暑さにやられた
県警本部に戻る前に、そろそろ着替えを取ってこないと間に合わなくなった。
何日か前の洗濯物はとっくに乾いているに違いない。ワイシャツはクリーニング店に出しっぱなしだが、もう店は閉まっている時間だ。
あまり経済的とは言えないがいざとなったらまた新しいのを買うしかない。和泉は割と着る物に関しては神経質な方だ。
マンションの駐車場に車を停める。聡介はすっかり疲れて眠り込んでいた。
父親をそのままにし、家の鍵を借りて5階に上がる。
するとちょうど、隣の部屋から藤江賢司が出てくるところへ遭遇した。
「こんばんは」仕方ないので挨拶する。
「ご苦労様です」
普通『ご苦労様』は目上の人間が目下の人間に使う言葉だ。和泉はムカっとしたが、とりあえず気にしないことにする。
「こんな時間からお仕事ですか?」時刻は午後九時過ぎ。
「いえ、夕飯を買いに行くところですよ」
「……奥さんは、お留守ですか?」
賢司はええ、と答えてから家の鍵を閉めた。
「弟と、夕方頃から急に出かけてしまいましてね。彼女は亭主といるより義弟と一緒にいる方が落ち着くみたいですよ」
そうでしょうね、と思わず口にしかけて思い留まる。
「一つ、お訊きしていいですか?」代わりに他のことを言ってみる。
「何ですか?」
「美咲さんを、どう思っているんですか?」
「……」
「周君のことは?」
賢司は和泉の傍らを通り過ぎ、すれ違いざまに言った。
「お答えする義務はないと思います」
確かにそうだ。和泉は自分でも、どうしてそんなことを訊いたのか不思議だった。
その後、家の中に入って自分の分と聡介の分の着替えを袋に詰め、洗濯機に汚れものを突っ込んで回す。
初めて藤江賢司を見た時から和泉の本能が『こいつは敵だ』と告げていた。
実際、彼に初めて会った日、まるで毒を飲まされたかのように文字通り気分が悪くなった。本当に周と血がつながっているのだろうか?
兄弟なら少しは似ているところがありそうだが。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。
乾いた洗濯物をたたんで紙袋に詰める。そして、ふと思い出してしまった。
別れた妻は一切こういうことをしてくれなかった。
和泉が着替えを取りに戻ると、どうしていつもそんなに忙しいの? と文句ばかり言われた。
どうしていつも帰りが遅いの?
どうしてちゃんと私の話を聞いてくれないの?
私の誕生日をどうして忘れたの?
結婚記念日だってそう!
まさか他に女がいるんじゃないでしょうね?!
矢継ぎ早な彼女の尋問を背に、自分でタンスからさっさと新しいワイシャツや肌着を取り出して袋に詰める。
ああもう、うっとおしい!!
こっちは真面目に仕事してるんだよ!! ロクに仕事もできない、何も理解できてないお前の親父の体面を支えてるのは、自分達下っ端の刑事なんだ……。
成功すれば手柄は全部吸い上げられ、失敗すれば全ての責任を負わされる。
何も知らないくせに自分の要求ばかり押し付けてくるな!
今、自分が抱えている事件に比べて、お前のくだらない話にどれだけの価値があるんだ?!
「……彰彦?」
気がつくと頭上から聡介の声が聞こえた。
いつの間にか玄関先で座りこんでいたようだ。洗濯機は玄関を入ってすぐのところに置いてある。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「すみません、ちょっと楽しい過去の思い出に浸っていまして」
どこがだ? と聡介の顔が物語っている。
和泉は立ち上がろうとして眩暈を覚えた。
おっと、と以外に広い父親の肩に抱き止められる。
「ずっとここにいてもいいんだぞ」
こんな時に優しいことを言わないで欲しい。
「お前は今までも、これからもずっと俺の息子だからな……」
人間は弱っている時に優しくされると、無条件で相手を信じてしまう。
聡介は裏切ったりしない。
でも、水島弘樹はどうだったのだろう?




