬢様はお体が弱いのですから」
「……」
そう、私は生まれつき体が弱く、少し体が冷えるとすぐに高熱を出すのだった。しかも、一度熱を出すとなかなか下がらなく、何日にも渡って生死を彷徨うことになる。
だから、父も母も心配して私を外に出さないようにするのだ。庭にすら出してもらえない。
月に一度、健康診断を受けるが、医者が屋敷にやってくるので外に出ることはない。
自分の身体が弱いことはよく分かっている。
少し夜風にあたっただけで生死を彷徨うことになることも。
でも、だからこそ自分の身体のことはよく分かる。
どこまでが良くて、どこまでが悪いか、誰よりも知っている。
それを勝手に判断して決めつけないでほしい。
ましてや、部屋に閉じ込めるなんて。
「一人にしてくれる?」
「しかし」
「早く!」
「……」
私は、小間使いを邪険に追い払った。
彼女は、何も言わず一礼したが、私に気遣わしげな視線を向けて出て行った。
その目。その目が私は一番嫌いだ。自分が弱いと言う事を再認識するから。
苛立った私は、部屋の隅に置いてあった鳥かごを乱暴に開けた。
中には、一羽の文鳥が入っている。
この鳥は、去年の誕生日に両親から買い与えられたものだ。
鳥かごを乱暴に開けた音に驚いて、文鳥が羽ばたいた。そしてあっと思った時にはもう鳥かごから飛び出して、窓の外へ飛び立ってしまった。
もう私には後を追うことが出来ない。
ただその頼りなげな、小さな体が遠く離れていくのを見つめるだけだ。
それを見て私は余計に腹が立った。
私よりもずっと小さく、弱い文鳥ですらあんなに簡単に外へと出られるのだ。
自由になりたい。
体さえ弱くなければ、こんな忌々しい部屋に閉じ込められることなんてないのに。
忌々しげに舌打ちをして窓から離れた。
と、ベッドの上のクマのぬいぐるみと目が合う。
そのつぶらな黒い目が癇に障ったので、机の上に置いてあった鋏を手に取ると、その腹部に思いっきり突き刺した。
布の避ける感触が手に伝わってくる。
鋏を引き抜くと、クマの腹に開いた二つの穴から綿が飛び出した。
クマが、恨めし気にこちらを見る。ざまあみろ。
クマに八つ当たりをして一息ついた私は、後ろを振り返り凍りついた。
窓辺に、見知らぬ男が立っていたのだ。
年齢はよく分からない。若いようにも見えるし、意外と老けているようにも見える。私と同年代くらいかと思えば、年下のようにも、はたまたずっと年上のようにも見える。
彼は、にっこり微笑んだ。
「こんばんは。良い夜ですね」
私の喉が変な音を立てて息を吸い込む。
「あ、騒がないで下さいよ?あなたにとっても面倒なことになりますから」
喉の奥からせり上がってきた悲鳴が、私の口と共に彼の手で押さえられる。
私は目を見張った。
一体いつの間にこんなに近くまで移動したのだろう。
「そう、いい子です。そのまま息を吸って、吐いて」
言われたとおりに呼吸を繰り返す。そうしているうちに幾分か落ち着いてきた。
「落ち着きましたか?」
私がゆっくり頷くと、彼はそっと手を放した。
「あ、あなたは…?」
「私ですか?それはご想像にお任せします。あなたの納得いく解釈をして下さいな」
つまり、何者なのか話すつもりはないという。
「何しに来たの…?」
「あなたの願いを叶えに来たのです」
「え?」
彼は窓辺に歩み寄ると、こちらに向き直りにっこりと笑った。
「自由になりませんか」
私は、彼が言った事の意味を理解するのにそれなりの時間を要した。
「自由…?」
「ええ。出たいのでしょう?ここから」
確かに、それは長い間ずっと望んでいたことだ。半ばあきらめかけてもいた。
だからこそ、余計にこの状況に対して激しい怒りを持っていた。
そんな私を彼は自由にしてくれるという。この部屋から外へ出してくれる。
それは私にとってどれほど望んでいたことか。
しかし、今この部屋から出られるとは到底思えない。
そう思う反面、心のどこかで私は彼になら出来るのではないか、とも思う。
「でも、どうやって」
すると彼は、窓枠に足をかけ、上に上るとそのまま夜の街の中へ歩き出した。
「あ…!」
ここは三階である。当然私は彼が真っ逆さまに落ちると思っていた。
しかし、彼は落ちるどころかよろめくことすらなく窓の外へ出た。
まるで窓から見えない床が続いているかのように、彼は空中に浮かんでいた。
私は慌てて窓に駆けよった。
「え…!?」
「おいで」
彼は私の方に手を差し伸べた。
あまりにも現実とかけ離れていて、非常識な出来事だったけれども、不思議と私はそれをすんなりと受け入れたような気がした。
いや、もしかしたらあまりのことに思考がマヒしていたのかもしれない。
とにかく、私は彼に吸い寄せられるように窓枠に足を掛けた。
危うくバランスを崩して下に落ちかけたが、彼がすぐに支えてくれた。
「では、行きましょうか」
足を前に踏み出す。その時、何か落としたような気がした。
「……?」
「どうかしました?」
「あ…いえ、何か落としたような気がして」
下を見てみるが、暗くてよく分からない。
「一緒に探しましょうか?」
「いえ…多分、気のせいだと」
確かに何かを落とした気がするのだが、特に何か無くなっているようではないので気のせいだったようにも思える。
彼に手を引かれて私は、夜の街の中へと歩き出した。
空中は、今まで感じたことのない、奇妙な感覚だった。ふわふわとしていて足元が安定しない。
明らかに地上のそれとはまったく違う感覚だった。例えるなら、柔らかい綿の上を歩いているような。
初めて部屋の外から見た景色は、窓から見たそれとはまったく違うものだった。
今まで見えることのなかった街の側面が、月明かりにさらされて姿を現す。
真っ白な雪と電飾に彩られた街を、足蹴にしながら私と彼は軽やかに歩いて行く。
先へ進むたびに、新たな街の姿を発見して、私は純粋な喜びを感じていた。
後ろを振り返ると、私を閉じ込めていた、忌々しいあの屋敷が遠くに小さく見えた。そして私は本当に自由になれたのだと実感する。
自然と、笑みが零れてきて、私は高らかに声を上げて笑った。
もう私を縛るものは何もない。誰も私を閉じ込めることは出来ない。だって私は自由なのだから。
明日の朝、小間使いが部屋にやって来て、私がいないことを知るとどんな顔をするのだろう。
そして、あの私を憐れむその瞳に、どんな感情を乗せて両親に知らせるのだろう。
その知らせを聞いた両親は一体どんな態度をとるのだろう。
それを思うと、心底愉快でたまらなかった。
ざまあみろ。あんた達が私をあんな部屋に閉じ込めたからこうなったのよ。
寝巻一枚の格好だったけれど、不思議と寒さは感じなかった。むしろ、火照った体に冬の夜風が心地よかった。
名前も年齢も知らない彼が私の手を引きエスコートする。
その後ろを、私が手を引かれて歩いて行く。 そんな私達を冬の満月が白く照らし出す。
冬の透明な夜気と、私の軽やかな笑い声がぶつかり合って弾けた。その欠片が月の光に反射してきらきらと輝く。
夜はまだ更けたばかり。もう私は弱い私じゃない。今なら、どこまでも歩いて行けそうだ。
翌朝、私はいつもの時間に起きだしてコーヒーを入れると、主である少女の部屋に向かった。もう何年も前から続いている習慣だ。
屋敷の中は冷え切っていて、布団の中で温められた体を急速に冷やしていく。
その寒さから逃げるように、私の足は自然と早歩きになる。
目的の部屋に来た私は、いつものように扉を叩いた。
中から返事がないが、これもいつものことなので、そっと扉を開けて中へ入る。
部屋の中は、冬の朝特有の空気に満たされていた。予想外の寒さに顔を顰めながら部屋の中を進む。
私は、あることに気付いて立ち止った。
部屋の中がこんなに寒いのはおかしい。まさか、昨晩窓を閉め忘れて眠ってしまったのでは…?
嫌な予感がして急いで少女が寝ているはずの寝台に近寄る。
そこには、使った形跡がなく、ただ冷たい布団があるのみだった。
私は、音を立てて全身の血液が引いていくのが分かった。
コーヒーを机の上に置くと、開けっ放しの窓に近づいた。
寒いので、せめて窓を閉めようと思ったのだ。
そこでふと赤いものが視界に入る。
下を見ると、真っ白な雪の上に、真っ赤な大輪の薔薇が咲き誇っていた。
その上に、私の仕える少女が、壊れた人形のようにうつ伏せになって横たわっていた。