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こんな状況でも楽しげに笑う男に、キサラは返事ができない。
男が木枝を集め、火を点す。
炎の暖かさに安堵し、キサラはもう一度、男を見た。
「あの、貴方は……」
何者か、と問い掛けたことを、キサラは後悔した。
男の胸に光る、白金の聖印。
問う必要もない。それを身につけることができるのは、この世においてただ一人。
教会の長。宗主である証。
「そ、宗主……」
「うむ。宗主様とか、偉大なる宗主御大とか、素晴らしい教会指導者さまとか、好きに呼ぶがよい」
「……宗主、あの、僕はどうなる、でしょうか。それに……家族は」
「この餓鬼め……。汝の処遇は、追い追い決めよう。家族は全員無事だ。安心せい」
精神が崩壊した、姉の話はしなかった。
キサラはひどく安堵し、涙目で感謝を述べた。
「まあ、あれだ。汝にはしばらく、ここにいてもらう」
宗主は黒パンや干し肉。水をキサラに渡した。
それらを見たキサラは空腹と、喉の乾きを覚え、口にした。
人間に会えたことと、家族の無事の確認が、キサラの生きるための欲を蘇らせた。
「食いながら聞け。その獣のことだ」
キサラが頷くと、宗主は語り始めた。
「その獣は、教会が発足したばかりの頃にできたものだ。餓えた獣――魔女らはウリディシムと呼んでいる」
キサラが食事を終えたことを確認すると、宗主は着替えを寄越した。
下着も含めた簡素な衣服は、確かにありがたいが、キサラはおずおずと宗主を見る。
話を進めたい宗主はしばらく待ったが、服を手に動かないキサラを見て、ようやく気付いた。
「……ああ、肌を見られるのを厭うのか。面倒な」
車椅子を動かし、宗主は背を向ける。
キサラは葦弥騨と呼ばれる古い民だ。
白い髪に、白い肌、黒い瞳。他民族に比べて、圧倒的に小柄な体躯と、若々しい見目を特徴とする。
特殊な方言と文化を持ち、その解明と交流のために、キサラの家族は故郷を離れて、教会に入っている。
葦弥騨の民は貞節に厳しく、男女の差なく、婚前の若者は肌の露出を嫌がる。
「――終わりました」
乱れた白髪を整え、キサラは深く礼をした。
やたら礼儀正しく、物静かであるのも、葦弥騨人の特徴だ。
宗主は振り向き、改めてキサラの様子を確認した。
「外傷は無いようだな」
「はい、ないです」
だがキサラが先ほどまで着ていた法衣は、血に染まり、大きく裂けていた。
宗主は裂けた布地を撫でた。
もしもこの傷を負ったならば、キサラは確実に死んでいる。
それでもキサラは、無傷で生きていた。
そして獣が、やたらとキサラに纏わり付く様子。
「餓えた獣。汝、あの英知の炎を喰ったろう」
獣は宗主に耳を向けるのみで、首を巡らせようとはしない。
それでも構わず、宗主は続けた。
「あの火はあらゆる知識の集合体。実験に過ぎなかったが……獣よ、実は言葉がわかるだろう」
肯定の意か、獣が尾を一度だけ振る。
犬の口は、人の言葉を話すには向かない。
そのため喋ることは無かったが、キサラたちの話していることは理解していた。
「……生意気な獣よ」
話を戻そうとキサラの方を見れば、少年は正座したまま、こくりこくりと船を漕いでいる。
宗主は密かに、催眠効果のある香を焚いていた。それが効いたらしい。
衝撃的な事件ばかりで、ろくに睡眠も取れないのでは、今後に支障が出る。思春期の青少年を、やたら刺激してはならない。
「もうよい、眠れ。吾は此処にいてやる」
毛布を投げつける。
キサラは獣や周囲を拒絶するように毛布に包まり、寝息を立てた。
獣は寂しげに鳴き、毛布に鼻を押し付けるが、諦めてキサラの隣に伏せた。
宗主が夜空を見上げると、闇夜には星が瞬いていた。
その内でも、一際輝く青い星があった。
青き星は、獣と少年を照らし続ける。
宗主は――男は、青星に手を伸ばし、まるで胡桃の殻を砕くかの如く、握り締めた。
湿った空気が、肌に纏わり付く。
濡れた土と草と、けだものの匂いが、キサラの鼻を刺激する。
「……ふ」
獣がキサラの顔をしきりに舐め、起きろと催促する。キサラはそれを手で払い、獣の唾液を拭いつ起き上がった。
「ふはああ……」
みっともない欠伸が見られぬよう、毛布で顔を隠す。本当は顔を洗いたいが、贅沢は言えない。
何せ此処は、人知を越えた神秘の森。化け物と神とが、やすやすと実在してしまうのだから。
「挨拶は無しか?」
約束通り、宗主はいた。
小刀で山桃の皮を剥き、種をくり抜いていた。
「……おはよう、ございます」
「本日もよしなに。食え」
木の器に盛られた山桃が、キサラに渡される。
几帳面に切り分けられた果実に、宗主の人となりが見れた。
「……あ、りがと、ございます」
口の端から果汁が零れる度、獣がそれを舐める。
その行為を止めさせるのに、キサラは苦労した。
「や、舐めないでってばあ」
「くうん」
今にも食われそうなキサラだが、獣はそんなそぶりは見せない。
狼は本来、群れを成す。格下の者に、ああいった行動はしない。
「……番か。ははは、気持ち悪い」
キサラが食事を終えると、ようやくこの事件に関する話が始まった。
「というか、キサラ。お前はこちらの言語がわからぬだろう」
「あ……はい。ごめんなさい」
話し方がやたらたどたどしいのは、そのためだ。
葦弥騨の方言はかなり特殊で、文字と言語の統一を推進する教会は、故にキサラたちと交流していたのだ。
それでも子供ながらに、会話を成せていた方だ。
宗主は怒ることはせず、むしろ褒める。そして葦弥騨の言葉に切り替えた。
「あー……久々に使うな。おかしい箇所があったら言え」
「いえ、完璧です。さすがですね」
褒められ、宗主はふふん、と鼻を鳴らした。意外と単純らしい。
「それで宗主……餓えた獣とは、何です?僕はいつ、家族と会えるのでしょう」
少年の切実な願いに、宗主は残酷な答えを寄越した。
「なあ、驚いて泣くなよ――汝は、獣の牙を心臓にたてられ、死んでいた」
「……生きていますよ、僕は」
「では何故、傷ひとつなく、吾と話している?」
その答えを、キサラは出せなかった。まさか物語りに出てくるような、幽霊にでもなってしまったのか。
宗主は柘榴石の指輪を外し、地面に投げた。
柘榴石はたちまち犬の姿を形作り、従順に宗主の足元に座る。
「真実を表す石に、汝の血を探らせたが、堂々巡りでな。別の手で、こうして見つけたが……」
柘榴石の犬を仕舞い、宗主は続ける。
「どうも汝は、人でありつつも、人ではないようだ。
それが判明するまで、この森からは出せぬ」
「そんな……どうかご慈悲を!」
「ならぬ。獣は汝以外に危害を加える。家族を死なせたくなければ、吾の言葉に従え」
容赦のない命令に、キサラは毛布を手に泣いた。
それを慰めるように、獣が鼻先を寄せるが、キサラはさらに毛布に顔を埋める。
泣くなと言ったに、と宗主が苦々しい表情をしていると、ふいに老いた声が降る。
『あ、泣かせたの。無垢な子を泣かせたの』
「“成就した藍"!よりにもよって汝か!」
飛んで来た鴨を見て、宗主は嘆息し、キサラは希望を見出だす。
「ウッコ神!」
『可哀相に、いじめられたのかい。おーよしよし』
ウッコは着ている外衣の袖で、キサラの涙を拭いてやる。
「ウッコ神……お願いです、どうか、家族と会わせて下さい」
老人はうんうんと頷いたが、宗主が待ったをかける。
「ウッコ、汝だろう。獣の封印解除の助力をしたのは」
え、とキサラはウッコから離れる。なんだこの状況は。頼れる味方というものが、誰もいない。
「こやつは“成就した藍"――雷、天空、呪文、願いを司る。
ゆえに善悪の区別無く、全ての願いを叶える、いわば最高の偽善者だ」
「偽善者とは失礼な。おぬしも見方によっては、偽善者じゃよ」
神に対し、それを崇めるはずの教会宗主は、とんでもない暴言を吐いていた。
睨み合う二人を、キサラは止めた。争う場面ではない。
「どうか鎮まりください。僕に指針を賜りくださるのでは、ないのですか」
神と崇拝者はひとしきり睨み合うた後、ふん、と顔を背けた。
「なれば今は静観せよ。それが吾の願いだ」
『ま、いいかの』
キサラの願いを打ち捨て、ウッコは新しい願いを叶えた。
想いなど無視し、機械的に願いを叶え続ける。その姿は確かに、偽善的ですらある。
故にウッコは、封印を解除した者を助けてしまったし、今もやたらと願い叶えようとする。
ある意味危険な存在だと、キサラは感じた。
『すまんの。まだ家族には会わせられぬ』
「そんな……」
『それより、他の者から知恵を借りたところ、とんでもないことが判明しての』
言うべきか迷うウッコを、宗主が促す。今さら、これ以上に衝撃的なことなど、あるものか。
『坊やは獣に喰われた。獣は、坊やの身体を自らの力で再構築し、霊質を共有させているのじゃよ』
「なるほど故に、獣は小僧から離れたがらない」
「一定距離を離れるとの、坊やの身体は保てなくなり、死んでしまう」
死という単語に、キサラはひどく衝撃を受け、一拍置いてから全身が震えあがる。
「この状況は、終ぞ見たことがない。契約者とも違うようだ……」
『あまりに一方的じゃの。精神波長が合っても、こうはいかぬ』
「うむ。これを“神憑き"と呼ぶか。今度試そうぞ」
ウッコの鹿がキサラを連れ去った時、キサラはひどい動悸に襲われた。
それが獣と離れたことによる死の兆候ならば、キサラは呆気なく死んでしまうに違いない。
「そ、そんな……どうして、どうして僕が!」
混乱に喚くキサラを、獣が慰めるように鼻先を寄せる。
獣の顔面を叩き、この時初めて、キサラは獣に怒りを向けた。
「お前のせいだっ!何もかも全て!お前がいなければ、こんな事には……!」
獣は許しを請うように切なげに鳴くが、少年はそれを否定し、なにもかもを拒む。
「宗主もウッコ神も、何の救いにもならない!何が神だっ、僕らはこんなものを崇め奉っていたのかっ」
言い切ってから、自分がとんでもない発言をしたとキサラは気づき、青ざめた。
教会最高指導者と、信仰すべき神に盾突いた。
宗主は怒りはしなかったが、無表情でキサラを見ている。
それがかえって恐ろしい。
自分たち一家が、教会に従属していることを思い出したキサラは、その場から脱兎の如く逃げた。