几帳面の理由
祖父が亡くなって、遺品を整理しに行った。
最近、家の近くの森に入っては森の中の泉を眺めていたらしい事が毎日几帳面に書かれた日記に書いてあった。
衝動的に書いたのか、祖父にしては荒く『もう一度泉の中へ』と雑に殴り書きしてあった。日付も書いてなく、続きは字が汚くて読めなかったが他の遺品を整理していてもなぜかその言葉が頭から離れなかった。
脳にこびりついたという表現が一番正確だった。
夕方頃、母が『今日はこのぐらいにして残りは明日にしよう』と言って作業は中断となった。
すぐに僕は祖父が見ていた泉を見に森に入っていった。
森は背の高い木が多く、全体的に薄暗かった。
風が吹いてザワザワと揺れると何か怖い事が起きるきがしたが不思議と怖くはなかった。
あるのは恐怖ではなく祖父への興味だった。
泉が見えたので走って近寄ると、その水は透き通っていて泉付近の領域だけが明るく輝いていた。
再び祖父のあの言葉を思ったが祖父がこの水面に何を見ていたのかはわからなかった。
祖父の家に戻ると『何をしていたの』と言われたので『散歩』とだけ答えた。
真面目で几帳面な祖父が意味の無いことをするはずが無くて、泉だけが気がかりで、その事ばかり考えていた。
夕飯も味を感じなかった。
母に『今日は早く寝なさい』と言われたので早めに床に入って、深い深い眠りに落ちた。
目覚めると僕は森の中にいた。
真っ暗で、背の高い木に囲まれていた。
困惑してあたりをキョロキョロしていると
『あなた、迷い込んだの?』と後ろから声がした。
振り向いて見ると、16歳ぐらいの白いワンピースを着た少女がいた。
『わからない』と答えると少女は驚いたような顔をしてその手で僕の口を塞いで
『やっぱり外から来たのね。いい?口で喋っちゃダメ』
そう言った。何を言っているのかは分からなかったけど僕は頷くと少女はその手を離した。
『あなた最近森に入ってくる人ね、だからここに迷い込んだのね。残念だけどここに迷い込んだら帰れないよ』
不思議だ。僕がこの森に入ったのは初めてで、最近入ってはない。誰と間違っているのだろう。
首を横に振ると少女はムスッとした顔をして
『嘘をついたってわかるもん』と言った。
『他に人はいるの?』と言うと少女はまたも僕の口を塞いで
『あなた喋れなくなってもいいの!?口で喋ってはダメ!』と激しい口調で言った。
僕が不思議そうな顔をしていたら少女は
『ここでは全てが命と同じなの、命と同じで使うといずれなくなる。声も、何もかもね。そしてみんな動けなくなるの』
と言った。
僕は驚いて言葉も出なくて落ち着くまでしばらく時間がかかった。その様子を少女は可哀想なものを見るように見守ってくれた。
落ち着いてから地面に指で『他の人は?』と書くと
少女は『他の人はここから出るのを諦めて木になった』と答えた。
だんだん動けなくなって死ぬ恐怖より、木として生きることを選んだ。その気持ちはわからなくもない。
『なんで君は木にならなかったの?』
そう地面に書くと少女は下を向いて
『諦めたくなかったから』と言った。
『君も外から来たの?』
『私はここで産まれたのよ』
『外の世界を知ってるの?』
『たまに迷い込む人がいるからね。みんな木になってしまったけど』
『外に出たいの?』
『もちろんでしょ』
しばらくそんな会話が続いたあと『木にはどうやってなるの』と地面に書いたら少女はとても悲しそうな顔をした。世界で一人になる寂しさに少女は耐えられないのだろう。
『本当に木になりたいのなら教えるけど…』
そういう少女を見ると木にだけは絶対にならないと心に決めた。
少女は『眠くなったので寝る』と言って地面に寝た。
ずっとここに一人だったその少女が可哀想で哀れに見えたので少女とは距離を置きながらも近い距離で寝た。
目覚めると少女は誰かと話していた。
また誰か迷い込んだのだろう。
何を言っているのかは聞こえなかったけど少女は悲しそうな顔をして必死に何かを言っていたが誰かは言うことを聞かず、森の奥へと入っていった。
少女は僕の近くへ来て『花をつみにいこう』と言った。僕が『なんで?』と聞くと絶望した顔をして
『あの人が木になることを選んだから』と言った。
僕の口を塞ぐ元気もないようで心配で、黙って少女の隣を歩いた。
花がいっぱい咲いてる所について
『この辺の花をつむの』と言った。
しゃがんで花をつんでいると
『あなたはいなくならないね?』と震える元気の無い声で聞いてきた。
僕は『いなくならないよ』と言うと少女は顔を上げて辛そうに笑った。
『あの人が木になった場所はわかるの?』
と聞くと少女は『うん』と短く答えた。
僕も『そっか』と短く答えると、ずっと夜のこの世界の静寂が二人を包んだ。
新しく出来た木に花を手向ける少女を横で見ていた。
深く目を瞑り、何かを思っていた。
僕は帰路で『お疲れ様』と言おうとして言えなかった。
途中から言葉が出なくなった。
少女は目を見開いて僕の方を見て
『あなた、喋れなくなったの?』
と聞いた。
僕が首を横に振ると『嘘つかないで』と真剣な声で言った。しばらくまた歩きながら無言の時間が続いた。
そして少女は『あなた、元の世界に戻りたい?』
僕が驚いていると『真剣に答えてね』と付け加えた。
僕が黙っていると『やっぱり帰りたい?』と聞いた。
僕は帰りたかったけどそれは少し違くて、正しくは少女と一緒に帰りたいだった。
そう地面に書くと『そっか…ありがとね』と言ってすぐに『一つお願いしていいかな?』と聞いた。
僕が頷くと『私は私の知らない時間の君が知りたいの、日記かなんかを書いてくれるかな?』と消え入りそうな声で言った。
『約束する』と地面に書くと再び『ありがとね』と言って辛そうに笑った。僕は少女が辛そうに笑う顔が悲しそうで嫌いだった。
『私は一緒には行けないけど、ごめんね。でも喋れないままは嫌でしょ?』
地面に『二人で行ける方法を探そう』と指で書くと
『それまでにあなたは動けなくなってしまうから。それじゃ嫌だな。日記の事、お願いね』
そう言って大きな綺麗な水面の泉になった。
泉の中へ入ると鮮やかな白い光に包まれた。
そして起きると僕は祖父の家の布団にいた。
涙だけが抑えられなくて、止まらなかった。
落ち着く頃には太陽が昇っていた。
そして僕はやることを一つ思い出して、その一日も欠かすことなく書かれた几帳面な日記を持って森の中に走っていった。
その綺麗な水面にそれを投げ入れると
眩しい太陽の光の中、一人の少女がこちらにお辞儀をしているように見えた。
なんか、いいなあって、思います。