6
翡翠は去ってしまい、裁定者のもとへは鵜が導くと言う。
優しい蛇神がよかったなあと、天狗もキサラも不満に思った。だが文句は言えず、大人しく追随する。
しばし曇り空を飛行する。鵜はそれほど速くは飛べず、天狗は抜かないよう加減して走る。
見下ろすと、雪山は原形をとどめておらず、キサラは改めて天狗の力を痛感した。
つと鵜が羽ばたき、滑空した。真下には雪渓にできた巨大な割れ目。鵜は躊躇なくそこに飛び込んだ。
大きな割れ目は、天狗の巨体さえも豆粒のようなもの。
暗い岩場を落下し、深い谷底は、海だった。
勢いよく水音を立てて沈む。天狗が必死に足をかき、水面に浮上する。
「げほっ……えほえほっ……うう、しょっぱい」
濡れてひっつく衣服と、海水の辛さに顔をしかめる。
天狗が沈まぬようにと懸命に水をかく一方、鵜は波間にぷかりと浮いていた。
『行くぞ』
波に煽られ、思うように泳げないというのに、鵜はすいすいと進んでしまう。
天狗はむきになり、さらに水を跳ねさせる。
「天狗っ、沈んでる沈んでる!」
『泳ぎはてんで下手だな』
『くっ、そ……のほほんとした見た目で……!』
力づくで沈むことだけは防ぎ、鵜が止まった地点に近づく。
今までと変わらない海域だが、鵜は潜った。
「え、ちょ待っ……!」
息を整える間もなく、天狗も潜水。
透き通る水中は、不思議と眼が痛まず、呼吸も可能だった。
『あれだ』
鵜が示す先には、砂地に真っ白い卵が佇んでいた。
人間の子どもほどの大きさがある、妙な威圧感のある卵。
『これが……裁定者だと?』
『正確には、その内にある。人の子よ、触れろ』
鵜の言うとおりに、キサラは卵にそつと手を置いた。
ほのかに暖かく、殻にはどこかやわらかみがある。
いや、柔らかすぎる。手が埋まり、殻を貫通した。
「な、なにこれ」
慌てて手を戻そうとしても抜けない。どころか、何者かに強く手を引かれ、キサラは卵の内に引っ張り込まれた。
卵の内部は、黄色い光に包まれた空間だった。
心臓の鼓動のような律動が聞こえ、まるで胎内を思わせる。
ではいたるところに張り巡らされた糸は、血管だろうか。律動に合わせ、かすかに動く。
とても暖かく、眠気を誘われる。キサラは裁定者を探そうと頭を振った。
『きみ、が……導かれて、来た子』
舌足らずな声をかけられる。白い金糸雀が飛び交い、それは顕れた。
『もっと……近くに』
白磁の肌に、深緑色の長い髪の細身の男が、膝を抱えて眠っていた。
すやすやと寝息をたてているが、この人物以外に裁定者らしき者はいない。
「あなたが、裁定者ですか?」
『どうしたい?』
裁定者はキサラの質問には答えず、ただ用事を聞いた。
「天狗を……“餓えた獣”を、神様にしてほしいんです。
あなたはどうとも思わないのですか?何の罪もない無垢な力が、人からも神からも除け者にされているなんて……」
『……きみはこの世界が、きらい?』
質問に質問で返され、キサラは戸惑う。だが裁定者は黙ったまま、キサラが答えた。
「世界のことなんて、考えたことはありません。けれど今、僕を取り巻くこの状況は不条理なことばかりで、好きじゃないです」
嘘も取り繕いも無しに、キサラは本心のままに言葉を発した。それを裁定者が望んでいるような気がしたからだ。
「でもそう思うなら、自分で変えなくてはならないですよね。今まで両親や姉さんが頼りだったけど、僕は僕の想いで、天狗を神にしてあげたいのです」
裁定者はかすかに頷き、認めた。
『きみの……変える意思は……つよい。きっと……――クの……そして、葦、弥騨の……希望の星に、なる』
一部が聞き取れなかったが、了承はしてもらえるらしい。
いつの間にか、天狗がキサラの近くに来ていた。
『キサラ!無事だったか』
「天狗。うん、それより……」
白い金糸雀が主に集い、裁定者はうっすらと眼を開く。黄金の瞳が、キサラを見る。
『なまえ……おしえて』
「きさらです。守崎、希新」
『新たな希望……その名をもとに、生み出そう』
裁定者の体が光り、金糸雀が一羽、天狗に向かって飛び、吸い込まれる。
『“蒼き流星”――青星、焼成、対抗を司れ』
天狗の組成が変えられ、獣から人に近い姿となる。
灰色の髪をした、若い男の姿。肘から先や、耳朶は狼の名残があり、尾も残る。
鉄の轡をはめ、口元からは牙と青白い火がちらちらと覗く。
頭部に一対二本の角を生やし、眼は血が凝ったように紅い。
「……天狗……すご」
『力が漲る……今までの不安定さがない。すごいぞ、この身体は。さらに色々とできそうだ。どうだキサラ』
「かっこいいよ。びっくりした」
『かっこいいかっ。そうかそうか』
天狗は満悦な表情でキサラを抱きしめ、轡を外して少年の顔を舐めた。
行動は獣そのままで、キサラは困惑した。だが嫌な気分ではない。
『あの蛇神との約束だ。早くお前を人間にしてやらねば……現世に戻るぞ』
家族と再び暮らせる願いが、現実をおびてきた。キサラは力いっぱい頷き、裁定者の方を向く。
「あの、ありがとうございました――」
裁定者の異変に気づくのが、あまりに遅すぎた。
深緑の髪は黒く、眠たげな黄金の眼は、冷酷な深紅に染まっている。
『人ともいえぬ半端者と、我が眷属風情が、この領域に入ること一切赦さぬ』
言動がもはや別人で、キサラは硬直した。
そも、あの人畜無害そうな眠っているだけの者が“裁定者”と呼ばれていることが疑問だった。
となれば本来、裁定者とされるのは、目の前にいる人物ではなかろうか。
裁定者は細長い腕を広げる。黄色の金糸雀が、二人に殺到した。
ばちん、と耳元で鳴ったかと思えば、そこは現世の見慣れた森だった。
全ては夢だったのかと思うほどあっという間の出来事で、キサラはしばらく座ったままぼんやりとしていた。
『キサラ、どうした』
天狗の声に振り向くと、地面に紅い眼の隼がいた。
神の特徴を思い出し、キサラは隼に手を伸ばす。
「……天狗?」
『そうだが、この化身の姿は慣れんな……やはり獣の方が馴染む』
「うん、僕もそう思う」
裁定者がキサラを強制的に神域から切断したのを、天狗がなんとか保護し、森に戻ってきた。
キサラは隼を抱き上げて立ち、宗主を探す。
「天狗、今までありがとう」
『……ああ』
「嫌なことしかなかったけど、これでよかったって、今なら思える」
『そうだな』
どこか浮かない天狗を疑問に思いつつも、しばらく歩くと、そう苦労せず宗主を見つけた。
「宗主!戻りました」
「そうか戻ったか」
車椅子を動かし、振り返る男の手には、短剣が握られていた。
危機を察知してキサラの腕から飛び出す隼に、宗主の投擲した短剣が刺さった。
「天狗!」
鎖で拘束され、隼は地べたにもがく。
キサラは慌てて近づき、短剣を苦労して抜く。
「そんな……血が止まらない……!」
今までどんな外傷もたちまちに再生してきたというのに、短剣の傷はどうあっても癒えなかった。
キサラが傷口を手でふさぎながらも、宗主を睨む。相手はせせら笑い、揶揄した。
「なんだその目は?汝は獣を憎んでいるのだろう?」
「そうでした……けど、今は違う。僕は天狗を赦す!」
「汝の家族は吾が手の内ぞ。それを渡せ小僧。吾が管理してやる」
宗主は残酷な選択を迫った。家族を取り戻して天狗を捨てるか、天狗を助けて家族のもとには帰らずに逃げるか。
「決断しろ希新。でなくば汝はどこへも往けぬ」
キサラは隼を抱えて、ゆっくりと宗主に近づく。
隼は全てを受け入れた眼で、穏やかにキサラを見つめていた。少年の手が、隼の首を優しく撫でる。
宗主が微笑し、手を伸ばす。キサラはかがみ、隼を渡す、と見せかけ、隼の体で隠した短剣を、宗主の胸に突き立てた。
男の胸から、ごぷりと赤黒い血が溢れる。宗主のつけるきつい香水と混ざり、異臭が鼻をさす。
「くく……やはり葦弥騨だな……獣、なんぞに、依存した、か」
「あ……あ」
「いい、だろう……汝は、宵の道を、往け……」
それを最後に、宗主は事切れた。鎖と車椅子が幻のように消え、死体が残った。
天狗はキサラを胸に抱き、疾駆した。宗主の死体から離れるために。
「ああっ……どうしよう、どうしよう天狗……!」
『落ち着け、大丈夫だ。俺がついている』
自らの選択を、キサラは後悔し泣いた。教会の、それも主を殺してしまったのだ。家族との再会の道は、閉ざされた。
天狗はキサラの血塗れの手を舐め、諭した。
『俺は嬉しいぞ。お前が家族よりも俺を選んでくれたことが。
キサラ、森で共に生きよう』
キサラは首を横に振った。共に生きることはできても、共に死ぬことはできない。
何よりそのうち、宗主を失った教会に、キサラは捕らえられる。その先にあるのは何か。家族も裁かれ、そして葦弥騨も――
「ごめん、ごめん天狗……でももう駄目だ。逃げる先なんて無い。もう、僕を喰い殺して……!」
『馬鹿を言うな……!』
絶望に打ちひしがれ、泣き止まない少年に、天狗は途方に暮れた。
つと、枝葉をかき分け近寄る音。
ハナニヤだった。天狗は警戒を少しだけ解き、だがキサラを離したりはしない。
「まさか神になるとは。お前たちの勇気を評しよう」
『何の用だ、腐敗の魔女』
「見ていたさ。宗主を害すとはやるじゃあないか。奴を傷つけられるのは人間だけなのだ」
いずれ来る恐怖に怯えるキサラに、ハナニヤはある提案をした。
「魔女というものを教えてやろう」
「……?」
「かつては魔女も人間だった。だが複雑な、そうお前のような者が神と接触し、様々な事情を経て、魔女となる選択をする」
ハナニヤは言った。魔女とは神と共に在る者だと。その言葉に、キサラは魅了された。
「人間が、神の力の源である角を一部、その身に入れてな、子を生すのだ。その子が魔女だ。
その契約は神が死ぬまで途切れず、魔女は人ではなくなるが故に神と共に在るしかない。いわば魂の婚姻だ」
キサラは普通の人間と同じように死ぬるが、肉体は次代に繋ぎ、魂は天狗と共に在り続ける。
「天狗……」
『キサラ、お前が決めろ』
「ただし」
キサラの言葉を遮り、ハナニヤは真剣な面持ちで魔女の払うべき代償を話す。
「一点、身体に何らかの呪いを。そして魔女の始祖となったからには、神にさえその契約は解除できん。
それらを解消するには、魔王に従う他ない」
「……魔王?」
その名の通り、魔を率いる王であろうか。そしてそんな者の存在を、キサラは知らない。
「欠けゆく月の導き手とも。いつか世に降臨する何者かだ。
魔女はいつ生まれるもかわからぬ、魔王への忠誠を余儀なくされる」
しばしの沈黙。魔女になるということは、神を自らのためだけに生かすということ。意思が食い違えば、長く苦しむことになる。
キサラは考えあぐね、天狗をちらと見る。全てを受け入れる覚悟など、とうの昔にできているのだ。天狗は微笑し頷いた。
「天狗……僕と、いてくれる?」
『ああ。元より、そのつもりだ』
教会に追われるならば、それに対抗できるだけの力を得ればよい。
二人はあえて宵闇を往く道を選び、歩き出した。
キサラは化物を昇華した聖人となり、天狗の魔女の始祖となった。
ウッコは森の奥に置いた、黒い棺の前に立った。
宗主の死体から回収した宝石類を、棺の蓋に置く。がたん、と内側から蓋が開く。
中から出てきたのは、年端もいかぬ少年だった。溶液に漬かった裸体は、そこかしこに縫い後がある。
『具合はどうかね』
「良くはない。少し若すぎたな」
少年は宝石を握り、唱える。簡易的な衣服が、体を包んだ。
『もう少し、優しく導くべきじゃの』
「ふふん、悪役もこれで悪くない。それに葦弥騨というのは、あそこまで追い詰めねば動かぬ」
少年は立ち上がり、棺から出る。手を差し出し、呼びかける。
「セメイル、ラスイル」
沈黙に笑い、少年は自嘲ぎみに言った。
「やはり無駄か。魔王が必要だな」
指輪をはめ、手を振るう。顕れた車椅子に座る。
「まだ終わりではない。あと一体……忌まれし森のムシュフシュがいる。“成就した藍”よ、奴らを頼んだぞ」
『うむ。いいだろう、扉開けた者よ』
少年は――宗主は車椅子を進め、空を仰ぐ。
夜空には青星が爛々と輝き、森を、世界を照らす。
宗主は手を掲げ、星を掴むように握り締めた。
「まだだ……まだ終われない。私の罪が終わるまで。だがもうすぐだ……」
軋む腕で懸命に車椅子を進める。腐った身体は、すえた臭いをあげる。
彼の途は、未だ終わりが見えなかった。或いは、終わりなどないのやも知れぬ。
「獣の姿にもなれるんだね」
『ああ、意外と柔軟性はあるようだ』
天狗の背に乗り、キサラはかつて家族と暮らしていた家に来た。
神域に行っている間、かなりの時間が経っていたのか、ずいぶん埃っぽい。
もうこの家には、誰も帰ってこない。家族は教会の本部で暮らすであろう。
生活の名残はそのままだった。次の日に着るはずだった服、父の日記、母の裁縫道具、姉の簪。
二度とは戻らぬもの。否、キサラは捨てたのだ。そして天狗を手に入れた。
聖堂の、天狗が破壊した壁も放置されていた。
「これ、直せば住めるかなあ」
『ここに住むのか』
「森に慣れるまでは。ねえ、いいよね」
『ああ、かまわん』
赤黒い血の跡に落ちた花。色んな花を混ぜた花冠は、結局姉に送れぬまま。
その一部、野薔薇の花弁を摘み、キサラは破壊された聖堂から空を眺めた。
空が徐々に白み始める。夜明けが来るのだ。
青星は宙に在り続け、闇の世界を美しく飾り、照らす。
呪われた、新しい希望とともに――。