5
崖を登りきると、そこは水溜まりだった。
ただし果てしなく延々と続く、まるで大海の如き。
浅い水面は夜空を映し、どちらが天地か、混乱させるほどに美しい。
キサラは神域の壮観にため息をつきながらも、違和感があった。
動物や虫の鳴き声、気配が一切無い。
大自然の姿をしながらも、神域とはその実、生物などいない静寂の世界だった。
不安になったキサラが、獣毛をきつく握ると、獣は脚を止めて少年を背から降ろした。
『どうした。何を恐れている』
「……どうして僕を喰ったの?」
獣は唸り、どこか気まずそうに顔を背ける。
キサラは鼻先を掴み、自らの方を向かせた。獣が呟くように答える。
『俺は長いこと餓えていた』
「うん」
『腹が減るわけでもなし、何に餓えたのかは知らない。だがあの英知の炎を喰らい、少し理解した。自らの在り方というものを』
「在り方……。いやそもそも、どうして英知の炎を喰った?」
獣は腰を落とし、少年に鼻先を近付ける。
獣の生暖かい吐息は、いやに生臭いが、キサラは慣れたものか、離れたりはしなかった。
『火を喰えば、ひとまず生きるに足る知恵を得ると、俺を解放した奴に言われた』
「ウッコ神に?」
『いいや“凍った黒薔薇”という者だ。自らの火に苛まれる俺を哀れだと言って、封印を解いた』
恐らくは、神の名だろう。
何を思い、忌々しい化物を解放したか。今は知るすべもない。
『俺は望まれない存在だ。教会も神もどんな人間も、俺を恐れ彼方に追いやる。
しかし、俺が何をしたというのだろうかな。いっそ殺してくれさえすればいいが、それも叶わん』
「罪悪が欲しくて、僕を喰ったんだ」
『それもある。お前が俺を許さないのは承知の上で、死をくれるならばそれでいい。
だが不思議と、お前といると餓えない』
獣のいう“餓え”というものはよくわからないでいたが、キサラはどこか自分と共通する部分を見つけた。
「葦弥騨の民を知っている?とても古い民で、教会より昔からある」
『一般的な知識としては。お前自身も含むな』
「葦弥騨は昔、大きな戦争の原因になることをしたんだ。
ベリオールっていう、信仰心の深い民も巻き込んで、最後には聖ゲオルギオスに伏されて縮小したんだって。
葦弥騨は、未だに他の民族から嫌われてる……今の王様の慈悲があるからいいけど」
『なるほどつまり、お前の家族は人質か』
葦弥騨の文化解明交流など、所詮は表向き。
実際には葦弥騨法務を仕切る一家の分家を国が人質にとり、歯向かわぬよう監視し、その力を削ぎ落としていく。
教会はその間に入り、森の管理をさせると同時、外界とほとんど切り離して、キサラたちの行き場を失くした。
「葦弥騨って、わかる?“悪しき野に追われる堕した民”っていう意味なんだよ。本来の民の名前は、なくなっちゃったんだ」
獣の首元の毛を掴み、キサラは震える声を絞り出す。
「世界は……僕たちに優しくないよねぇ……」
キサラの涙を舐め取った獣は、再び少年を背に乗せ歩く。
「ねえ、ええと、ウリディシム?」
『それは魔女どもが勝手につけた名だ。やめてくれ』
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
『お前の好きなように呼べばいい。名とは存在。お前のつけた名を、俺は受け入れたい』
キサラは唸り、しばし考えた。ただの野良犬につけるのとは違うのだ。
「えっと、天狗……流れ落ちる星を指すことばなんだけど」
名をつけられた獣は、とても嬉しそうに鳴いた。尻尾を振り、上機嫌に歩く。
『天狗か、いいぞ、気に入った』
天翔る姿そのままに。遠吠えは星の墜落の轟音のように。黒い獣毛に映える青い眼は、眩く煌めく青星。
「ねえ、天狗はどうして、僕のそばに……ううん、味方になるの?喰ったから?罪悪感?」
宗主も神も魔女も、キサラを利用しようとするばかり。そんな中で、天狗だけは、キサラのそばにいた。
『そうだな、それもあるが……。強いて言うなら、お前が好きだからだ』
「……えっ?」
脈絡のない好意の示しに、キサラは動揺した。慌てて意味のないことをまくし立てる。
「あ、いやなんていうかその……無し無し!今の無しっ」
『……』
やつ当りぎみに天狗の背を叩く。獣は不満げに唸り、しかし文句は言わなかった。
つと、何もない虚空より、黄色い羽が落ちてきた。
キサラの掌に収まってしまうほどに小さな羽は、雨足が強まるように、その数を増やす。
異変に気づいた天狗が走りだす。されどもそれに逃れうる者などいない。
世界が黄金に染まる。否、前も見えないほどの金糸雀の大群。
襲われることはないが、圧倒的な物量に、キサラたちは恐慌を起こす。
「なっなにこれっ!」
天狗は吠え立て、蒼い火を吐く。それでも金糸雀は燃えず、いっこうにその数を増やすばかりだった。
キサラは緋色の空間で、荒野に立っていた。椅子に座っていた。
対面に誰かが座っていた。白髪の艶やかな男が座っていた。折れた角をキサラに渡した。キサラは拒否した。男は深紅の眼を光らせ、角をキサラの心臓に突き立てた。
心臓は血を流し続けた。周りの葦弥騨の民は皆、角を刺されていた。痛々しいが、誰にも抜けなかった。
けれどもキサラの心臓は、獣が食べた。血がとまり、獣の心臓を共有した。
「……うう」
ひどく頭が痛む。おまけに寒い。
苦労して起き上がると、そこは雪原だった。しかも少し吹雪いている。
キサラは運良く、小高い丘にいた。周囲を見渡せば雪山で、かなりの斜面があった。
「天狗ー!天狗、どこぉー?」
『喚く元気はあるようだな』
厳格な印象を与える、低い男の声。
声の方を向くと、そこには白い大きな鵜がいた。
キサラは怪訝な顔で、鵜に近づく。
「ええと、貴方は……神様?」
『そう呼ぶ者もいるな。貴様が裁定者の覚醒に巻き込まれていたが故に保護したが……貴様はこの地で何をしている』
滑稽な見た目で、ふてぶてしい発言をする鵜に、キサラは少し可愛いなと思った。
気を取り直し、お礼を言ってから、自らの身に起きた説明をする。
『なるほど、確かに我らの不手際、謝罪しよう』
「で、ええと……天狗、獣を見ていませんか?」
鵜は長い嘴で彼方を示す。
『あすこにて暴走し、手がつけられないでいた。ついて来い』
丘を下り、狭い洞窟に入る。雪を払いながら進むと、奥に天狗がいた。
だが無残にも、自らの陰火に焼かれ、身を悶えさせている。
「天狗!」
キサラは思わず飛び出し、素手で蒼い火に触れ、払った。
青白い炎は刺すように冷たく、手は見る間に凍傷を負う。
『……ッ!キサ、ラ……やめろ、俺から離れろ!』
「嫌!やだっ!」
恐らくは混乱の末、金糸雀に吐いた火が燃え移ったのだろう。
天狗は死ぬこともできず、痛みに苛まれるばかりだった。
そんな哀れな存在を見捨てたくはない。それにキサラを殺したとはいえ、天狗は唯一の味方だった。
好意を向けた者を無碍にするほど、キサラは冷酷ではない。
しかしこのままでは、キサラは無事では済まない。天狗はもがき、地を蹴って走る。
「待っ……天狗!」
少年の悲願に応じたか、鵜が獣の尾をくわえて止めた。
鵜がさらに口を大きく開くと、陰火は鵜の喉袋に吸い込まれていった。
『勝手に動くな』
「あ、ありがとう、ございます……」
神の力を見たキサラは、下手に逆らってはならないと感じた。
『冷静になったか』
「はい……」
天狗をなんとかなだめ、キサラはその場に座った。獣の毛が暖かく、無意識に擦り寄る。
「あの、貴方は天狗を昇華する方法を知っていますか?」
『昇華しろ、とは……まさか教会のあの男が言ったのか』
「宗主のことでしたら、そうです」
鵜はしばし黙り、金の眼で獣を見た。
『“満たされる紅の杯”の力……そして“緋に侵食する荒野”の欠片……。
そうだな、裁定者にこちらから願い上げよう』
「裁定者……?」
『我らを統率し、神域を形づくる者。今、この雪山も裁定者の夢だ』
いわく、裁定者が眠り、夢を見るごとに神域は変化していく。
あの金糸雀の大群は、裁定者が目覚め、また眠る時、世界の更新が行われていたという証。
神域を形づくるということは、現世をも変化させることを指す。
餓えた獣を世界に還すには、裁定者に獣の存在を根本から変えてもらう他ない。
「その裁定者は、どこにいるんですかっ?」
ようやく希望が見えた。だが色めき立つキサラを遮るように、天狗は唸る。
『待て、悪いが気が変わった』
「え……」
『その裁定者、キサラを俺から切り離すことも、俺を殺すことも容易なわけだ』
天狗が発した言葉に、キサラは驚き、呼吸が止まった。
『ならば、力の塊である俺は、神になることも可能なはずだ』
当然ながら、鵜は怒りに鳴いた。
『貴様、生半可な知識を得て世界を知ったつもりか!
端た力如きが、我らと同等であると思うな』
神の怒りを買っても、天狗は諦めなかった。強固な意思に、キサラは圧倒されるばかりだ。
『ならば俺はなんだ?世界に除け者にされるならばまだしも、自由意思を持つことすら叶わないというのか!』
「天狗っ、どうしたんだ急に……」
『俺は実に脆弱だ。俺自身だけでなく、小さな子ども一人守れない』
『その子ども害したのは貴様だろう』
獣は臨戦態勢に入った。腰を低くし、牙をむく。
『俺はキサラを守らねばならない。世の悪意から、人の差別から。それはいずれ、俺の餓えを満たすだろう』
キサラは獣の想いを汲み取り、涙を滲ませた。誰も省みない自身を、同じく忌み嫌われた化物だけが愛してくれた。
憎悪よりも情が勝り、キサラは矛盾する内心に混乱する。
どちらを優先すればいいのか。家族も天狗も、今や双方失いたくない。
『そうか……ならば』
鵜が本来の姿を見せた。
三重の光輪を戴く、全身を鋼鉄鎧に包んだ騎士。
騎士は腰の長剣を抜き、天狗に向けた。
『貴様の動きを止め、裁定者の元まで連れて行く。後に然るべき処置をとり、世界に秩序を取り戻す』
動きは天狗が早かった。爪と牙を剥いて飛びかかり、巨体を活かして圧倒する。
その物量と、野性的な猛攻は剣では捌けず、騎士は洞窟の外まで後退する。
洞窟内ではキサラを巻き込みかねないため、ようやく蒼い炎を騎士に向けて吐いた。
しかしその行為は、大きな間違いだった。
『――貴様、我輩の化身が火を飲んだことを見なかったのか?』
騎士の剣が、赤い火を纏う。軽く凪げば、陰火は見る間に赤く染まり、騎士の動作に従う。
『我輩は文明の火を司る。蝋燭のようにか弱い種火であったな』
不利を悟った天狗は、高らかに遠吠えをした。
雪山に響く叫びに、宵に煌めく青星が反応し、より一層輝きを増した。
凄まじい轟音と共に、一筋の閃光が夜空を裂く。
青白い光が地表に降り、地面を砕く。
雪山は崩落し、雪崩を起こした。
天狗はキサラを背に、破砕した岩場を蹴って態勢を整える。
「てっ天狗!今のはなに?まるで星が降ったような、あの力は!」
『お前が与えた名だ。名は存在、名は生命。俺はその名を持って、新しい力を得た』
とんでもないことをしてしまった、とキサラはぞっとした。
山を崩壊させるほどの力を持つ化物を、この先どう扱えばよいのか。
騎士は光輪から三対の光翼を展開し、飛行することで崩落に巻き込まれずに済んだ。
そして神域を破壊するほどの威力を見て、キサラ以上に危険視した。
『力の制御ができていないのか……?まずいな』
騎士は光翼の速度を上げ、炎纏う剣を構える。次の流星が来る前に、なんとしても一撃を与えねば。
その目論見を当然、天狗は理解しており、再びの遠吠え。
明けが近いのか、空が白んでも青星はまばゆい光を放つ。
「天狗、だめだこんなのっ!争って得られるものはないよ!」
『たとえ俺が何も得なくとも、俺はお前を守りたいんだ』
青白い光線が降る直前、暁において最も輝く金星が、さらに白熱した。
ぱしん、と軽い音が立ち、あとは静寂のみ。
『鎮まりなさい。不毛ですよ』
舞い降りたのは、一羽の小さな翡翠だった。
『貴方はわたしの金星と同じような力を持つようですね』
騎士は光翼を仕舞い、雪原に着地。翡翠の名を呼んだ。
『“金星の裁き”で相殺したのか――“翡翠の雪ぎ”』
翡翠はすぐに本来の姿を顕した。蛇を体中に這わせた、しかし美しい姿の神だった。
警戒する獣に微笑み、両手を広げてゆっくりと近づく。
『大丈夫ですよ。わたしは貴方がたを害する気はありません。今の攻撃は危険であったため、わたしの力で無効化しただけです』
慈父のような穏やかな声音と、優しい言葉に、天狗は安心して腰を下ろした。キサラも、蛇神は危険ではない気がした。
『大変な目にあいましたね。触れても?』
キサラが蛇を怖がっていることを察してか、神は纏う蛇らを背に隠した。
白く冷たい両手が、キサラの頬を壊れものを扱うように触れる。
見る間に顔や手の凍傷が癒えて、元通りの健康な肌になった。
「ありがとうございます。あの、貴方は……」
名を聞こうとしたが、蛇神の興味は天狗の方に移っていた。
白い手が、獣の首や耳の後ろを撫でる度に、天狗は嬉しそうに鼻を鳴らし、尾を振る。もっと撫でろとばかりに首を押し付ける。
「……天狗」
呆れて名を呼ぶと、天狗は弾かれたように頭を振り、キサラに鼻先をくっつける。
『それで、何用だ“翡翠の雪ぎ”まさか犬を愛でにきたわけでもあるまい』
化身に戻った鵜が、不服そうに促す。蛇神は胸に手を当て、諭す。
『貴方の怒りも解りますが、わたしの金星とほぼ同様の力は、むしろ裁定者の管理下に置くべきです』
鵜は逡巡し、一理ある、とこぼした。
『それに見てください。この子は一度死の淵にいったことにより、あの者の呪縛から解き放たれています』
蛇神は優しく、キサラの頭を撫でた。
他人からの接触を嫌う葦弥騨人だが、不思議と安心した。
『餓えた獣、貴方は我らと同じものになり、その力をもって、この子を人に戻してあげなさい』
それを聞いて、キサラはようやく天狗の意図が解った。
神になれば、キサラを人に戻し、教会や魔女どもから追われて害されることもない。
天狗がこの哀れな存在のまま消滅するよりは、その方がずっといい。
蛇神は、獣の顎を取り、語りかける。
『わたしから貴方に、名を授けましょう。
ショロトル――偉大なる星と炎、愚行を犯さぬよう戒めを』
蛇神は名前でもって、天狗の強力すぎる力を縛りつけた。しばし獣の手綱は、かの神が握ったと言える。
満足げに背を向け、翡翠となった神を、鵜が引きとめる。
『この者らを導くのではないのか』
『それは裁定者守護役である貴方に任せます。わたしはひとつ、思いついたことがあるので』
『思いつき?また妙な兵器でも造る気か』
『いいえ。ショロトルはどうやら、あの子の意識を受け入れて、同質化している様子……。
人が我らの意識を受け入れてようやく、現世に介入できますが、それはまだ不可能。ですがショロトルと同様のことならば、わたしにならできそうです』