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かつて、言葉や文化は散り散りで、ただそれだけの理由で人々は争っていた。
世界は神々の正しい力により、飢えや災害とは無縁だった。
ただ人々の言葉の混乱から起こる争いが、人を苦しめていた。
しかし、ある青年の開いた教えの家――今で言う学校が、その連鎖を少しずつ変えていった。
青年は聡明だが、何より彼の師である魔女の助けが大きい。
ある出来事を皮切りに、教えの家は“教義学術振興会”と名を変えて、神の教えと教育を普及する組織となった。
「――とまあ、教会の成り立ちぐらいは知っておろう」
「ええ、まあ……」
滔々と語りだしたかと思えば、それは教会の設立理念だった。
争いのなき世のために教育を。教祖にして誠実なる騎士ゲオルギオスの思想は、キサラも共感し賛成している。
「まあ問題はそれ以降だ」
ゲオルギオスは奇跡の力を持っていた。その奇跡を真似しようと、信徒の一派が画策した。
さる魔女を贄に、新たに神を生み出そうとしたのだ。
「そんな、畏れ多い……」
「しかし驚いたことに、理論は間違いではなかった。世界の構造も単純なものだ」
宗主は獣を見る。威嚇に剥き出される牙をものともせず、どこか自嘲めいた笑みを見せる。
「魔女の死を拒否する思いと、世界の死を呑み新たに生み出す構造が矛盾し、神ではなくただ無意義な力の塊を発生させた」
宗主は獣を指差した。
「力は十と一の意識を持ち、うち九つはゲオルギオスが世界に還した。その残りが餓えた獣、ウリディシムだ」
「ま、待ってください。なぜ教祖は獣を残されたのですか?」
「全てを終える前にだな、怒り狂う魔女らの奸計により、当時の国王に謀反の疑いありとして処刑された。
愚かしいとはまさに魔女どもを指すだろうよ」
ええと、とキサラは必死に頭を廻らせ、聞いたことを整理する。
「つまるところ、教会がここを管理していたのは封印を守るためで、よりによってウッコ神が、それを解いてしまった、と」
「封印に関しては、吾の管理にしよう。もう神になど頼らぬ。
さて次は汝だ。汝は吾の元へ戻り、何を成したいのだ?」
逡巡したが、宗主が促すのを見て、キサラはゆっくりと口を開く。
「僕は、家族の元に帰りたいです」
「至って凡庸な、しかし困難な願いだな」
「ここに来る道中、魔女に会いました。そして森に、結界が張られていると聞きました」
結界を張り、キサラを森に閉じ込めているのは、他ならぬ宗主だろう。しかしキサラは、それを糾弾しない。
「宗主、僕は人の体ではないのでしょう?
ですが貴方は元に戻す方法を知っているはず。でなければ、僕の前に現れない」
宗主は笑い、歓迎するように両手を広げた。
「聡明で結構。汝には神域に行ってもらう」
「神域……」
神々のおわす地。古来より様々な名をつけられた、伝承上のみにある場所。
しかし、餓えた獣も神も実在しているのだ。神の世界があっても不思議ではない。
「神域とは現世の裏側、魂ともいえる側面だ。そこで獣を昇華せよ」
「昇華……?」
「そうとも。我らは無から有へと流れる、ひとつの線だ。どのような生物も、いずれは熱的な死を迎える。これは神だろうが世界だろうが抗えぬ」
宗主は手首から銀の連なる輪を外し、示す。
「しかし獣は、どの生命発生条件も満たしていない。現象ですらない。線ではなく、無から有へ、有から無へと繰り返す円だ。
つまりは死がない」
力を込め、銀の輪を千切る。
「かつてゲオルギオスは自らの身体を媒介に、力を大地に還した。それと同じことをせよとは言わないが、昇華さえすれば汝は家族の元へ帰ることができよう」
キサラは力強く頷き、行きますと即答した。
わずかな可能性でもあるならば、それにかけるべきだ。
「どうすれば、神域へ赴けるのですか?」
「普通は夢を媒介に神で接続するが、汝はそのままいけるだろうよ。この森は、神域と地続きになっている」
「宗主は、どうされるのです?」
「吾は神域に行けぬ。ここで待とうぞ」
獣に導いてもらうよう助言され、キサラは獣に向き合う。
連れて行ってくれないかと言うと、獣はひとつ鳴き、キサラの襟を咥えて後方に投げ、背に乗せた。
「うおっ、わ」
躊躇の間も与えず、獣は疾駆する。
森の奥、教会が閉ざし、何人も踏み入らぬ地へと。
突如発生した霧で視界が霞む。日の光は木々に閉ざされ、薄暗い森は不安を増大させる。
屈み、獣毛を掴む。森が鬱蒼としているのに対し、不思議と枝などがぶつかることはなかった。
いかほど走ったろうか。そう長くはないはずだが、風は宵の冷たさを孕んでいる。
獣が飛び出した。そこはもう、キサラの知る森ではなかった。
「なっ、あ、信じられない!」
絶壁、否、恐ろしく深い崖だった。岩場には細い滝がいくつもつたい、底は濃い霧で確認できない。
落ちる、とキサラは恐怖したが、意外にも獣は平然と宙を走る。
獣の歩んだ跡には青い光の屑が、まるで儚い流星のように舞っては消える。
周囲は夜だ。空を仰げば、青星が追従し、さらにそれよりずっと巨大な星がキサラ達を照らす。
「っこれが……神域」
幻想的で原始的。夢か現かの判断に迷う。
世界中を探しても、こんなに深い渓谷はないが、風の感触も滝の水音もあまりに現実的だ。
驚きにあちらこちらを見渡すキサラに、何者かが声をかける。
『そうだ、これが神域。世の魂』
若さを滲ませる、低い男声。
キサラは声の主を探したが、しばらくしてようやく、正体を見つけた。
「まさか、餓えた獣、お前か?!」
『そうだとも。やっとまともに意思の疎通がはかれて喜ばしいな』
獣の口が動いているわけではない。
そもそも、獣は自らの霊質でキサラの一部を変えた。その際にキサラの意識を取り込んで、霊質の交換を行った。
つまりは身体的に同一であるといえる。神域においてその真価は発揮され、会話が可能となった。
「こ、これからどうすればいいの?そもそも、どこへ行けばよいのか……」
『まずは状況を把握し、ここに慣れるべきだ。落ち着ける場所を探す』
キサラは唸った。獣の知能は、少年が思っているよりよほど高い。あの英知の炎を喰ったからなのか、それとも、元より聡明なのか――
獣は首を上げ、滝の流れに逆らうように、崖を登る。
中腹に一本の巨木が横ばいに生えていた。獣は音もなく降り立ち、キサラをそつと降ろしてやる。
が、あまりの高さに怯えたキサラは、獣から離れようとはしない。
獣は慰めるように少年の顔を舐め、ゆっくりと身体を横たえる。
『落ちてもすぐに拾ってやる。怖がるな』
「む、むり。ていうか、舐めないで」
押し問答を続けていると、崖の岩を蹴って落ちてくる影があった。
まるで山羊のごとく軽やかに。されどもその下半身は馬。
宗主の使いだろうか、と思いきや、馬の首に当たる部分には、人間の上半身が生えていた。
半人半馬の怪物は、キサラ達の目の前に着地。衝撃に木がしなり、大きく揺れる。
「今度は何っ?」
黴で汚れた外衣を目深に被る半人は、何も答えない。代わり、馬に乗ったもう一人が姿を見せた。それは森ではぐれた、赤毛の魔女だった。
「はじめての神域はどうだい、少年」
「ハナニヤ!何故ここに」
ハナニヤは相変わらず、飄々と蝗を食いながら答える。
「魔女だからさ。魔女は神と共存し、その力を行使するのだ」
怪物は喉の奥で嗤い、尾を振る。その尾っぽは蠍のもので、毒針に金の王冠を引っ掛けていた。
魔女は神の力を利用し、様々な呪いを使っている。
神を信仰する教会と、神と共に在る魔女。同じものを信じているはずというに、故に溝は深いのか。
「少年、神域は複雑怪奇。子どもが遊ぶ場所ではないのだ。さっさとお帰り」
キサラは頑として首を横に振る。
「僕はここで、獣を昇華する。そうすれば家族に会えるから」
ハナニヤは大いに笑った。馬の背を叩き、ひいひいと苦しげに呼吸しながら。
「それはそれは!奇跡を起こすようなものだ。昇華の方法を、お前は知っているのかね」
「そ、れは……」
「方法など、魔女にもわからん。宗主はお前を贄にしようとしているのではないか?
忌々しい。葦弥騨とはいえ、子どもに業を負わせるとは」
ハナニヤいまだ、キサラを魔女側に置くことを諦めてはいない。
誘いの言葉を、少年は払いて、獣の毛を掴む。
「だったら僕は、誰も信用しない。この獣を利用して、自分だけでやる」
宗主もハナニヤも、自分らだけの利権しか頭にない。教会と魔女の争いに巻き込まれるのはごめんだ。
またウッコも、キサラよりも宗主の願いを優先していることに気づいた。どちらにせよ、信用に値しない。
原因こそが解決の糸口とは、実に皮肉であるが、キサラはもはや躊躇しなかった。
「だからハナニヤ、僕らにはもう協力はいらない」
獣は少年を背に乗せ、颯爽と崖を上がって行った。
ハナニヤは嘆息し、馬の腹を蹴る。半人半馬の怪物がようやく、口を開く。
『よいのか、追わずして』
「若いというのはいいが、愚かだ。少しは大人の言うことも聞くべきなのだ。そうは思わないか?」
『知らんわ。もう切断するぞ、裁定者が目覚める』