スィートバレンタインデー
霜月透子様の「ヒヤゾク企画」に参加しています。
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「あれ? またチョコレートの香りが……チクショウ! 誰かバレンタインデーの本命チョコレートの練習をしているんだな!」
アパートの部屋のドアを開けた途端にチョコレートの香りが何処からともなく漂ってくるのに、久仁彦はうんざりする。
「どの部屋の馬鹿女が毎晩チョコレートを作っているんだ?」
換気扇のダクトが壊れているのか? 安普請のアパートとだからか? 久仁彦は、クンクンと部屋中を嗅いで回る。
「チェッ! もう少し粘ってアパートを探せば良かったなぁ。彼奴にアパートを追い出されたので、緊急に見つける必要があったし……金が無かったから、仕方ないけど……」
一応は大学生の久仁彦だが、留年して親からの仕送りは途絶えている。同じ大学の彼女の部屋に転がり込んでいたのだが、今年も留年が決定し、卒業するので出ていって! と追い出されたのだ。不甲斐なさは自覚していたが、社会に出て働く気にならないので、大学生という身分にしがみつき、バイトで食いつないでいる。
格安物件の割に小綺麗なアパートを見つけた時は、久仁彦も喜んだのだが、どうにも隙間風が酷い。
「お湯いれるの面倒だけど……シャワーだけだと寒いなぁ」
彼女と同棲中は、あれこれ世話をして貰っていた久仁彦は、ぶつぶつ愚痴りながら、浴槽をザッと掃除してお湯を張る。
「まだチョコレートの香りがする。不動産屋に文句を言ってやろうか?」
両隣りか、上か下の住人だろうと久仁彦は考えるが、引越しの挨拶も省いてしまったので、どんな人かもわからない。
「ああでも、こんなにチョコレートを作る練習をしているのは、本命の彼がいるからだろうな? もしゴツい彼とかだったらヤバイかも……」
口喧嘩では負けない久仁彦だが、腕力には自信がない。もっとマシな部屋に引っ越そうにも金が必要だと、薄い布団に潜り込む。
「やっぱ、ベッドが必要だよなぁ〜! 寒いよ」
思わず久仁彦は、実家のベッドが恋しくなった。彼女と同棲していた時は、全く思い出しもしなかったのにと、自分の身勝手さを笑う。
「明日、ベッドは無理でもマットを買おう!」
東京の冬は寒いとブルブル震える久仁彦にフワリとチョコレートの香りが届く。
「いい加減にしろ! こっちは彼女に振られたばかりなんだぜ!」
ドンと脚で布団を蹴って、怒鳴る。
……ごめんなさい……
「えっ? まさか部屋まで聞こえたのか?」
小心者の久仁彦は、面倒くさいことにならなきゃ良いけどと、布団を頭から被って眠った。
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バイトのお金で久仁彦は、薄いマットレスを買ってアパートに帰ってきた。どうにも寒くて寝難いからだ。これで、今夜からは熟睡できるだろうと、久仁彦はご機嫌でドアを開けたが……
「嘘だろ! 今日もチョコレートを作っているのか?」
久仁彦は我慢の限界だと、両隣のドアホンを押すが、留守みたいで応答が無い。
「上かな? 下かな?」
何となく勢いが削がれて、階段を上り下りする気力も無くした久仁彦は、部屋に帰る。
「どんどん香りがきつくなっているような? 嗅覚は慣れやすいと思うのに変だな?」
二月になり、大学も休みなのでバイトで忙しい。久仁彦は、風呂に入ると買ってきたマットレスの上に布団を敷いて、満足そうに横たわる。
「ああ、やっぱりチョコレートの香りが鼻につく! 眠れないよ!」
自堕落に留年している久仁彦だが悩みはあるのだ。去年までは学費だけは母親が納めてくれたが、今年は期待薄だ。
「どうしたら良いもんか……卒業すると約束すれば、今年も学費は支払ってはくれるだろうけど……大学院に行かせてくれと頼んでみようかな?」
バイトは金の為だと割り切って、結構真面目に働いているのだから、サッサと卒業して働けば良いのは久仁彦にも分かっている。なのに、ズルズルと留年したのは、遅い反抗期なのかもしれない。
……卒業すれば?……
「えっ? 俺、独り言を大声で叫んだのか? それとも幻聴? マジやばい! あそこのバイト、何かヤバイ添加物使ってんじゃないかなって思っていたんだ! やばいよ!」
明日は別のバイトを探そうと決意して、頭から布団を被る久仁彦だった。
***
大学のネームバリューと、久仁彦の幻聴が聞こえるようなやばいバイトは辞めたいという無けなしの熱意で、無事に次のバイト先を見つけた。
「まただ! もしかして、幻聴ならぬ幻臭なのか? チョコレートの香りなんか本当はしてないのか?」
自分の感覚が信じられなくなった久仁彦は、両隣の住人が帰宅するのをドアの内側で待機する。その間も、チョコレートの香りがフワリと久仁彦の鼻腔に届く。
やっと右隣の住人が帰って来て、鍵を開ける音がする。久仁彦は、バッと飛び出して若い男に質問する。
「あのう、隣に引っ越してきたんです。変な質問なのですが、夜になるとチョコレートを作る香りがしませんか?」
「はぁ? チョコレート? そんなのしないけど……誰かバレンタインデーの練習でもしてんじゃない? もう、良いかな?」
怪訝そうな顔をされて、久仁彦はしおしおと部屋に戻る。
「東京の人間って冷たいよなぁ〜! まぁ、引越しの挨拶もしてないけどさぁ」
……駄目じゃん……
チョコレートの香りと共に若い女の声が聞こえる。
「マジで俺やばいわ!」
部屋を飛び出して、泊まらせてくれそうな友だちに連絡する。二回も留年しているだけに真面目に大学に通って無いし、サークルにも属していない久仁彦には、そんな友だちはいなかった。
「チッ、みんな卒業したのか? バイト先ったって、昨日辞めたばかりだし……」
寒空で頭が冷えた久仁彦は、気のせいだったのだと自分を無理やり納得させて、部屋に帰る事にした。
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「何なんだよ〜! 毎晩、毎晩、チョコレートを作る馬鹿女!」
濃厚なチョコレートの香りに、久仁彦は不動産屋に文句を言おうと決意するが……
……馬鹿女だなんて、酷い……
声が聞こえた方向に目を向けると、薄っすらと女のシルエットが浮かんでいる。
「ぎょえぇ! オバケだぁ」
逃げ出そうにも腰が抜けて、立ち上がることもできない。
……オバケ? 酷いわぁ……
久仁彦は耳を塞いで、聞こえない事にする。
「この部屋は事故物件だったのか? だから賃料が安かったんだな! でも、事故物件は告知する義務があるはずだ」
現実逃避する久仁彦だが、女のシルエットが目の前に近づく。
「ひぇえ〜! 俺に取り憑くつもりか! 南無阿弥陀! 悪霊退散! アーメン!」
頭を抱えて震えている久仁彦に、女のシルエットは呆れかえる。
……呪い殺したりしないわよ……
「消えてくれぇ〜!」
久仁彦の叫び声に、女のシルエットは耳を塞ぐ。
……貴方が私の願いを聞いてくれたら、私はこんな部屋でチョコレートを作り続けることを止められるかも……
その声からは、どこか疲れた感じを受ける。
「あんたもチョコレートを毎晩作るのは飽きているんだな」
……失敗ばかり、一年も繰り返しているんだもん……
「もしかして飯マズ女子?」
……失礼ね! でも、死んでるから上達しないのかも。ねぇ、貴方が私の代わりに美味しいチョコレートを作って彼に渡してくれたら、成仏できそうなのよ!……
「俺が男に手作りチョコレートを渡すのかよ! 冗談じゃない、嫌だ!」
変な誤解をされそうだと、久仁彦は首を横に振る。
……由希奈から頼まれていたと言ってよ。バレンタインデーに待ち合わせしたのに、チョコレートがなかなか固まらなくて、それで赤信号を……
「赤信号を突っ切って死んだのか? チョコレートが固まらなかったから? 馬鹿じゃない? それに、お前をひいた運転手にも迷惑だろう!」
……違うもん! 赤信号を待っていたら、心臓が止まったの。前から心臓が悪かったの、走ったのが良く無かったんだわ……
馬鹿げた話だが、バレンタインデーに彼氏にチョコレートを渡そうと頑張った由希奈に少し同情する。
「でも、一年も前なら彼氏も別の彼女を作っているかもよ? それなのに由希奈からチョコレートが届いたら迷惑なんじゃない?」
……貴方みたいなチャランポラン男じゃないもん! 和也は、ずっとあの日からチョコレートを待っているの。だから、私はチョコレートを作り続けているんだけど……
「マジ? ああ、死んだからチョコレート作りの腕は上がらないんだな……なぁ、本当にその和也とかにチョコレートを渡したら、成仏できるのか?」
由希奈のシルエットは、嬉しそうに飛び上がる。
……嬉しい!……
「お前、心臓が悪いのに……あっ、死んでるから良いのか?」
こうして久仁彦は、チョコレート作りに挑戦することになった。
*****
「マジ? 固まらないんだけど……」
基本自炊はしない久仁彦は、鍋やボールなどを買ってくる所からチョコレート作りは始まったのだが……どろどろの黒い液体を困惑して眺める。
……でしょう! 固まらないのよ……
どうだ! と偉そうな由希奈に、久仁彦は何か間違っていると指を立てて振る。
「お前のレシピが間違っているんだよ。チョコレートは元は固形なんだから、熱を加えて液体になっても冷めれば固まるのが自然の摂理だ! 生クリームとか、あれこれ入れすぎなんじゃないか?」
……美味しいチョコレートにしたいんだもん……
「まぁ、その熱意は買うけど……やっぱり、由希奈のレシピ通りだと固まらないよ。ネットで調べてみようか?」
一年間失敗し続けているレシピを繰り返すよりはと、久仁彦はネットで調べて作ってみる。
「簡単で失敗しない手作りチョコ! これなら固まりそうだ」
久仁彦は、ネットで調べたレシピ通りに作る。
「ほら、ちゃんと固まるぜ!」
……でも……
不満そうな由希奈の声に、久仁彦は苛立った。
「十分、美味しいよ」
食べられない由希奈に、見せつけるようにチョコレートを食べる。
……十分? そうかな?……
「確かに普通……でも、バレンタインデーの手作りチョコなんて、こんなもんだろ? 気持ちが嬉しいだけだから」
……特別に美味しいチョコレートを渡したいの……
「面倒くさい女だなぁ〜! まぁ、一年間もチョコレートを作り続ける自体、すげぇ重いけどさぁ」
……酷い! 久仁彦みたいにチャランポランじゃないだけだよ。大学を二年も留年するだなんて、信じられない! 彼女に振られるのも当然だよ!……
「ふん! もうチョコレートなんか作るもんか!」
恋人同士の痴話喧嘩みたいになり、久仁彦はふて寝した。
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結局、久仁彦は毎晩のチョコレートの香りに負けて、難しい柔らかな美味しいチョコレートに挑戦した。
……ねぇ、バレンタインデーまであと三日だよ……
「うるせぇなぁ! そんな事は言われなくても分かっているさ」
ラッピングはあの店のあの品とか、箱はこれ! と由希奈の希望通りに買い揃えたが、肝心のチョコレートがどろどろのままだ。
「固まらない呪いでも掛かっているんじゃないのか?」
……そんな呪いなんか無いよ……
下手くそ! と憐れみの目で見られ「違うだろう! 飯ヘタ女!」と喧嘩になる。
とは言え、バレンタインデーの日が迫っている。喧嘩してても始まらないのだ。
「やっぱり由希奈のレシピで作るのが、本当だって気がしてきた。冷やせば固まる筈だ! 冷蔵庫に何時間も置いておけば良いのかもな」
由希奈のレシピで失敗したのは、初めてチョコレートを作ったからだと、久仁彦は数々の失敗で何となく気づいた。冷蔵庫から出した由希奈のレシピ通りのチョコレートは、固まっていた。
……これを丸めてココアパウダーをつけるの。でも、溶けちゃうの……
「手も冷やしておかなきゃいけないみたいだぜ。こんな寒空に暖房も切った上に、手を氷水につけるのかよ!」
……そう言えば、私、熱が出てたの……
「心臓が悪いのにチョコレート作りで無理したからだろう。馬鹿だなぁ」
手がジンジン痺れるぐらい冷やして、ソッと丸める。
……できた……
喜ぶ由希奈とは対照的に、久仁彦はまだ相手に渡すという難関が待ち構えていると憂鬱になる。それに、渡したら由希奈は消えてしまうのだ。
「やっと厄介払いできるというのに、何考えているんだ? それより、和也が待ち合わせ場所にいるのか? そっちを心配しなきゃな」
フェイスブックで和也の顔は確認済みだが、家まで押しかけるのは御免だ。できれば、未練たらしく恋人の命日に待ち合わせ場所で佇んでいる和也に、チョコレートを渡してミッションを終わらせたい。
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バレンタインデー当日、久仁彦は出来上がったチョコレートを持って、一年前に由希奈と和也が待ち合わせをした公園へと向かう。
……同じアパートからだから、この駅降りたのも同じだよな。という事は……
駅前の信号で死んだのか? と久仁彦は、ふと立ち止まる。そこには、一年経ってもチョコレートを作り続ける由希奈に似合いそうな乙女チックなピンクのバラと白いかすみ草の花束が供えてあった。
……もしかして、和也? 早いよ……
待ち合わせの時間のかなり前に着いた筈なのにと、久仁彦は焦る。赤信号が長く感じて、心臓がバクバク踊る。
……やばい! 心臓が痛い! もしかして由希奈が取り憑いているのか?……
自分で手渡したいとの執念が久仁彦に乗り移らせたのだろうかと、恐怖を感じて、余計に心拍数が上がる。
やっと青に変わり、久仁彦はヨロヨロと公園に向かった。
「彼奴だ!」兎に角、このチョコレートを渡さないと心臓が壊れてしまいそうだ。男にチョコレート渡す気恥ずかしさなんか、構っていられない。
「和也さんですよね。これ、由希奈さんからチョコレートです」
一年前に亡くなった恋人との思い出に耽っていた和也は、突然顔色の悪い男にチョコレートを突きつけられて困惑した。
「貴方、誰ですか?……ちょっと大丈夫ですか?」
「いいから……受け取ってくれよ……」
渾身の気迫を込めて、チョコレートを無理やり和也に持たせる。すると、心臓の痛みが嘘のように消えた。
「由希奈、これで満足か?」ミッションを達成できて、久仁彦は満足したが……和也が自分に抱きついたのには驚く。
「おい、俺は由希奈じゃねぇよ……ちょっと……大丈夫か?」
……ありがとう、これで和也は永遠に私のもの……
濃密なチョコレートの香りが立ち籠める中、足元に横たわる和也を呆然と見下ろす久仁彦だった。
THE END