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異世界転生、ライトノベルの中での一大ジャンルとして、めきめきと人気と知名度が増えていったものである。
人気の拡散元はweb小説なのだが、最近ではライトノベルという文学を飾る一つの要素として成り立つようになってきていた。
異世界転生のテンプレートな内容としては、主人公が現実世界でなんらかの原因により死亡し、気づいたら現実とは違う世界、いわゆる異世界に転生していた。というものである。
まぁそれも、導入部分の1部分に限るはなしだが、俺が知っている中ではほとんどの作品がこの導入から物語に入っている。
そしてその中で、異世界転生の肝ともいえる要素が一つある。
主人公は転生する際、高確率でチート能力に目覚めるのだ。
まぁそれもそのはず、そうしないと最強の主人公になれないのだから当たり前といえば当たり前なのだが、今、異世界転生に直面している俺からすると、その当たり前がとてつもなく幸せなことである。
――――だがなんだ。今のところ、なにかチート能力に目覚めた感覚はないし、脳内に自然と魔法の詠唱が流れてくるなんてこともない。
どういうことだ。ふと考えてくるが、結果は中々出てこない。
いや、冷静に考えるんだ俺。考え直してみると、確か異世界転生作品の中には、途中から能力に目覚めることもたまにあった。
最初は最弱だが段々とチート能力に目覚めてきて、そして最終的には圧倒的パワーでラスボスを倒してハッピーエンド。なんてこともざらにあることではないか。
そういう考えが頭に浮かぶと、段々といまの現状に自信が浮かんでくる。
根拠のない自信だ、と浅はかな自分に少しだけ呆れそうになるのだが、今はそんなこと考えてないと自分を保てそうな気がしない。
とりあえず、なにをしようかと考える。
こういうとき、異世界転生作品の主人公たちはなにをしていた、と考えるが、何もない場所に一人でぽつんと転生した主人公なんて記憶にない。
どうしようか、すごい、暇である。
転生して直後暇なんていう主人公、一度たりとも見たことがない。
流れるように誰かと出会って、面白くて濃いストーリーに飲まれていく。こういうのが大抵の作品の流れだが、俺の人生はそこまでうまくできていないのだろうか。
まぁ前世がニートだったから.....多少はしょうがないと思うが、できれば美少女とお近づきになるイベントはあってほしいものである。
それにしても、寒い。
この世界に対する恐怖心が段々と薄れてきて、むしろこれからの人生が楽しみになってきたぐらいなのだが、現状、周りにイベントが起きそうな存在がない。
周りを見渡しても、石畳に石レンガで作られた大量の建物が立ち並ぶ街。
人は全くと言っても過言ではないほど見当たらない、むしろここが本当に人に使われていたのかというほど荒廃していて、それも生活感が感じられるものがなんにもない。
気温が低いのもあり、暖を取りたいのだが、周りに暖を取れそうな場所が見当たらない。
死活問題、というほどの寒さではないが、実質的にこの世界がとても寒いのは確かだ。何かしらの家族行事で冬の北海道に行ったのだが、その時よりも数段階ぐらい寒い寒さだ。
明らかに氷点下は下回っているだろう。凍傷だろうか、指先の感覚が段々と薄れてきている。
「寒い死にそう」ではなく、ただ「寒い」なのである。その違いが俺がここを離れるのを阻止している。
「マッチ...マッチは要りませんか......お兄さん」
か細い、今にも大気に溶けて無くなりそうな、粉雪のような小さな声が後方から聞こえる。幼い少女の声だ、と一瞬で判断できる、特有の擦れのない純粋な声だ。
「お兄さん」と呼ばれたのが自分だということに、多少の時間を要したが、それよりも先に体が反射的に後ろを向く動作をしていた。
「――っ」
思わず息を飲む。ほんの一瞬だけだが、彼女を見たときに呼吸をすることを『忘れた』のである。
体躯は想像通りの少女。だがしかしだ、息を飲むほどの美貌。少女に美貌という表現を使うのは自分でもどうかとは思うのだが、よく小さな子供に使われるような『かわいい』ではなく、彼女は『美しい』のである。
美しさの擬人化のような少女である。
腰までさらりと伸びる髪は、雪のように純白で美しく繊細で、人間離れしたきめ細かく白い肌は、まるで雪女を思わせる。雪の妖精、そんな表現が似合いそうな少女である。
「マッチは要りませんか......?」
依然としてか細い声で、細々とした声をかけてくる。
思わず頬が緩んでしまう。一瞬にして彼女に魅了されてしまった。まだ少女の彼女に、女性として見惚れてしまったのだ。
俺はオタクだったものの、少女愛好、いわゆるロリコンではない。そんな俺でも骨抜きにされるほど、彼女の美貌はすさまじかった。
「体験で、一箱だけ、どうぞ」
彼女は言葉を途切れ途切れにしながらも、その白銀のぱっちりとした瞳ではしっかりと俺を捉えている。
こちらから目を逸らしてしまうほど、彼女の目力は凄まじかった。
「あ、じゃあお言葉に甘えて」
そう言い、彼女がこちらに渡しているマッチ箱に手を伸ばす。
か細く綺麗な指先が目に移り、思わずマッチ箱を受け取る手の速度が遅くなってしまう。
「駄目だっ!受け取るな!」
ちょうど指先が箱に触れようとしていた時、遠くから女性の声が聞こえた。
声の方向に目を向けると、建物群の中の脇道から出てきたのだろうか、小道の中心に目深のフードをかぶった女性が立っていた。
「おいっ!今すぐこっちにこい!」
手を大きく振りながら、声を張るその女性は、肩を揺らしていて、疲労の色が見えた。
もちろん安易にあちらに行く気にはならならった。
ニートだが俺はバカではない。知らない人物に考えなしについていくほど俺は幼い精神年齢ではないのだ。それにこっちにはこの女の子もいるし、寒い中俺を心配してマッチを私に来てくれたのだ。
ここでふと、本当になんの前動作もなく、突拍子のない考えが頭に浮かぶ。
彼女は、いつの間に俺の後ろに来たのか。彼女に声をかけられる直前、周りを一度見渡したのだが、彼女らしき姿は見当たらなかったし、あの風貌の女の子を見落とすほど俺の目は腐ってはいない。
じゃあ、いつ近づいてきたのか。考え始めると、謎の嫌悪感が背筋を走った。
「ねぇきみ.....」
声を張る遠くの女性から目を離し、マッチ売りの女の子に声をかけるが、意図せずに声が途中で途切れてしまった。
声をかけた先、俺の目先一寸にいる『そいつ』は、明らかにさきほどまで俺の目の前にいた女の子とは、似ても似つかないような存在であった。
体長は俺の数倍近くある、細かく図るのも馬鹿らしく思えるほどの巨大な狼の化け物が、涎を垂らし銀色の髪を逆立たせながらこちらをギラギラとにらんでいた。
先ほどまでの、『雪の妖精』はまったく跡形もなく、目の前にいたそれはただの化け物そのものだった。
目前の圧倒的恐怖に足が固まって、動けなくなる。
逃げなきゃいけない、とは脳が必死に指示しているのだが、恐怖にガタガタと震えて体が全く動かない。
こんな体験は初めてだが、体中の血の気が引いていく感覚、圧倒的な強者を目の前にした弱者の気分だ。
「なにぼけっとしてんだ!はやくこっちにこい!」
固まった体を溶かしてくれたのは、あの女性だった。
突如として現れ、俺に声を張り上げた謎の女性だった。
信用はできない、さっきの女の子も今ではこんなに醜悪で凶悪な化け物に変わってしまった。いや、もともとこのような姿なのだろうが、異世界ファンタジーはいとも容易く俺を騙して見せた。
「アアアアアァァァァァアァアァァアァァァァァァァァアアァァァァァァァ!!!」
轟音。目の前の怪物が表しようもないような巨大な音を発して、それに呼応するかのように地面が轟轟と揺れる。
視界がぐにゃりと歪む。キィィィン、と甲高い耳鳴りが脳内を響き続け、直立していたはずの体がいつの間にか地に伏していた。
事実上の死亡である。化け物の目の前で、体の自由をなくした。
弱すぎた。
異世界転生というイベントに調子に乗った結果だろうか。
チート能力の目覚めなんて、浮かれていたからこその結末であろう。普段の俺だったら、あの少女の違和感には気づいていたはずなのに。
いや、それさえあの化け物の計画内なのかもしれない。
どちらにしろ、待っているのは絶望でしかない。
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体が温かい。
全身が柔らかい空気に包まれているような気になって、なんだか全体的に安心できるような気もする。
自分を包んでいるこの空気がなんなのかはわからないが、一つだけわかるのは、さっきの冷徹な空気の空間でないということだ。
視界が段々と開き始めると同時に、視界には知らない天井が描画され始める。
煌びやかな金色の装飾が施された、それでいてどこか品性が感じられる、いかにも由緒正しい名家のような天井だった。まぁ天井に詳しいわけではないが、印象的な面での話、だ。
ゆっくりと開き始める視界の隅に、巨大ななにかの光源が映る。とてつもなくまぶしい。朝起きた直後の電灯の光のような、痛いような眩しさを放っている存在があった。
「シャンデリア......?」
鮮明になった視界で、やっときれいに描画されたそれは、よく画面の中で見る、豪華の姿そのもののような存在だった。
サラリーマンと専業主婦という夫婦の間に生まれた、特に才能のない子供、ザ・一般人のような俺には全く関係のない場所で、自分が寝ていたという事実に、思わず目をこすってしまう。
どれだけ、目をこすってもこの空間はこの空間のままで、どれだけ頬をつねってもこの夢のような空間が終わることもなかった。
「どこだここ?」
段々と脳が動き始めたとき、ある考えが頭に浮かぶ。
異世界転生、あれは夢だったのだと。やけにリアルな夢だったが、あれは実は夢だった。というとてつもなくつまらない展開を想像した。
実は交通事故に遭ったものの死んでいなくて、俺は物好きな資産家に拾われ、この家で保護された、という展開を考えるしかこの状況を理解する方法はなかった。
眼前に広がっている豪華絢爛なそれらは、いずれも見覚えのない、知らないものであった。
「ようやく起きたか。人間」
見知らぬ、違和感しか感じない光景にぱちぱちとなんども見直すように瞬きをしていると、隣からなにやら聞き覚えのある声が聞こえる。
ぱちぱちと薪が燃える音がする中、静かな空間に響くその声は、初めての声ながらもなんだか落ち着くような気がした。
視界は良好である、煌びやかな天井から目を外し、声のした方向へと顔を向ける。
「ってうわっ!」
そこにいたのは、顔に巨大な傷を持った色黒の女性だった。
首の付け根あたりから、髪の生え際まで、顔を横断するように作られたその傷は、寝起きの俺を驚かせるのに十分すぎるものだった。
「そんなに私の顔が怖いか?」
彼女はごく自然体で、返事を求めないような声で質問を投げかける。
「すみません」
のけぞった体を立て直して彼女の顔を見つめなおす。
こうやって落ち着いてみてみると、彼女の容姿は魅力的なものだった。
色黒の肌と、抉れたような傷のミスマッチに驚いたものの、彼女の容姿は品性方向、容姿端麗といった、そういう印象を受けるものだった。
すらりと整った輪郭、燃えるような真紅の瞳は、捉えたものをつかんで離さないような、そういう不思議な力を持っている。
なにより顔の半分を隠している緑色の髪が、秘密を持った妖艶な大人の女性のようで、とてつもなく男心が刺激されているような気がする。
「ごめんなさい、ちょっと驚いちゃって.....」
いかにも申し訳なさそうに、反省しているという仕草で頭を下げる。
きっと怒っているのだろうな、と頭を動かさずに返答を待つ。
「大丈夫だ。慣れている」
「慣れている」というその言葉は、想像していたどんな叱責よりも俺の心にずきりと刺さってきた。
彼女のその表情は直前よりも少し憂いがあるような表情で、その視線は俺を見ていなかった。
「頭を上げてくれ。そういう固いのはあんまり好きじゃないんだ」
そう言われて、深々と上げていた頭をゆっくりと上げる。
現状は、俺がベッドに腰から下を預けていて、彼女は椅子に座ってこちらを見ている。
冷静に考えると、少し恥ずかしい気がする。俺が起きる前から彼女がここに待機して俺の寝顔を見ていたのだと考えると、少しだけ顔が紅潮してしまう。
「私は、シンファ、シンファ、ルクレースだ。シンファと呼んでくれ」
淡々と、真顔のまま突然の自己紹介を始める。
返答はいらない、というような感情が、彼女の瞳からは受け取れるような気がして、その言葉になにか返事をすることはできなかった。
「君は何でこんなところに来たんだ?こんな誰も寄り付かないような街に」
「いや、それがわからなくて」
俺が返答をすると、彼女はいぶかしげな表情を一瞬だけ作り、そうしてすぐに真顔へと戻る。
「わからない、とは予想外な答えだな」
「はは...そうですよね」
「まぁ君がどこから来たかなんて正直なところどうでもいいんだ」
「え」
「君が来たこの街はな、呪いによって誰も出ることができなくなった街なんだ」
真面目な会話の中に流れる、呪い、という不自然な言葉が急に浮上してくる。
「はぁ」
ファンタジーな言葉だ。と思った。
呪い。藁人形だとか、幽霊だとか。そういう存在がその言葉と同時に浮上してきた。
「何を言ってるのかわからない、という顔をしているな」
彼女はそういって明後日の方向に視線を逸らす。
「まぁじきにわかるようになるさ」
彼女はそう言ってこの部屋から足早に立ち去って行った。
彼女が立ち去ったあとのこの部屋は、殺風景で、ただ寂しい雰囲気だけが漂っている。
「どういうことなんだ―――」
彼女は何も語らなかった。
俺と話していた間、彼女は何一つとして自らの内面を話していなかった。
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全身が火照っている。
筋肉が脈動し、全身に波打つような刺激が流れている。
血液が沸騰している。体温が高く、まるで人間じゃないなにかになったようだ。
眼前には化け物がいる。
どこからか、脈絡もなく現れた死を呼ぶ猛獣。
悪魔そのもののようなその邪悪な眼光と、猛悪な牙は別世界から訪れた何かに見える。
でもなぜだろう。
なぜなのかはわからない。特にそんなことを考える意味もないし理由もないのに。
無性にこの生物と闘いたい。眼前で涎を垂らしながらこちらを睨んでいるこの怪物と。
この感情はなんなのだろうか。
恐怖でも、蛮勇でも、勇気でもない。
―――ただこの化け物を、殺したい。
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